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●『日本の美を描く-平山郁夫展』
9日の夕方に京都高島屋で見た。主催は平山郁夫美術館と京都新聞社だ。これは前にも書いたが、JTBの旅物語というパック旅行に『世界の名画に出逢う休日・瀬戸内2日間』があって、1泊2日で瀬戸内の4か所の美術館を回る。



●『日本の美を描く-平山郁夫展』_d0053294_0331.jpgその中に平山郁夫美術館が含まれている。ネットで見ると木造の落ち着いて広々とした日本建築で、同館は平山が生まれた瀬戸内海の因島の西に位置する生口島(いくちじま)にある。付近にはたくさんの島があるので思い浮かべにくいが、平山が生まれた瀬戸田町からは海を越えて10キロのところに三原市があって、広島県では西寄りで岡山に近い。また島伝いに愛媛県には近く、1999年4月には「しまなみ街道」が開通している。これは愛媛の今治市から広島の尾道市までを島伝いに橋を架けてつなぐもので、この開通が先のパック旅行を可能にした。しまなみ街道はまだ訪れたことはないが、手元に開通記念の切手シートを見ると、来島海峡大橋、伯方大島大橋、大三島橋、多々羅大橋、生口橋、因島大橋、新尾道大橋という、7つの大きな橋がそれぞれ浮世絵風に描かれている。これはその前に発売された大鳴門橋と明石海峡大橋の2枚の切手とデザインを統一したもので、瀬戸内海にたくさんの橋が次々と造られて行ったことがわかる。しまなみ街道のちょうどなかほどに生口島があるので、まさか橋の建設に陰の力を発揮したのではないだろうが、平山ほどの画家ともなれば政府も尽力しておかしくない気がする。瀬戸田町は今年1月からは豊田群から因島市とともに尾道市に編入されたが、それもしまなみ街道が出来て陸つづきになったからだろう。今回の展覧会は朝日生命のカレンダー原画となった11の街道の素描や扇面の原画約100点が中心となっていて、しまなみ街道の橋も全部描かれている。それらは2000年のカレンダーに使用されたので、街道の開通からすぐのことだ。
 平山の着色された素描については去年、佐川美術館を訪れた時のことを書いた中に触れた。今回はそうした素描が主となった展示で、しかも日本の風景がテーマになっているのでそれなりに期待して出かけた。会場に入ってすぐ、4、5人の婦人たちの会話を小耳に挟んだ。「これくらいなら描けそうよね」「いいえ、色がこんなにはならないわ」。これは正直な意見として面白い。実際、どんな絵具を使用しているのか知らないが、緑や赤系の色がみな落ち着いて実によい。これは学校で使用するような水彩絵具を使い慣れた者からすれば、どう混ぜても出せないものであることはすぐにわかる。そしておそらく平山は色を混ぜずに水干絵具をそのまま使っていると思う。そうしたものは写生現場ですぐに着色出来るように、小さな四角い皿に乾燥した絵具が膠で練って塗り込められていて、通常は20色程度がセットになって売られている。濡らした筆で絵具面からすくい取る形で使用するが、平山が使っているものは絵具店に特別に調合したもらったものであるかもしれない。今回展示された原画の素描は古い1990年のものと最新の2001年のものとを比べて、色の変化は見られなかった。もし原色に近い絵具を写生現場で混色することで落ち着いた色を作り出すのであれば、10年にわたってあそこまで色の統一は取れない。そのため、おそらくそのままで落ち着いた色に発色する絵具を使用していると思う。そしてそんな絵具があるのかどうかだが、いずれにしても着色素描における色の調和には感心する。また素描における線は細部を全部緻密には描かず、適当な省略が行き届き、そして着色でそういう不足を感じさせないようになっている。これも前に書いたが、独自の和紙を使用しているようで、とてもよく絵具を吸って滲みやすく、その効果をよく生かしているところも大きな特徴となっている。本来ならば、ある線のところでぴたりと滲みが止まってほしいところが、案外そうはなっていずに、あちこち越境してしまった部分が目立つ。しかし、それが失敗には見えずに逆に個性のある効果と見える。もし線描に沿ってくっきりと色が塗り分けられれば、それこそ写真の絵はがきと大差ない固い印象をもたらす。こうした平山の完成された着色素描の特徴は、長年の間に培って得たもので、一見すれば素人でもすぐに真似しやすいものに見えながら、同じ効果を出すには紙や絵具といった材料をうまく扱いこなす技術が必要で、そう簡単には事は運ばないだろう。
 11の街道は日本の南から順に「国東半島」「宮島」「しまなみ街道」「生口島」「吉備路」「讃岐路」「出雲路」「熊野路」「平泉」「奥の細道」「奥入瀬渓流」が展示されていた。各街道とも地図パネルが掲げられ、どこで取材したかがわかりやすくなっていた。選ばれた風景は絵はがきになるような場所ばかりと言ってよいが、これはカレンダーを前提とすれば当然であるし、また地元の人々の思いを考えると、少しでも観光に役立つような、つまり、絵を見てその場所に行ってみたいと思わせる場所を選ぶ必要もある。平山ほどの画家になれば影響力は大きいからだ。だが、そうしたごく妥当な場所を選んでいるため、どの街道の絵も似た感じがし、描かれた年度の差はほとんど感じられない。これはシリーズものとしてみな共通した雰囲気が求められるからでもあるし、また名所優先のために人々が「ああ、あそこか」とろくに見ようとしないまま納得してしまうことにも原因している。地元の人が見てもどこを描いたかわからないような場所がいくつか含まれるとよいと思うが、そうした場所を平山が探り当てるのもまた大変なことであるだろうし、たとえ絵はがきのような有名で月並みな場所を描くにしても、絵としてまとめるにはそれなりに工夫が必要で、どの絵も現場に立っての臨場感がそれなりによく出ていた。カレンダー原画の仕事を受けながら、それだけに終始せず、一方で別の仕事の想を得ているのは当然だが、たとえば今回の11の街道でも1点ずつ描かれていた扇面画は、別のコーナーに並んでいた10点の扇面画と相まって、独立した仕事として継続的に行なわれているものだ。この10点の内容は、中国やインドなど全部外国のシルクロードの風景や植物などを題材にしているが、そのことからはシルクロードという大きなカテゴリーの中にたとえば日本の街道があり、絵の形としては扇面もあるといったように、いくつかの縦横する切り口に沿って自分の仕事を展開して来ていることが見て取れる。つまり、いくらでも手を変え、品を変えて平山郁夫展が開催出来るということだ。そのことはある程度どのような画家でもそうと言えるが、平山の場合はシルクロードという広大なものをテーマにしているので、作品の可能性はさらに無限にあると言ってよい。
 比較的小画面の素描ばかりでは迫力に欠けるのか、今回は本画も多少並んだ。その中で最大のものはチラシに印刷された月夜に青一色に染まる厳島神社の回廊を画面いっぱいに描いた「月華厳島」だ。300号ほどだったろうか、同寸の下絵も左隣に額入りで展示され、本画とどこが決定的に違うかがわかって興味深かった。ほとんど構図に差はないが、最も手前に実際は見えていたはずの吊り灯籠が本番では省かれた。これはより暗くてひっそりとした感じを出すにはよかった。手前に大きな灯籠が光っていれば、夜がいささか騒々しいものになるだろう。絵があまりに大きいので、まるで実際にその現場に立っている気にさせられたが、胡粉でこってりと盛った後に群青の絵具で全面を塗り潰したようで、描かれた神社の建築構造部分は表面がかなり凹凸がはっきりと見えていた。このこともまた本物の光景らしく思わせるための手段であったかもしれない。水面のゆらぎの様子、そこに反射する灯籠の光など、それなりに見応えはあるが、全体的には大画面である必然性があまり感じられない。大きな絵はモノとしてもそれだけで迫力があって意味は確かにあるが、平山の描く大きな絵は今までの日本画にはない淡白さが支配していて、それがいいと思う人もいるだろうが、筆者には描く動機に乏しいものに見える。これは想像だが、現場での写生と同時に写真もたくさん撮影し、それを元に細部を描いているからではないだろうか。2月上旬に同じ会場で見た『平山郁夫シルクロード美術館展』では、シルクロードの旅における平山を捉えたスナップ写真が何点かあって、カメラを3つほど肩からぶら下げた写真が目を引いた。カメラの重量を思うと大変な労力をかけて旅していることがよく伝わるが、そうして撮影した写真を組み合わせて本画を描く際の参考にしているように思える。平山の本画は線が明確に引かれる素描とは違って、輪郭線がない。そして、それは写真を大きく拡大した時に出来る画像のぼけ具合ととてもよく似ている。輪郭がなくて色の境界がぼけている点は、平山の本画の特徴ある様式として定着しているが、筆者はあまり面白いとは思わない。素描で見せるあの力強い線描がなぜ高価な顔料を大量に使用した本画にはないのかとても不思議だが、それは昔の日本画とは違うものを打ち立てることを意識してのこととも思える一方、仏画にあるような鉄線描を使用した大画面を描くよりかは、輪郭を全部ぼかして描く方がはるかに簡単でもあるからかもしれない。あるいはシルクロードの砂漠を旅して、事物が日本で見るようにあるのではなく、あたかも陽炎のように輪郭がぼけて見えることの反映かもしれない。
 現場の写生だけでは不充分で、画家が写真を撮ることは記憶をとどめるためにもいいことかもしれないが、絵は正直なもので、写真を大いに参考にすればするほどそれが露になって、絵から魂が失われたものになるようだ。写真が登場した時から画家は写真を大いに利用して来たから、平山が仮に写真を最大限に利用しているとしても、それは何ら咎められるべきことではない。それはいいのだが、平山の大画面の絵が面白いと感じられなければ、その原因がどこにあるかを鑑賞者としてはやはり探りたい。破綻がないように画面の隅々まで絵具で緻密に埋めながら、写真のイメージを抽出合成してそのまま拡大したように見えてしまう平山の絵を見ていると、「きれいごと」という言葉がまた脳裏に浮かぶ。素描では独特の線を引いているのに、それが本画には見えないとすれば、線よりも色面に重点を置いていることを示し、それはたとえば東山魁夷や奥田元宋といった画家にも共通したことで、現代の日本画が辿って来た道にそのまま見られることで驚くには当たらない。だが、何かあたりまえ過ぎて面白くない。会場の最後には詳細な年譜があって、通常の文字ばかりのものとは違ってカラー写真をふんだんに使用した大型なものとなっていた。かいつまんで読んだところ、いろいろと興味深いことを知った。いくら有名な画家とはいえ、その経歴については断片しか知らないものだ。絵だけ見れば充分かもしれないが、経歴を知るとさらに多様な見方は出来る。平山には「清水の大伯父」と呼ぶ清水南山(1875-1949)という平山の母ヒサノの祖母の兄がいた。東京美術大学の彫金科教授を勤め、1945年に退官したが、1934年からは帝室技芸官(現在の芸術員会員)にもなった。この人物が平山に画家への道を勧め、古典、文学、哲学など絵の修行以外の教養を必要性を説いた。平山は1955年に前田青邨の媒酌で結婚をしたが、青邨の意見にしたがって、画家として活躍し始めていた美智子夫人は平山を支えるべく絵筆を折った。1962年にユネスコの第1回フェローシップを受領してイタリア、フランスなど5か国を訪問し、以後ユーラシア大陸を横断して日本に至る「シルクロード」の取材旅行を始めるきっかけを得た。1966年6月は東京芸大の第一次中世オリエント移籍調査団に参加してトルコのカッパドキアで調査、修道院の壁画模写もした。これは初のイスラム国訪問となった。また1973年にはイタリアのアッシジの聖フランチェスコ寺院での壁画模写もしている。こうして見ると、後の東京芸大学長の座はすでに生まれから約束されていたものであるように思える。
by uuuzen | 2006-03-13 00:03 | ●展覧会SOON評SO ON
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