財産が人というのは、人がする仕事があってのことだ。仕事をしなければ穀つぶしと言われる。それに赤ん坊が生まれても育てる経済的余裕がない場合は殺されもする。江戸時代にはそうした間引きが普通に行なわれ、また栄養不足や病気で子どもがよく死んだので、人口が増えなかったとされる。
収入を求めて働きに行くことが仕事とは言えなかった江戸時代は、誰もが毎日やるべきことはたくさんあったが、自然の恵みが豊かな村の長は経済的余裕があって、ある程度は好き勝手な生活が出来たのではないか。筆者は小学生の頃に小原庄助さんの歌を知ったが、その歌詞「朝寝、朝酒、朝湯が大好きで、それで身上つぶした」に、好き勝手に生きて財産を失う大人がいるものだなと思ったが、常識人と違うことの出来る自由な人生もあることを知って、一方で「細く長く生きるよりも太く短く生きる」というよく聞いていた言葉を思ったものだ。これが「細く短く」では悲惨だが、「短い」人生は何歳まで生きることかに疑問を持ちながら、筆者は古希まで2年を切る年齢になって、「細くて長い」人生を体現したことになる。ネットで知ったが、小原庄助さんの歌の「朝湯」は本来は「朝ぼぼ」であったが、それでは風紀上よくないというお上の考えによって変更が命じられた。入湯も性行為も夜にすべきというのが常識らしいが、湯に入るとさっぱりするから、仕事始めにひと風呂浴びるのはいいではないか。セックスも気持ちをさっぱりとさせ、1日の仕事始めにはいいと考える向きもあるだろう。だが、「朝湯」はひとりで済ますにしても、「朝ぼぼ」は女もその気にならなければならず、この歌の「朝ぼぼ」は男の自分本位さを表わし、またそうであるから身上をつぶしたのはもっともであった。さて、今日は1か月ほど前に見た今村昌平監督の1983年の映画について書く。ビデオデッキが最近動かなくなり、本作を見ることを諦めていたが、2階の寝室に14型のテレビデオがあることを思い出した。画面はとても小さいが、昔はそれでTVを見ていたし、本作を見始めると画面サイズは気にならなくなった。公開当時、本作の最後に近い場面を1分ほどTVの紹介番組で見たことがある。主人公である母親おりんのが緒方拳演じる息子の辰平によって山に捨てられるその場面は思った以上に長く、また克明に描かれていた。緒方は体格がいいが、おりん役の坂本スミ子より1歳下で、彼女を背負って険しい山道を行くのは大変であったろう。それに坂本は現在も生きているのに、緒方は2008年に71歳で亡くなった。寿命はわからない。69歳のおりん役を47歳で演じた坂本は現在84歳だ。また本作はカンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞したが、その表彰式から帰ってすぐ、坂本は大麻か覚せい剤か、とにかく薬物で逮捕され、本作に傷をつけたと監督が激怒したことがニュースになった。
坂本は小原庄助さんのように自分の好きなことを好きな時にすることに罪悪感がないのだろう。それは芸能人にありがちで、「太く短く」生きることを表向きは旨としているが、彼女は「太くて長い」人生で、人はさまざまだ。とはいえ、彼女は昔はTVに歌手以外としてもよく出ていたが、その事件があってからは露出は激減したように思う。本作になぜ坂本が抜擢されたのか理由は知らないが、昔なら田中絹代が演じたであろうし、そう思って調べると1958年に木下惠介が田中を使って撮っている。本作を見た後ではそれも見たいが、おおよそ想像がつく。それに本作は撮られた時代を反映してのことか、性行為の場面が多い。とはいえ、筆者は長年深沢七郎が書いた原作の短編小説が気になりながらまだ読んでおらず、本作が小説のどの部分を重視したかがわからない。先日深沢のことを調べたところ、彼はクラシック・ギターの名手で、若い頃からリサイタルを何度も開いている。そして筆者の世代なら顔をよく知っている丸顔に黒縁眼鏡の丸尾長顕に勧めら、また丸尾の指示によって何度か書き直して、42歳で本作を書き上げた。それが大絶賛され、筆者は小学生に入る前にこの小説の話を周囲の大人から聞いていた。大人になってからは開高健や赤瀬川源平などが言及していることを知り、深沢七郎の顔に強い関心があったが、顔を知ったのはネットで調べた先日のことだ。山梨県の出身で、本作の小説は現在の笛吹市辺りの伝承を元にしている。映画では雪深い信州のどこかの設定で、また時代は江戸末期だろうか。都会から遠い寒村であれば、村は全員が知り合いで、牽制し合って掟を守ったはずで、山梨の笛吹辺りでは今でもよそ者は馴染みにくいのではないか。ほとんど冒頭近くで違和感を覚えたが、それは辰平が雪積の中、狩猟に出て鉄砲で兎をしとめ、それが鷹にかすめ取られる場面だ。それが原作にあるかどうか知らないが、ないとすれば動物も生きるのに必死という厳しい自然を描くために監督は必要と考えた。また本作は学校で見た教育映画の大人版と言ってよい動物の性交場面が随所に挟まれ、人間が食べて性交する存在であるに過ぎない動物であることが強調される。その根源的なことを赤裸々に描いたことがカンヌで評価されたのであろう。そういう根源性のうえに芸術その他のいわゆる贅沢とされる文化があるが、根源性を強調すると逞しさが付与され、本作はヘルツォーク好みであろうと思う。ただし、本作は人間が持つ狂気性ではなく、村の掟にしたがういわば普通の人々が描かれる。またそういう社会でもずるい者はいて、その行為が発覚すると村人全員から制裁を受ける。本作のもうひとつの大きな主題は、他に娯楽がないこともあって、夜這いが行なわれていたことだ。夜這いは日本全国であったとされるが、柳田国男はほとんど無視して研究しなかったとされる。
話を冒頭の狩猟に戻すと、鉄砲を持つほどの農家は比較的裕福であったと思うが、耕す土地の少ない、また豪雪地帯では食料確保のために狩猟専門に生きるマタギ以外でも所有は許されたのかもしれない。いかにして食べ物をより多く確保し、家族を増やすか。それは虫や獣と変わらない過酷な暮らしだが、人間は道具を作って使う。先日取り上げたヘルツォークの「失われた1万年」では、ウルイウ族が大きな葉で作った大型の容器がジャングルに捨てられているのを白人が見つける場面がある。ウルイウ族は移動して暮らすので、またいくらでも素材のある植物であるから、そうした手作りの入れ物は使い捨てだ。またそうしても素材は自然に戻る。一方、日本ではスーパーのレジでビニール袋が有料化されたが、それは環境破壊の根本的解決には無意味だ。便利さを追求した挙句、自分の首を絞めているのが現代人で、ウルイウ族のほうが地球に優しく、また賢かったことが明らかになった。人間は進歩などせず、むしろ退化一方であると振り返るべきなのに、金の亡者が政権を司るからには破滅に向かうしかない。現代文明を知らないウルイウ族が編むという行為を知っていて、その植物で作った容器は、日本の国立民族学博物館がほしがるものだ。「失われた1万年」で使われた映像が撮られた1981年、みんぱくはアマゾンの未知の民に接して、その生活の道具を収集しようとは思わなかったのかと言えば、そうではなかったはずだが、接することが困難な人々となれば、彼らの生活の道具を博物館の収集品にしたいために現地に赴くことはあり得ない。その大型容器が初歩の編み方によるとはいえ、それなりに美しいものに思えた。その次の場面では白人たちは金属製の容器でウルイウ族の心を解きほぐすが、それらは大量生産の安物だ。数分で数千年先の文明を知った彼らは、数分で独自性を失い、俗物的地位に貶められたと言い替えてもよい。同じような手作りの生活は、本作ではほとんど描かれないが、さまざまな道具やそれを作ったり、扱ったりする知恵などにあったはずだ。何が言いたいのかと言えば、柳宗悦が民藝と称えるものが豊富で、またそれらに囲まれていた暮らしは健康で豊かであったという見方だ。現在の笛吹のどこに行っても本作の姥捨ての伝承を感じさせるものはないだろうし、それは姥を捨てず済み、大いに国全体が豊かになったと言える一方、本作で描かれることは形を変えて現在も見られ、むしろ事情は悪化している場合も多い。簡単に言えば自然から離れ過ぎて本能が歪んで来ている。どうにかして生きて行こうとすることが当然であるはずの人間が、今では自殺者が多く、生への執着が希薄になって来ている。おりんが1年の余裕があるのに息子に山に連れて行ってほしいと願うことは、生への執着を失ったためかと言えば、家族に対する愛のほうが大きいからだ。
江戸時代の京都でも寝たきり老人の世話をどうするかの問題はあって、誰かが面倒を看た。そのため、山に親を捨て置く行為はよほどの貧しい地域だが、現在でも死んだ親をそのまま隠して親の年金を長年もらうといった事件があり、貧困ゆえに老いた親が受ける事態は憐れで残酷なものだ。その貧困は必ずどの社会にもあって、若者が結婚せず、将来は孤独死する人が増えると予想される現在もそうで、ネットでは孤独死や自殺を否定せず、また安楽死待望論がよく目につき、誰でも70歳で山に捨てられるという本作に描かれる村の掟は、サバサバして大歓迎という向きもあるだろう。介護老人施設が現代の姥捨て山と言われ、そこでは多大な労力が費やされる。同じ労力をもっと生産的なことに使って経済を回せばいいと考える人があろうが、本作はそういう現在の老人問題を問うてもいる。田中絹代主演の作品でもその点は同じはずだが、1958年から1983年への四半世紀は日本を大きく変え、同じ小説を元にしても、また監督の資質の差を除外しても、ふたつの映画では違いが如実に表われていると思う。本作の村人たちは一言すれば「えぐい」生活をしているが、そのえぐさは洋の東西を問わず、時代に関係なくあり、それゆえ本作はカンヌで最高賞を獲得した。ただし、本作のえぐさは本能をどう処理するかというやむにやまれないことで、他人のものを奪うといったいわゆる社会悪は、村人全員から制裁を受ける。警察という存在がなく、村人たちが相互に監視し合い、「村八分」という言葉に支配されている社会だ。どこかの家族が急に特別裕福になることはあり得ず、そのような羽振りを見せると、後ろめたいことをしているに違いないと目される。そして実際そのように悪いことをする村人がいるが、彼らはある夜、一家全員が村人に捉えられ、生き埋めにされる。悪事は村人たちの食糧を盗んで蓄えていたことで、またそうであるので子だくさんだが、食料を平気で盗む人間は始末されて当然というのは、ひとつの正義だ。金さえあれば何でも手に入る現在は、便利で豊かになったと言える一方、その金をどうして得るかが問題で、複雑に絡んだ資本主義の仕組みの中で貧富の差が拡大する。そして真面目で正直な者は馬鹿とされ、狡猾であるほどに金持ちになって醜悪の権化のような顔つきになる。そういう貧富の差がない本作で描かれる村は、ギリギリの暮らしぶりではあるが、現代よりも幸福であると言うことも出来る。村人たちの間で大きな貧富の差が生ずると、70歳になって元気で裕福な人は山に捨てられることを拒否するはずで、村の掟は成立しない。そこが少々疑問で、姥捨ての対象から免れた金持ちの高齢者がいたのではないか。そういう矛盾の例外を描くと物語は別の様相を抱え込む。それで誰もがギリギリの生活をしている中でのおりんの立派さに焦点を合わせる。
おりんが自分の歯が揃っていることを恥じ、前歯を石臼にぶつけて折る場面がある。寿命が現在より短かった昔とはいえ、高齢になっても元気な人はいた。彼らが村の掟にしたがって息子に背負われて死に行くところに悲しみがあり、またじたばたしないおりんの潔さ、崇高さがある。辰平がおりんを山に置き去りした帰り道、同じ村の男が父親を捨てに来ている場面を目撃する。父親は置いて行かないでくれと懇願するが、息子は紐で縛られた父を崖下に蹴落とす。同じ親を捨てるにも、おりんは辰平を思い、辰平は後ろ髪を引かれるのに対し、別の家族では慈悲がなく、ゴミ捨て扱いだ。人間にはそのどちらも具わっている。結果的に同じ行為でも愛がそこにあるかないかで、死ぬ者に恨みが、死なせる者に悔いが残りにくい。本作の最初のほうに、田畑に泥にまみれた嬰児の死体が転がっている場面がある。どこの家が捨てたものかは明らかで、村人は謗らない。お互い様であるからだ。堕胎が困難な時代は間引きが普通に行なわれていた。また妊娠はどの家にもあることだが、誰もがセックス出来るとは限らい。今も一生童貞や処女の者がいる。本作では前者を辰平の弟として左とん平が演じる。彼は口が猛烈に臭いことで村中から嫌われ、夜這いしたくても女に拒否される。それでおりんが同世代のお婆さんに筆おろしを頼み込む。そういう笑い話は、誰からも相手にされない男のセックスへの欲望をどうにかしてかなえてやりたいという親心や、またそれを受け入れる優しい女性がいるという、現実にありそうなことで、またあるだろう。おりんの村は運命共同体で、大都会ではそういう関係が作りにくく、本作に温かさを感じる人は多いだろう。また辰平の息子はある若い女を家に引き入れ、女は妊娠するが、前述のように彼女は食料を盗み、それが発覚して村人によって一家全員埋め殺される。そのことに辰平の息子は喚き悲しみ、盗みを密かに村人に知らせたと母のおりんをなじるが、しばらくすると息子はまた別の女を引き入れて性行為に励んでいる。若者はそのようにすぐに相手を見つけてセックスするものであることは、永遠に変わらない。そういう若者が子どもを産み過ぎると、間引きして捨てるが、やがては親を山に捨て、自分もその運命を受け入れる時が来ることを本作は描く。セックス相手がおらず、収入が乏しく、結婚出来ずに孤独に暮らす人は、何のために生まれて来たのかと本作を見て思うかもしれない。自殺にしろ孤独死にしろ、死ねば誰かが遺体を始末せねばならず、誰にも迷惑をかけない人生はあり得ない。その意味で山に捨てられれば烏が死体をついばみ、自然に優しく、最も合理的な死に際なのだろう。禅僧の仙厓は死に際して「死にとうない」と言ったが、それが人間であり、またかわいらしさと受け止め得る。生きることは残酷と愛に挟まれた二河白道だ。あるいは残酷は愛で、愛は残酷で、生とは激しさだ。
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