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●『生誕100年記念 智恵子紙繪展』
うことに興味がないと言えば嘘になるが、勝ち負けの思いには囚われない。克己に関心はなく、怠惰な自分を特に意識もせず、気の赴くまま好きなことを考え、好きなように行動しているが、長年生きて来たので、自分の好きなことが何かはわかっているつもりでいる。



ここ1,2年関心を抱いているのは女性の表現者だ。そう言えば1978年にエルザ・トリオレの高価な本を買って読んだが、その後彼女のことは名前をたまに思い出すだけで、取り立てて関心はなかったのに、最近また読み始めている。彼女は1896年の生まれでヴァージニア・ウルフより14歳年下だ。ユルスナールは1903年生まれで、エルザより7年遅く生まれた。エルザもユルスナールも精神を病むことはなかったが、今日取り上げる高村智恵子は1885年生まれで、52歳で死に、直接の原因は結核とされるも、45歳から精神に異常を来たした。色紙や包装紙を使った有名な紙絵は50歳から病院で作り始め、およそ400日で千数百点作った。誰でも一度はその作品を教科書その他で見たことがあるはずで、高村光太郎の『智恵子抄』とともに筆者の意識に入ったのは中学1,2生の頃だ。昔筆者が切り絵を始めたのは、ネットで知ったeⅿiさんという甲府在住の女性の作品を見たからだが、一方で智恵子の作品を思い浮かべもしていた。eⅿiさんの作品は正方形の色紙をふたつや四つに折って鋏で切ったものであるのに対し、筆者は最初から色紙周囲に5ミリの枠を残し、左右対称の絵をカッター・ナイフで切り抜いた。智恵子は最初はeⅿiさんと同様、四つ折りにして上下左右対称の絵を爪切り鋏で制作した。それらは鉛筆の細い下描き線をそのまま鋏で切り抜いたもので、何を表現しているかよくわからないものが目立つ。やがて枠に色紙の枠やシンメトリに囚われず、対象を色紙のベタ平面で表現するようになり、また色紙の枚数も増え、水彩画を色紙で表現したようなものになった。色紙の正方形を脱して、より絵画に近い表現になったので、彼女の作を「切り絵」ではなく、「紙絵」と呼ぶのはもっともなことだ。そこには色紙だけではなく、包装紙や新聞紙も使い、ハンナ・ヘッヒのコラージュ(パピエ・コレ)を思わせるが、今気になって調べるとハンナは1889年生まれで智恵子より4歳年下だ。ハンナの作は女性らしさが顕著なものがあるが、智恵子の作は誰もが身近に知るものを表現しながら、あるいはそれゆえにもっと女性らしい。そして鋏で輪郭を切った効果と必要最小限の輪郭線によるせいか、切腹に通じる潔さがある。絵具や鉛筆はやり直しが効くが、切り絵は下絵線を何度引くにしても刃物で一度だけ切るので、作品の輪郭線に迷いが入り込みにくい。もちろんそれは絵の上手な人の場合で、智恵子は元々画家を目指し、油彩画を描いていた。
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 その彼女が画家として大成出来なかったのは、光太郎との貧乏生活で画材を賄う余裕がなかったことがひとつの原因と想像するが、才能に限界を感じていたのだろう。ところが長らく眠っていた絵に対する表現欲求が最晩年に精神を病みながら爆破的に開花した。それは光太郎の存在があったからだ。彫刻家、詩人としての光太郎に創造者として伍することは智恵子の長年の希望であったと思う。結果的に智恵子の名はその紙絵によって不滅のものとなったが、彼女は光太郎がいなければそれを作らなかった、作り得なかったであろうから、光太郎の才能に伍するというよりも、輝かしい、尊敬すべき光太郎に認められたいという、ささやかな、そして彼女にとって最大の望みを死ぬ間際になって遂げた。そこに芸術家夫婦のお互い才能を昇華させた日本最高の典型があり、女性芸術家に関心を持っている筆者にとって智恵子は、また精神に異常を来した彼女は、さまざまなことを考えさせる典型でもある。幸いと言えばいいか、筆者の家内は筆者の何倍も音感がよく、鍵盤楽器を演奏出来るが、作曲の能力はなく、また音楽に対する知識も少ないので、筆者とは何かを競う間柄ではない。家内が人前での演奏を好んでも、筆者とは目指すところが違うので何らかまわないが、これが同じ仕事に従事していれば、お互いの才能がわかって喧嘩が絶えない気がする。ザッパの妻ゲイルは音楽のことは何ひとつわからなかったので、ザッパは安心して創作出来たのではないか。音楽家同士のシューマン夫妻の例もあるので、ゲイルがステージで演奏出来る才能があればマザーズの一員となってツアーに参加したかもしれないが、そうなると子育ての問題が生じ、ザッパは音楽以外の問題を抱えたと思う。つまり、ザッパの音楽はゲイルが家庭をしっかりと守ったことゆえの産物だ。その点を光太郎智恵子夫婦に当て嵌めると、光太郎が創作しやすいように智恵子は家事に従事したのであって、光太郎がザッパとすると、智恵子はゲイルに相当するが、智恵子はゲイルと違って作品で自己表現を望んでいた。それが何かによって抑圧され続け、そのことが精神の不安定のひとつの要因となったとは考えられまいか。自己表現として他者が鑑賞出来る作品を作ることが好きな人は、他人が何を言おうとやるのでなければものにはならないが、そういう女性を妻に持つ芸術家は妻がひとつのストレスになるであろうし、またそのことで自作が独特のものになることもあるだろう。芸術家肌の女性は鋭敏な精神を持っているから、そういう女性を妻とすると、才能の面で妻が夫と競いがちになってどちらかが精神的に参ることが多いだろう。筆者は妻に創作家であってほしくはなく、したがって現状に満足しているが、智恵子の光太郎への思いは、夫と競うのではなく、光太郎の智恵子に対する詩への、絵画による返答、返礼で、夫に認められたいという愛情表現であった。
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 昨夜智恵子の作品を「切り絵」と書いたが、光太郎は「切り抜き絵」と呼んだ。また最近入手した智恵子生誕100年記念の図録では「紙繪」とされているが、「切り紙絵」とすれば実態がわかりやすい。この図録は多くの人の文章があり、智恵子の写真も多く、長年の智恵子への関心を一気に満足させてくれる。もちろん最大の驚きは智恵子の作品で、序文に河北倫明が、「何か見てはならぬものを見たと思われるほど敬虔な感じをともなう……」と書くように、純粋さ、気高さ、美しさといった卑近な言葉を総動員させて賛辞を送りたい高貴さがある。こういう作品は小学生でも即座に作り得るが、智恵子の作は対象を凝視し、的確にそれを表現しようとする素直さと気迫があり、質量ともに空前のものだ。ただし、展覧会では特に出来のよいものが選別されているはずだ。智恵子はどの作品にも題名をつけなかったが、今日の最初の写真の右の青い正方形のものは「あじさい」と題され、ほとんど抽象画と言ってよい。こうした作品から具体的に何を表現したかよくわかる作品へと移行するが、これは才能が進化したとは一概に言えず、さまざまな画風を試したと見るべきだ。また光太郎のネームヴァリューで過剰評価されていると考える人がいるかもしれないが、夫婦生活の果てに作られたもので、光太郎の存在は無視出来ないとしても、光太郎の芸術とは無関係に存在している。痛々しさを感じさせる、半ば素人っぽい作品を作る女性はたくさんいるが、智恵子の紙絵のどこがそうした作品と違うのかとなれば、それは智恵子が以前は油彩画を描いていたことと、そして紙絵は多くの人に見せるのではなく、光太郎ただひとりに見せるために作られたものであるからとしか言いようがない。図録にはセザンヌやゴーギャンを好んだという彼女の油彩画も紹介され、それはそれで興味深いが、多い日はおそらく1日に3,4点は作ったはずの紙絵が、女性らしい感性を見せ、また色合いも構図も形も、息を飲ませる美しさがある。同じような作品はさまざまな布を使ってのアップリケの作品で有名な宮脇綾子がいるが、作品の色合いによるのだろうか、彼女の作品は智恵子のそれのように「冴え」に乏しく、代わりに茶の間の団欒の温かさがある。彼女の作品は生前盛んに展覧会や本で紹介され、多くの女性が布と針と糸を使った創作の楽しみを覚え、それが現在のパッチワークやキルト作家の全盛につながったと思うが、単なる暇つぶしではなく、また金儲けではなく、さらには名声を欲する行為でもなかった智恵子の紙絵のような作は、世には出て来ない。逆に言えば、女性が膨大な時間と金を使って作る布を使った作品は芸術ではないということで、では柳宗悦が愛したような民藝的味わいを持つかと言えば、それもほとんどあり得ない。智恵子が欲したのはただ光太郎の笑顔と褒め言葉で、作品が内蔵する敬虔さは、他者と競うところには生まれにくい。
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 智恵子がどのようにして紙絵を作ったかはおおよそ知っていたが、図録の文章は涙を誘う。精神がおかしくなった彼女が、光太郎が差し入れする果物や花、それに紙絵の材料を使いながら、製作中も製作後も作品を誰にも見せず、光太郎が見舞った時にだけ箱を開けて取り出して見せ、光太郎が喜んで驚くと、その様子にしきりにお辞儀していたことだ。作品はコンクールであれば審査員を感心させるために作り、その先にはより多くの人に見てもらいたい思いがある。「より多くの人へ」という思いを満たすのが、ブログでは訪問者数で、ツイッターではフォロワー数だが、智恵子には光太郎しか目に入らなかった。ふたりの間には子はいなかったが、洋行帰りの彫刻家であり詩人の光太郎と画家を目指していた智恵子は、互いに補い合うものを感じていたのだろう。智恵子は福島の造り酒屋の長女で、学業優秀で17歳で東京に出て日本女子大に入る。『青鞜』の平塚らいてうらとの写真があり、同誌の表紙絵を描きもしたが、26歳で3歳年長の光太郎と親しくなり、2年後に一緒に暮らす。ふたりは病気がちで、また貧困な暮らしが長年続いたが、それに不満を言う智恵子ではなかった。智恵子の精神異常の原因は不明だが、光太郎と暮らして以降も無口でかなり変わった女性と見られていたようで、年譜には実家の家業が傾き始めた頃から精神が不安定になり、42歳で実家が破産して一家離散となった以降は健康も低下したとある。紙絵の製作は初夏から夏にかけての狂躁状態を除いて続いたとあり、精神が落ち着きを取り戻した時は興奮時のことを思い出さなかったのだろう。図録に昭和8年にふたりで撮った小さな写真がある。そこでの智恵子は服毒自殺を図った後の精神異常は感じられず、また他の写真の丸っぽい顔立ちと違って現在の美人のような顔だが、逆にそのことに狂気性が隠れているように感じる。光太郎の弟が、智恵子の死に化粧について、「二十七、八にしか見えない位、実にきれいで、あどけなく、可愛らしかった……」と書いている。これは誇張ではなく、そのとおりであったに違いない。それほど純粋で、それゆえに精神を病んだ。光太郎が岩手大学精神病科の博士に智恵子の紙絵を見せたところ、3枚だけ精神異常者の作品と認められると語られたそうだ。その3点がどれかわからないが、残りは精神異常とは無関係と読み取るべきで、智恵子の作品を精神異常者ゆえに独特の迫力があると捉えることはよくない。精神が異常な時は作品制作どころではなく、落ち着きを取り戻した時には人が変わったように光太郎を喜ばせるために製作に勤しんだのであって、その前提に創作する契機となる事物に接しての感動があり、それは精神的に正常でなければ得られない。筆者は他者の心を左右出来ると自惚れておらず、他者を驚かせるため、喜ばせるためと思って作品を作ったことはなく、自分が納得出来ればそれでよい。
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by uuuzen | 2020-07-26 23:59 | ●本当の当たり本
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