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●健気に咲き続ける白薔薇VIRGO、その14
愛はすべての肉体と知能を集めた全書物よりはるかに価値があるとジャン=リュック・ゴダールは言った。昨夜そのゴダールの言葉が出て来る短編映画「時間の闇の中で」について書いたが、ゴダールの言う慈愛はどういうものか。



これはそう難しく考える必要はない。去年の今日は伏見の京都アニメスタジオが放火され大勢の社員が死んだ。放火した男のことを今日家内が話してくれたが、不幸な生い立ちで、同情の余地が感じられた。だが、こういうことを書くと必ずもっと不幸な人でも立派に生きていると言う人がいる。あたりまえだ。そんなことは百も承知だ。それに恵まれない境遇は珍しくなく、筆者の母も20代半ばで子ども3人を抱えた母子家庭となり、誰からの金銭的援助もなく、想像を絶するという言葉がふさわしい貧乏のドン底であった。それでも母は、「父親のいない子だからあのようにだらしない」と他人から後ろ指を指されることを断固拒否し、とても厳しく躾けられた。厳し過ぎたと言ってよい。だが、筆者が中学生になるとがらりと優しくなり、筆者が絵を描く仕事に将来就きたいという望み以外は何事も反対しなかった。結局筆者は母が最も反対した道に進んだも同然で、その意味では親不幸だが、貧しくても気分よく生活していることに安堵するようになった。何が言いたいかと言えば、筆者は母の慈愛に恵まれていた。だが、京都アニメ放火犯はそうではなかった。彼が大火傷を負って病院で治療を尽くされて意識を回復した時、「こんなに親切にしてもらったことはなかった」と語ったが、この言葉を聞いて筆者は胸が苦しい。なぜ彼がやけっぱちになるまでに優しい言葉をかける人がいなかったのだろう。その点、筆者はとても恵まれていた。周囲の大人は筆者をよくかわいがり、「どんなに立派な大人になるか見ているからね」という励ましの言葉をかけてくれた人は何人かいる。もちろん立派にはならなかったが、境遇に拗ねてやけになることは考えもしなかった。ゴダールのいう慈愛は、親が子に対するものを含め、人が他者に与える深い愛のことで、確かにそれはすべての書物よりも大事なものだ。ところが慈愛が得られない人がままいる。そういう人は他者に慈愛を与えるだろうか。慈愛を知らない人は、具体的にどういうことをすれば慈愛なのかという質問をするだろう。だが、その人は誰かを愛したことはないのだろうか。愛されたことのない者は愛することを知らないのかもしれないが、誰でも母親から生まれ、幼ない頃は母から無償の愛を与えられる。ところが先日20半ばの女性が3歳の子を餓死させた。そしてその女性もひどい境遇で育ったとのことで、不遇が連鎖した。京都アニメ放火犯もそうだ。派遣切りなど、人を代えの効く部品のように扱うドライな世の中では、慈愛はどこで得られるというのか。そんな贅沢なものに縁がないと思っている人は多いだろう。
●健気に咲き続ける白薔薇VIRGO、その14_d0053294_00332831.jpg 慈愛は与えると減るものか。何でもコスパで考える若者がいて、彼らにすれば慈愛を与えることは時間も意識も熱意も消費するので、何か見返りがあるべきと思っているのではないか。筆者が思うに、慈愛を施すことは理屈ではない。気づけばそうしているといったもので、本能だ。ただし、筆者は誰かに慈愛を意識して与えているかと言えば、それはない。ただ何となく普段から優しく思い、接した時にもそうしたい人がいるが、それは誰しもで、友愛と呼ぶべきものだ。慈愛はもっと深い。それで慈愛を意識せずに毎日の生活に追われている人がほとんどで、慈愛と聞くと嘘っぽくも感じる人は多いだろう。それでも慈愛の言葉があるからには、慈愛はある。そこで神を想って宗教を信じる人がいるが、ゴダールが言う慈愛は思考では得られず、相手が深く愛されていると感じることで存在するものではないか。それがあるとすれば無償であるからで、コスパという言葉が入り込む余地はない。先ほど家内は「人のために働き過ぎ」と言って、筆者があまりにいろんな人から便利屋のように何かを頼まれることを揶揄した。安請け合いのし過ぎと自分でも思わないでもないが、どうしても理不尽なことは断るから、出来る範囲で無償で動いている。人と接することはどちらかと言えば嫌いだが、そんな性質も50を超えて変わった。自分の仕事に自信がついたからだろう。金儲けはさっぱり駄目でも、誰にも出来ない仕事をやれる自信はある。そうなると、相手がどのような名士や金持ちでも何とも思わない。だが筆者が親しみを覚えるのはそういった人たちではなく、どちらかと言えば社会の片隅にいてひっそりと生きている人だ。筆者もそうであるからだ。話を変えると、3日ほど前、裏庭の白薔薇に蕾がひっそりとひとつ出来ていた。昨日はまだ小さく、咲くのは数日後か、あるいは蕾のまま枯れるのではないかと思ったが、今朝雀に古米を与えるのに庭に出ると、雨露にたっぷりと濡れて開花していた。健気と言うにふさわしい。前回の開花から2か月で、鉢植え状態でほとんど成長していないように見える。直植えする場所がなく、あっても風通しが悪いので枯れる。この白薔薇は筆者と家内しか見ないもので、開花はすべて写真に撮ってブログで紹介している。栄養をほとんど与えず、今朝咲いたものも撮影時に首を摘まむと葉が虫にすっかり食べられていた。殺虫剤があるのにそれを噴霧出来ないほどに雨が続き、今日も少し降った。慈雨という言葉があるが、土地に潤いをもたらす雨が家屋を壊し、人を殺すほどに大量に降ると、慈愛も過剰に注げば何らかの弊害が出て来るのではないかと思ってしまう。慈愛を与えるほうは自分勝手であるとも言え、与えられたほうはありがた迷惑だと罰当たりなことを言うこともあるだろう。白薔薇が咲くのは筆者の世話ではなく、神の采配で、そう思えば筆者が生きていることも慈愛に包まれている。
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by uuuzen | 2020-07-17 23:59 | ●新・嵐山だより(シリーズ編)
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