止揚がないのはしょうがない。生姜ないのは味気ない。味気なくては師、用がない。つまり、面白くなければ何事もしょうもないが、止揚という考えは今の日本では古臭いものになっているのではないだろうか。
より高次元の状態を求めても、コロナ蔓延もあって引き籠りにならざるを得ず、とりあえず今がよければそれでよいと思ってしまう。ピエール・ガスカールの本書は巻末に彼の年譜がある。ルイ・アラゴンと親しくなったのは、ガスカールの妻がアラゴンの妻のエルザと親しかったからだが、年譜によるとガスカールは30歳でジャクリーヌ・サルモンと結婚している。38歳には次男をもうけたが、40歳で離婚し、2年後にアリス・シモンと再婚した。離婚の理由はわからず、またふたりの妻についての詳細も不明だが、アリスがエルザを知っていたことは小説家であったかもしれない。またアリスと死ぬまで一緒であったかどうかもわからないが、当然離婚、再婚は止揚を求めてのことであったろう。アリスと一緒になってから晩年に向かうほどにいい本を書いたと見受けられるからだ。ふたりの息子はどうなったのだろう。その養育費を払うためにガスカールはそれまで以上に文筆で身を立てる必要があったのではないか。そういうことはガスカールの友人が本書に倣って書くべきことだ。ガスカールより年下の交友としては本書でミシェル・フーコーが取り上げられ、また10歳下の彼はガスカールよりも13年早く死んだので、別の有名人を探さねばならない。それはともかく、フーコーについて書かれた第3章「ザンクト=パウリの夜」は、ドイツの港街ハンブルクへ講演旅行した1960年での出会いに焦点を合わせるもので、その後ふたりが会ったかどうかはわからないが、ガスカールがフーコーの著作を読んでいたことは確実だ。本書にはフーコーの考えに批判的なことが書かれる。それはハンブルクで初めて会った時に語ったことではない。当時フーコーは処女作を書いていた頃で、ガスカールは35歳のフーコーがその若さでハンブルクのフランス文化を紹介する施設の館長になっていたことに感心しつつ、まだフーコーの思想を知らなかった。本書がフーコーについての章を設けるのは、フーコーが狂気、精神病をテーマに研究したからで、本書でガスカールは精神病患者をそれ相応の施設に収容することに賛成している。それは精神を病んで人前で大声を出したり、暴れたりする人を一般人が怖がるという理由と、精神病患者も精神が異常を来している間は苦しいのであって、それを慮って施設で隔離したほうが、患者にとっても喜ばしいからとし、自ら積極的に精神病院に入ったゴッホの例を挙げる。ゴッホは病院でも絵を自由に描き、精神は安定していた。そこにはガスカールの母も精神病院で管理されていれば、自殺せずに済んだのではないかとの思いが反映しているだろう。
フーコーがエイズで死んだことは有名だ。そのこともあったのだろう、彼の思想は日本で大いに流行った。筆者は著作を読んでいないが、その理由はロジェ・カイヨワやガスカールとは正反対の闘争好きな風貌で、思想がかなり極端な気がするからだ。話を戻して、ガスカールがハンブルク駅に着いた時、フーコーはプラカード持参で出迎えた。そして車で各地を案内し、ガスカールが同地を離れる時は見送りまでした。それらのことを本書はつぶさに書く。最も印象深いのは、ハンブルクの有名な売春街をフーコーが案内した時のことで、「ザンクト=パウリ」はその地域の名称だ。当時フーコーはすでに男色家で、若い男を漁っていた。ガスカールと別れる間際、フーコーは悲しい顔をして自分の年齢を言った。ガスカールはまだ35歳の若者が何を言うかと思いつつ、色事は老いるほどに若い相手は縁遠くなるから、フーコーが絶望していたのはもっともだと納得する。男色は早い人では10代半ばには覚えるだろう。本書ではそうした連中が集まるバーの様子が描写され、フーコーが彼らの間で有名であったことがわかる。学者であろうが、女装してバーの常連になろうが、あるいは表向きは全くホモだとわからない若者であろうが、男色趣味を持つ者の間では、魅力は男女の恋愛の場合と同じく、若さで計られるのではないか。あるいは若者が老人に身を捧げるとすれば、男女の場合と同じく、金が介在する。ハンブルク時代のフーコーが夜な夜な男を求めてザンクト=パウリで有名であったとしても、そのことが後年の著作の価値を減じることはないが、著作の意味を考察するうえでは少しは役立つ。35にしてフーコーは絶望していたとしても、それ以前に何度か自殺を企てたのでさほど驚かない。フーコーは街を案内しながら、ブラームスがハンブルク生まれでしかもザンクト=パウリの売春婦の息子であったと言う。当時は売春を伴なう水夫向けの居酒屋で、それが現在の有名なザンクト=パウリの原点であった。ブラームスは売春婦の息子であることを意識に留めながら、美しい音楽を書いて大作曲家という名声と富を得たのは確かだが、フーコーに言わせれば、ブラームスは出自を生涯呪っていた。これの説明がないが、説明するまでもないというフーコーの思いで、また呪いはフーコーも持っていたのではないかと思わせられる。LGBTが大いに話題になる今と違って、60年頃はまだまだ男色は世間から隠しておくべきものという意識が当人たちにあったのではないか。つけ加えておくと、ザンクト・パウリのオカマ・バーで膝を触られたガスカールはそっとその手を退ける仕草をする。ガスカールのふたりの妻はきっと知的な美女であったろう。ホモでない限り、男は誰でも美女好きと思うが、それと同じくらいに上品さと知性がほしい。そんな女性とどこで出会えるかと言えば、早々と相応の男性に娶られている。
第4章「闇の友愛 ジャン・コクトー」ではいかにもコクトーらしい振る舞いが描かれる。コクトーも男色家で、ガスカールと会った時は養子にした30歳の青年と一緒であった。彼はコクトーにお似合いの相手であったとガスカールは書く。美しい青年であったのだろう。一方、コクトーは取り巻きの女性も多く、三島由紀夫のように男女どちらでもセックスが出来たのだろう。コクトーは男前で知性豊か、文章も絵もうまく、稀に見る才能だが、大衆芸能にも大きな関心があり、華やかだがどことなく軽薄な印象もある。それゆえ、今の日本でも大いにファンを増やし続けるはずだが、逆に言えば、絵画や文学などの正当な歴史からはやや外れたところに位置する。ガスカールと会ったのはドイツでのことだ。コクトーは同地で初の絵画の大展覧会を開き、酷評されることは絶対に避けたかった。それで批評を誰かに書いてもらおうとし、ガスカールがその役割を担った。展覧会に合わせてコクトーの映画も上映されたが、映写機の故障でひどい状態となり、コクトーは暗闇の中で「わたしの映画ではない」とドイツ語で何度か叫んだ後、会場を脱走した。その若者らしい傍若無人ぶりにコクトーは気分を20歳に戻したが、そういう行動にコクトーらしさがあった。コクトーがガスカールの存在を知ったのは、ガスカールが最初の結婚をした30歳、つまり1946年に書いた『馬たち』という処女短編集の草稿だ。本書はそれについて詳しく書く。戦時下のドイツ、捕虜であったガスカールは各地から戦争に使うために集められた馬が密集する暗闇に出入りし、その馬についての小説を無署名で紙に書いた。当時紙は貴重であったが、草稿は幸運にも検閲をくぐり抜けてフランスに届き、コクトーを初め、知識人たちが読んで大いに話題になった。それでコクトーはガスカールに最初に出会った時、挨拶代わりに「ああ、馬たちよ!」と顔を輝かせながら言った。ガスカールにすれば大いに光栄なことだが、コクトーはその後ガスカールが小説を書いているかどうかは質問しなかった。関心がなかったのだ。コクトーが関心を寄せたのはガスカールが描写した「馬たち」で、それをガスカールは多くの言葉で説明するが、結語は「闇の友愛」だ。本章がさらに面白いのは、その後にユルスナールのことが書かれることだ。彼女はガスカールに、「わたしは、捕虜だったあなたが、野生の象たちを夢見ていたことを、けっして忘れません。」と書いた絵葉書を送った。馬が象に変わっていたことのガスカールの想像がそれに続き、本書はユルスナールについての一章を設けてもよかった。それにしてもこれら著名な文筆家における、「うわべはしばしば互いに無縁であるが一種の家族における」ところの「闇の友愛なかでの再会」は、羨ましい溜息が出る。みんなしっかりとした仕事をしたからだ。今日で終えるつもりが、書き残した。もう一回投稿する。
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