進み行く文明から取り残されていたアマゾンの熱帯雨林の放浪部族に、ヘルツォークは関心を抱いて本作を撮った。南米の密林の撮影は1982年の
『フィッカラルド』で経験していたので、ヘルツォークの考えは長年筋が通っている。
そこには太古と現代のつながりに対する関心と、人間とは何か、人間の本質は変わって来たのかそうでないかの問いがある。何年か前に少し書いたことがあるが、TVでニューギニアの密林に住む成人男女を東京に連れて来てその様子を見るという、いかにも俗物プロデューサーが考えそうな番組があった。男は電車を蛇と言い、スーパーに並ぶ豚や牛の肉をどうのようにして確保したのか不思議に思い、女は百貨店の婦人服売り場できれいなスカートを見てそれをほしがったものの、故郷に帰ってもそれを履いて作業は出来ず、夫に諭されて諦める場面が印象的であった。その番組を見た人は日本に生まれてよかったと思い、未開拓の地に裸同然で住む彼らを憐れんだであろう。彼らが元の生活に戻ってさして不満もなく過ごしているのであればいいが、大都会で見たものをたぶん悪夢と感じているのではないか。アマゾンの密林は近年激減したようで、昔スティングがアマゾンの密林を守れと訴えたことは、少しも効力を発せず、今なお地球温暖化まっしぐらだ。その影響で日本は季節がおかしくなって来ている。時間が過ぎ去ることはあらゆることが変化することだが、それを進化と思うのは人間の勝手で、進化には退化がつきものだ。人類が将来滅亡するのであれば、今この瞬間は退化の真っ最中にほかならない。ユルスナールは人間が最も幸福であった時代をローマ時代のユスティアヌス帝の治世であったと思っていたが、『10ミニッツ・オールダー GREEN』の冒頭には、ユスティアヌスの後を継いだマルクス・アスエリウスの『自省録』から次の言葉が紹介される。「時は川である。抗いがたく流れゆく万物の川。ひとつが視界に入るやそれは一瞬に過ぎ、すぐに次が取って変わる。だが、それもまた一瞬に流れゆくのみ。」 そして本編の各短編の冒頭に川の流れが映し出されるが、『10ミニッツ…』の監督たちはギリシア・ローマの源流につながっている自負があるのだろう。そしてヘルツォークの本作はヨーロッパ文明によって滅ぼされたブラジル奥地の少数民族の話だ。しかもアマゾン川が映し出され、先のマルクス・アウエリウスの言葉とつながっていて、ヘルツォークは『自省録』の言葉が使われることを知って本作を編集したように感じる。それにしても筆者が羨ましいのは、『自省録』が少しも古びていないことで、現代に量産される膨大な書物の何冊が同書に比肩する価値があるのかと思う。どのような作品もそうで、歴史的時間から見れば、どれも生まれては瞬時に消えて行く。そう思えば豪雨で氾濫した川が家を飲み込むのは自然で、自然に反すると人間はしっぺ返しを受ける。
マルクス・アウエリウスはストア派として禁欲的に生きたが、ローマは彼から衰退に向かった。そうであれば、あまりにおそまつな現代日本の俗物的政治家ばかりの日本はとっくに歴史は終わっている。がらくたの山に囲まれて、がらくたの思いが詰まっている現代人は、偉大な芸術を生めるはずがない。そこで少しでも知を愛し、長年読み継がれている本を筆者は読みたいが、『10ミニッツ…』はそんなことを改めて考えさせた。ヘルツォークの本作を見るために買った『10ミニッツ…』なので、本作については最後に書くことを決めていた。原題「Ten Thousands Years Older」は「現代人より1万年年上」の意味で、本作で取り上げられるウルイウ・ワウワウ族を指す。1981年にブラジル政府は金鉱掘りの跋扈を防止する目的で、イギリスの撮影隊と一緒に彼らに接触した。本作ではその時に記録したカラー映像が少し使われる。男女とも素っ裸で生活し、金属を知らず、やって来る白人を攻撃する用心深さだが、白人たちは鍋や包丁を枝にくくりつけて彼らに敵ではないことを知らせ、数週間後に間近で接する。その時にアルミの鍋釜などの生活用具を与えたが、撮影隊は隠し撮りした。今日の最初の写真は右の男タリが女たちとは違って警戒していて、その様子がとても男らしい。ヘルツオークは彼らが数分で数千年を経験したと語るが、最初の接触から1年経たずに住民の半分が水疱瘡と風邪で死んだというから、侵入した白人は疫病神であった。これはインカ帝国など、南米の文化が白人によって滅ぼされたことと同じで、20世紀中に南米のみならず世界中の未知の部族は皆無になった。ヘルツォークがウルイウ族に会いに行ったのは2001年で、81年に撮影隊に向かって毒矢を放った戦闘士のタリとその兄のワポのふたりが後半にインタヴューに答える。20年の歳月は筋骨逞しかったふたりをすっかり老けさせ、陽気な面も見せるが、さびしさは隠し切れない。ふたりは大都会を見てさまざまな文明の利器を知り、また白人女とセックスもしたが、今でも奥地に住んでいる。もちろん昔のように裸ではないが、成長してから白人の文明に接したので、馴染めないことや理解出来ないことがある。それにタリは結核を患った。それも都会人と接したためだ。タリにとって文明の短期間の進化の経験は戸惑いをもたらせるものであった。日本の田舎で育った人は、戦前は都会に馴染めないことが多かったのではないか。TVが登場した戦後生まれになると憧れる人が増え、富士正晴の本にあったが、田舎出の人のほうが都会では目立ってお洒落になる。それで東京の人口は増加一方で、最先端の文化を享受したがっている人が圧倒的に多いが、テレワークが可能となると東京に住む必要はなくなり、また新型コロナによって都会が忌避されることになるのは、本作のタリが示してもいる。
本作の最後でタリはアナログの目覚まし時計を手にして、不思議な顔をしながらその音を聞き、文字盤を見つめる。都会文明のさまざまな物はおおよそ理解が及ぶし、また月の満ち欠けや太陽の動きについてはもともと知っているが、時計が何を意味するのかがよくわからないのだ。これは時計や時刻をあたりまえのように受け取っている人にはわかりにくいことだろう。だが、なぜ1日を24時間に、そして1時間を60分に区切る必要があるのか。それを突き詰めて行くと確かに理屈はわかるが、たとえば正午が1分や2分違っていても生活に何ら影響がない。筆者は正午が1、2時間ずれていてもかまわず、ほとんど時計を意識しない生活をしているので、毎日定時に出勤する人は狂気に見える。好きな時に起きて好きな時に寝る。そういう生活をしている筆者は、タリのように1万年前の人間と気分はさして変わらず、時刻どおりに生活している人よりも不幸とは全く思わない。タリがそこまで思ったのかどうか知らないが、時計が必要な理由がわからないことは理解出来る。正確な時刻を知って何になるというのだろう。一昨日書いたゴダールの「時間の闇の中で」は、「永遠の最後の瞬間」の最後の場面に、磔にされて息絶えるキリストの顔が使われた。西暦はキリストの誕生を元年とするが、ゴダールはキリスト以前は「永遠」であったと言いたいのだ。これはウルイウ族が永遠的長さを生きて来たのに、白人と接して「永遠」が終わったことを側面から説明している。タリが目覚まし時計を意味不明のものとして玩ぶ光景は、彼が「時間に見捨てられたように感じている」と説明される戸惑いをうまく表わしている。永遠から目覚めさせられ、現代に馴染めないその姿は、幸福とは何かを考えさせる。時代最先端の文明に生きることが人間にとってより幸福か。それを言うと、いわゆる「勝ち組」の俗物は蔑みの眼差しを向けるが、いつの時代もそういう俗物が大多数で、彼らが世の中を動かして来ている。日本ほどその典型の国はないだろう。タリがキリスト教に因む名前を持つ甥のパウロと、ボートに黙って並び座って川を進む場面は特に印象深い。ふたりの思いは異なり、パウロは部族出身を恥じ、ポルトガル語を好んで使い、都会に定住することを望んでいる。小さな国は大きな国に飲み込まれる。少数民族はいずれ淘汰される。ブラジルはより多くの人種が混血しているほうがよいとされる。日本も人種の混血を経て現在があるから、1万年後には別の国と同化しているはずだが、その時にも純血を唱える右翼が騒いでいるだろう。タリは白人女とセックスはしたが、それは興味本位の一時の戯れで、元の奥地に戻って兄と暮らしている。パウロ世代は白人女と結婚するだろう。そうなればブラジルはますます混血が深化し、より理想的な国民となる。1万年のウルウイ族の生活は、異文化と接してほとんど一瞬に消えた。
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