要不要で言えば全く不要であるので休館は仕方ないですなと、「風風の湯」の常連客が筆者に言ったのは、4月中旬に福田美術館が新型コロナの拡大を懸念して休館したことを筆者が話題にした時だ。

3月28日が会期初日で、その10日ほど前に内覧会があったと聞いた。その内覧会の様子をまた別の人から耳にしたが、ここでは書かない。昨日の投稿もだが、筆者は見聞したことのうち、公にしてはまずいことは伏せている。そういうことがままって、結局投稿そのものを控えることもあるが、今日取り上げる若冲展は初日に見たのに今頃になって成り行きで何か書いておこうという気になった。去年3月に福島県立美術館で見た若冲展についても感想を書かず、そのうち同館で撮った写真もメディアの故障で全部消えてしまった。初公開作のある若冲展はすべて見るようにしているが、その意味で福島での若冲展も今日取り上げるものも絶対に欠かせないものだが、裏事情をいろいろと知ると、またこれまで知られている若冲画の同工異曲作がほとんどとなると、図録だけの入手でもいいかという気になる。特に本展は初日から1週間ほど後の4月5日に休館に追い込まれ、筆者は初日に出かけてよかったと胸を撫でおろした。もっとも、図録は通販で購入出来ることがネットで報じられ、京都に行けない人には好評であったろう。コロナ拡大が一段落した5月23日からまた見られるようになったが、当初の6月21日までの会期を1か月ほど延長して7月26日までとなり、家内を急かして見に行かせたのは4連休の1日前のことであった。家内は筆者が後期展を見るべきと言ったが、図録を買ったのでその必要を感じなかった。それでこの図録だが、制作されているとは知らず、また館内は撮影が自由であることを知っていたので、筆者はカメラをふたつ持って出かけた。その前に書いておくと、マスクをせずに出かけ、それでは入館出来ないと言われた。館内でマスクは買えたが、お金を持って行かなかったので一旦家に戻ってマスク姿で出かけ直した。最初の展示室でとても興味深い作品があり、その落款を撮影しようとしたが、光度不足とガラス越しでピントが合わない。スマホでは写るかしれず、スマホを持っている人に声をかけて撮影してもらおうと思い、その作品の前で20分ほどうろついた。今日の3枚の写真はその時にその部屋で撮ったものだ。どうしたものかと思いながら部屋を出ると図録売り場が見えた。それに目当ての作品の詳細がわかる。それで図録代のためにまた家に戻ったが、1時間に満たない間にわが家から美術館まで3往復し、汗だくになった。2階にも展示室があり、また桂川に向かって出っ張った細長い部屋は突き当りに若冲の墨画が1点ある以外は、現存作家の靴のオブジェがたくさん並んでいた。この部屋も若冲画で埋めるべきであったと思うが、作品が借りられなかったのであろうか。

噂に聞いていたように大きな美術館ではない。そのため、掛軸ならたくさん飾れるが、若冲画は人気の高さから市場価格が高騰し、しかもほとんど発掘された感があるので、本展のような初公開作を多く含む展覧会はもう無理だろう。最近画商と話し込む機会があったが、絵を買う趣味を持つ人が若冲に関心を寄せ、かなりの高額でもほしいと思っている場合があると聞いた。そうなると、ますます価格は上がり、とっくに庶民には手の届かないものになっているが、福田美術館はおそらく目ぼしい若冲画を探しているだろう。本展の図録やポスターに使われた「蕪に双鶏図」は去年11月の新聞記事によると、個人が鑑定に持ち込み、それで真作と判明すると同時に福田美術館が購入した。持ち込んだ人は回り回って福田美術館を訪れたのであろう。国立博物館や公立の美術館では購入費用はなく、話題作りには新しく開館する福田美術館がいいと、関係者の間で話がまとまったと想像する。下衆な話を言えば、いくらで買ったかだ。海外のオークションや日本での取引額から算定し、たぶん三千万円ほどではないかと思うが、もっと安いかもしれない。というのは、修復に数百万円は要するからだ。若冲画は思うほど高額ではないが、もちろん絵の内容による。ともかく、福田美術館としては若冲の初期の著色画が手に入り、堂々とそれを図録の表紙に使うことも出来たのは、開館早々縁起のよいことであった。それがコロナ禍という予想外のことに見舞われ、同館どころか嵐山、京都全体が閑散とすることになったのは、本展にとって大いに不幸であった。話を戻すと、「若冲誕生」はその著色画を中心に初期作を並べることを謳ってのことだ。実際は前述した、筆者が落款を知りたかった作品以外は初期作と呼べるものはないと言ってよく、題名に偽りがある。これは若冲の初期作はとても少なく、それらの多くを借りて展示することが難しいからだが、たとえ2,3点でも初公開の初期作が見られる機会はめったにない。その意味で本展は大いに意義はあった。副題「葛藤の向こうがわ」は、若冲が絵を描く人生を行くか、家業に従事することに専念するかで迷ったように受け取られる。それは誰にもわからず、また家業を弟に譲って絵事を選んだのであるから、葛藤はなかったと思いたい。とはいえ、こうした客寄せ向きの言葉が必要なことはわかる。展覧会は興行と同じで、見世物だ。そうであるからには画家は誰もが舌を巻く高度な技術が必要で、若冲はそれを理解していたであろう。今は芸術家と自惚れる滑稽な輩が多いが、手仕事の巧みさを誇示する職人芸という思いが江戸時代の画家にはあったはずだ。それは真に絵のわかる万にひとりの理解を思いながら、現実はそうでない平凡な万人を驚かせる必要があったからで、それゆえ若冲画はとてもわかりやすいが、誰も同じ技術を得られず、またその技術を分析すると贋作は容易にわかる。

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