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●『ショパン―200年の肖像』
瀝することに悩む場合は投稿しないか、かなり遅れて書く。披瀝に悩むとは、思いがまとまらないからだが、どんなことでも直感はあるから、結局そのことを見つめて書けばよいのに、その直感があまりに素っ気ないものと思える場合、どうにかほかに、つまり蛇足的に書くべきことがないかと頭を絞る。



●『ショパン―200年の肖像』_d0053294_01471855.jpg兵庫県立美術館でショパン展が開催されることを知って即座に見に行くことにしたが、訪れたのは最終日の1日前、先月23日の午後であった。予想とは違って若者を中心に大入りの客であった。それほどにショパンの人気は高い。美術館で音楽家の展覧会となると、いったい何を展示するのかと訝るが、チケットやポスターに印刷された肖像画を初め、版画やショパン・コンクールのポスターが所狭しと飾られ、後者は天井近くまで3段に並べられるほど大量で、ほとんど惰性で通り過ぎた。かと言えば真っ暗な小部屋に直筆の楽譜が1点だけ物々しく展示され、ショパンが書いたもののアウラを最上とするもっともなことを改めて知ったが、その楽譜が精密なコピーであるとしても鑑賞者にはわからず、筆者はほとんどありがたみを感じなかった。だが、同曲を知る人や演奏出来る人は涙を流したかもしれず、またその楽譜1点のみで展覧会を訪れた価値があると思ったであろう。ショパンの顔や手を象ったデスマスクはそれなりに生々しいが、そう言えばショパンの手は大きくて指が細くて長い。筆者の手は自分ではそう思わないが、家内はとても小さいと言い、ピアノ向きではないとつけ加える。その一方で今からでもピアノを習えばそこそこ覚えられると気軽に言うが、先生にみっちりと個人教授してもらえればごく簡単な曲は弾けるようになるだろう。家内は何年習ったのか知らないが、ショパンの比較的簡単な曲なら演奏出来る。それはともかく、ショパンの手指を見ると、それを最大限に活用した曲を書いたのであって、同じような指を持たないことには弾きこなせない曲があるのではないか。音楽は美術以上に肉体と直結している。それは美術が視力を要するのに、音楽では必ずしもそうではないことからもわかる。ショパンが天才的な曲を書いたとして、それはそういう曲を弾きこなせる手指があったからとも言え、ショパンよりも指が短い人はいくら努力してもショパン以上の才能を開花させることは出来ないのではないか。この考えの延長には人間の手指の能力を超えるロボットを使えばいいという意見が出て来るが、日本が誇るスーパーコンピューターがショパン並みの1曲でも創造出来るかとなると、答えは今後も否であるはずで、そうであるからこそ、ショパンが天才と呼ばれる。だが、ショパンの曲は努力をあまり不要としなかったものではない。そこを見落とす人が多い。伝わるところによればショパンは時に七転八倒して作曲し、1か月も費やして結局最初の草稿が最もよいと判断したことがあったという。
 もともと才能に恵まれたショパンが努力を重ねた結果、当時の人も驚嘆させる名曲が生まれた。ショパンは子どもの頃から病弱で、姉に妹がふたりいて、母親思いであった。親友のチトゥスは逞しい男で、ショパンは手紙に同性愛をほのめかすことを書いたとされるが、それはさほど不思議でもない。ショパンの父はフランス人で、ポーランドの血は全く入っていないが、10代半ばでワルシャワに行って働き、そこで一家をかまえた。後年ショパンがパリに出てそこで死ぬのは、ワルシャワのような田舎ではどうにもならなかったからで、社交界で認められ、収入を得るには大都会に出る必要があった。だが、ウィーンではあまりぱっとせず、それでパリに行ったが、ロンドンにはあまり馴染めなかった。また活路を求めてアメリカに行くことも考えたが、それを引きとどめる人がいた。パリでは有名な文化人に多く出会っていて、それがショパンの交友の華やかさになっているが、何と言っても有名なのはジョルジュ・サンドだ。彼女は子どもがふたりいたが、ショパンと同棲し、それが足かけ9年ほど続いた。別れて2年後にショパンは39で死ぬが、その夭折の最大の原因がサンドであるとするのは間違いだろう。サンドと別離した理由は、サンドの娘が名ばかりの芸術家のつまらない男と一緒になることに対してショパンが反対したからとされる。そこに多くの男と接して来たはずのサンドも男を見る目がさしてなかったことがうかがえる。女から見て格好いいと思える男の9割は実際はごくつまらないが、女はそれほどに馬鹿な男に浮かれるものだ。男女の仲が騙し合いとして、騙す才能は男のほうが女より上だ。騙された女はそれを勉強と思って覚醒すればいいのに、さらにつまらない男に騙されて人生を誤るが、なかなかそれを認めたがらない。なぜこんなことを書くかと言えば、サンドがどういう女性であったか関心があるからだ。彼女の著作を読んだことがないが、ショパンと別れる理由を思えば、サンドはいわゆる目立つ男なら誰でもよく、本物かどうかを見分ける能力はさほどなかったのではないかと思う。男は自分を引き立てる「お飾り」で、娘の配偶者もそのような男でよかったのであれば、サンドは自分の奔放な生き方を娘にもさせようと思ったのだろう。サンドのように次々と情夫を変える女は今でもたくさんいるはずだが、歴史的に見ればサンドの名が今に伝わるのはショパンと出会って暮らしたからだ。その事実がなければ、男を頻繁に変えなければ満足出来なかった淫乱女の烙印が捺されていたのではないか。もちろんサンドは何を言われようが平気で、女が貞淑ぶっても何の得にもならず、男との情欲を肯定することのどこが悪いという気持ちであったろう。それゆえ、ショパンの寿命を縮めたと見る向きもあるかもしれない。だが、ふたりのことはふたりにしかわからない。
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 サンドはショパンより6歳上で、リストやその愛人の伯爵夫人が出入りする社交界でショパン出会った。サンドは子どもふたりも自分と同じズボン姿で、ショパンはそのことを印象悪く思った。ショパンには結婚を欲している女性がいたが、相手の両親から、ショパンがいかに有名でも、庶民の出では身分が合わないと拒否され、娘もその言葉にしたがってショパンとの結婚を断念した。サンドはその娘の存在を知っていたが、ショパンが失恋の傷心にいることを知り、これまでの情夫とは違う人種のショパンと出会い、男女の仲になろうとした。サンドがショパンをどう口説いたのか、ショパンは手紙にサンドから愛されていることの喜びを書いている。当時は子どもや夫がいても別の男に走る伯爵夫人がいるなど、現在以上にスキャンダラスなことは社交界でよくあったが、女性っぽいショパンと男装のサンドはお似合いで、大いに話題になったはずだ。サンドがショパンに目を留めたのも優男が好きであったからだろう。何より社交界で大いに話題になっている天才で、人々の注目を浴びるには最適な男だ。それほどの男であるので、サンドはこれまでの情夫とは違う真剣な態度になり、8,9年を捧げた。それがショパンにとって長過ぎたのか、あるいはショパンはサンドに見切りをつけられたのか、ともかくサンドと別れた後はショパンに創作の力はなかった。ショパンが死んだ時はサンドは45歳で、若い男を欲してももう無理であったろう。サンドと出会った時にショパンはすでに健康は思わしくなく、彼女はショパンの健康を取り戻させるためにマジョルカ島で暮らしたし、ショパンを子どもと呼んで母親役を買って出た。サンドが望むようなセックスをショパンに強いると命を縮めるとの配慮だが、ショパンは肺を患っていて、あまり濃厚に接すると自分も結核になるとの心配も多少はあったと想像する。ともかく、サンドは最大限にショパンのことを考え、彼の創作がはかどることを願い、看病に努めた。ショパンの創作はサンドとの同棲時代にはかどったが、名曲の割合は気になる。ショパンが最も好きであった曲は、記録が伝えるところによれば、24歳の頃のバラード第1番で、シューマンやクララの前で披露して絶賛を受けた。本展のとあるコーナーで流されていた曲はショパンを代表するもうひとつの曲、スケルツォ第2番で、これはサンドと出会った年の作曲だが、サンドとの出会いが反映したものではなく、失恋から書いたと想像する。となれば、ショパンはサンドとの生活でたくさん曲は書いたが、最高傑作はそれ以前に書き終えていたと言ってよい。それゆえの社交界での評判で、またサンドの注目であった。ショパンのような天才は、恋心の安定があって創作がはかどるのか、その逆かとなれば、何となく後者に思える。そのことをサンドが知っていたとすれば、彼女が母親役に徹したのは理想的な振る舞いであった。
●『ショパン―200年の肖像』_d0053294_01483587.jpg
 当時のパリの社交界に匹敵するものが現在の日本にあるかとなれば、それは現在の有名人が200年後にショパンが暮らした時代のパリにいた有名人と同じほどの業績を残した人がどれだけいるかで判断すべきで、今はわからない。またショパン時代のパリの有名人、つまり社交界にいた文化人はショパンを初め、あまりに圧倒的で、現在の日本に誰ひとりそういう天才級がいないように思う。本展では展示されなかったが、ショパンの肖像画としてドラクロワとサンドを描いたものがある。後年切り離されて2枚の小さな絵になったが、そこに描かれるショパンが憤怒の面相で、死期がそう遠くないことを思わせる。一方のサンドはモダンを先取りし、色気のある現代女性と言ってよく、優しくショパンを背後から見つめている。ドラクロワが描いている時、ショパンは怖い顔をしていたのだろうか。あるいはドラクロワはショパンをなぜそのような表情で描きたかったのだろう。だが、この恐ろしい形相はショパンの激しい内面を反映したもので、ドラクロワにはショパンの音楽がそのように聴こえたのだ。ショパンには夜想曲のような静かな曲もあるが、バラード第1番やスケルツォ第2番はとても激しい。これぞロマン派で、ドラクロワは感情の起伏の激しいショパンを表現したかった。だが、ショパン・ファンはもう少し柔和に描いてほしかったと思っているだろう。それで本展では別の画家が描いた柔和な肖像画が選ばれた。だがドラクロワにすればそのイメージは古い。誰もが好きになる無難な作品はドラクロワの好みではなかった。ショパンの曲はあまりに個性的で、当時はアイルランド出身のジョン・フィールドに似ていると言われたが、それはごく一部であって、ショパンは前人未踏の世界を開拓し、しかもそれは誰も模倣して凌駕出来ない個性を持っている。ドラクロワはそれを見抜き、そして恐ろしい表情のショパンを描いた。ショパンの写真が1枚残っていて、30代後半では老け過ぎているように見えるが、それほどに病気が深刻で、笑顔を作る気持ちの余裕がなかったのであろう。ドラクロワはそういうショパンを描き、また何枚描いても同じような表情になったと想像する。つまり、ドラクロワにはショパンがそのように見えていて、その観点からショパンの音楽を聴くと、柔で女々しいという評価ではなく、即興的に見えながら、こうでしかあり得ない強固な構成に感心し、天賦の才能と努力、そしてどうにもならない人生に対する反応がない混ぜになったところに生まれたことを思う。有名なショパン弾きはたくさんいるが、世界有数の部類に入れば豪奢な暮らしが出来るほどにショパン曲の優れた生演奏は求められている。ショパンはしばしば金に困り、社交界での人気はいつまでも高くはなかった。軽薄な人種は社交界に大勢いて、彼らは常に新しい目立つ人を求めている。今も全く同じで、それが大衆に広がっている。
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by uuuzen | 2019-12-17 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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