弘法にも筆の誤りという言葉があるので、筆者のような凡夫がこのブログでいい加減なことを書いて後で気づき、直すことは恥ではない。それに、なるべく資料的なことには触れず、思っていること、感じたことを中心に書くので、間違うことは少ない。
自分の姿は客観視しにくく、筆者は家内から「かちこち悪い」かどうかを訊くしかないが、先ほど家内は筆者はやることが多いので、体調を壊さずに元気で長らくいてほしいと真面目な顔で言われた。年齢的にお互い人生の夜で、家内は思い残すことはないと言うが、筆者がひとり残されると困るので、先の家内の言葉は筆者の思いでもある。結婚50年目の金婚式まではお互い元気でいることをとりあえず目指しているが、駆け落ちで暮らし始め、ささやかな儀式をしたのは2,3年後で、金婚式はいつから数えればいいのかわからないが、家内が家を出た日からとすれば8年後の七夕だ。それはさておき、今日はフランスのジャン=リュック・ゴダールの作品だ。これも何度か見なければよくわからない。10分未満の映像のコラージュで、いかにも彼らしいが、筆者はさほどゴダールの作品は知らない。『勝手にしやがれ』はいいとして、気になって昔ビデオを買って見たことがあるが、本作と同じ印象で、わかりにくさのようなものがゴダールの特徴なのだろう。わかりにくさは商業的でないということだ。つまり、作品を見た後であれこれと考えさせることを意図している。そのため、考えることが好きな人向きで、筆者は本作について考えたことを書かねばならない。本作は最初と最後に夜のことが語られる。それで「時間の闇の中で」という題名となっているが、「時間の闇」とは何か。「闇の時間」なら筆者のような老境を指すが、「時間の闇」は若者にもある何かであろう。人は振り返りたくない過去のことを「暗黒の歴史」とよく呼ぶが、そのことではないに違いない。そこで思うに、闇の中では何も見えないから、思い出すことのない記憶のことではないか。人生に意味があるとすれば、それはよき思い出以外になく、それで心が動く対象を求め、格好いい異性に見惚れたり、本を読んだり、音楽を聴いたりする。だが、印象に残らないような平凡な日々が時間の闇としても、その中には他者には無意味だが、時に意味ありげに思えることがある。筆者はそういう何気ない事柄をブログによく書く。そしてそれが人生という気がしている。そのように思ってもゴダールから間違いとは言われないだろう。ある作品から何をどう感じてもそれは自由だ。それでも一方では筆者の平凡な日々の平凡さの中に、特に気になっている人や事柄はある。それも筆者の内面が抱えていることで、他者にはわからず、「時間の闇」と呼んでもよい。先に「よき思い出」と書いたが、それは対象に慈しみを抱くことで、「時間の闇」を照らすのはそれしかあり得ない。何だか宗教じみて来たな。
本作は「最後の瞬間」として、若さ、勇気、思考、記憶、愛、静寂、歴史、恐怖、永遠、そして映画についての映像と、順に言葉が取り上げられる。映画が最後にあるのは当然で、ザッパ流に言えば「映像こそベスト」だ。これは写真ではなく、シネマで、ゴダールが写真のことをどう思っているかはわからない。今日たまたまロラン・バルトの『明るい部屋』を思い出した。20年ほど前に図書館で借りて読み、手元にないので確認出来ないが、バルトは写真を「かつてそこにあったもの」が写っていると定義した。これがデジタル時代になってそうとも言えない事態になった。去年投稿した筆者42歳の
プロフィール写真は、今は
AIで女性や老人に変化させることが出来る。それはフェイクだが、その写真のみを見せられると、実在する人物かと思う。映画は二種あって、記録映画は写真と同じように「かつてそこにあった」事実を伝えるが、俳優を使う映画はかつてそこにありながら、それは演技であって事実ではない。ゴダールがそのことをどう思っているのだろう。というのは本作ではヒトラー政権下のユダヤ人が骸骨のように瘦せた死骸となってトラックに積み上げられる事実の映像があり、また若い男優が母親に銃殺される演技の映像がある。ゴダールはいずれの映像も迫真的であればそれでよく、同じ意味合いを持つと考えているのだろう。だが、本作では芒が生い茂るゴルゴダの丘にマリアら一行が嘆きながら走るモノクロ映像があり、磔にされたキリストの顔はいかにも現代の白人らしく、迫真性は感じられない。ゴダールにとって迫真性はさほど意味がなく、そこにどういう意味のある行動が映っているかが問題なのだろう。それはさておき、前述した10の「最後の瞬間」は誰でも持っている。ただし、それが最後かどうかはわからないまま、あるいは自殺でない限りは意識せずに死んで行く。たとえば誰かと会えば、それはもう最後のことかもしれない。何事もそのように一期一会と思って生活している人は稀だが、実際は毎日何かと永遠の別れをしている。筆者は本やCDをたくさん持っているが、死ぬまで二度と繙かないものが大半のはずで、またそうであるほうが新しい出会いがあっていいと言える。本作の「思考の最後の瞬間」では、女性がデカルトの書物など、ガリマール版の本を黒いビニールのゴミ袋に詰めて捨て、パッカー車がそれを押し潰す場面がある。その場面で語られるのは、「無は語れないからこの世に無数の書物が存在するが、すべての肉体と知能を集めてもひと握りの慈愛に満たない」という言葉だ。慈愛とは人に対してのものだが、本の著者も人であるから、本への慈愛もある。ただし、蔵書を金に代え、それを民に配って幕府に楯突いた大塩平八郎は民に慈愛があった典型的人物で、ゴダールが言いたいのは、思考してわかったつもりになるよりも行動なのだろう。
本作の冒頭は夜の焚火の場面で、若い女性が老いた男性に質問する。「夜はなせ暗いの?」「昔は空も若く、明るく光り輝いていたが、時とともに暗くなって行った。夜空の輝く星々の間には、失われたものしか見えない」暗闇に失われたものがあり、それは見えないということは、人は老いるほどに星のようにいい記憶だけ鮮明に覚えていると解釈してもよい。また老いるほどに苦楽をたくさん経験し、人生が暗く、つまり夜になって行くことのたとえでもあるが、監督としてその現実を捉えると、映画作りによって自分の人生と世の中とを明るくして行くことだ。最後の「映画の最後の瞬間」では、夜に白いスクリーンが風に煽られてへしゃがりながら、何度も長方形の張りを取り戻そうと瞬時に動く場面がある。今日の3枚目の画像はそのスクリーンがへしゃげた状態で、それが元に戻るのは強力なバネの支えがあるためだ。この場面は映画が不屈であることを意味していて、とても印象深い。そのスクリーンの場面に続いて、彫刻のような若い女性と老人らしき人物がモノクロで映り、直後に「最後の映像」と題して、蝋燭の火で闇の中で浮かび上がる老人の顔のような素描が映るが、それらが誰かはわからない。その後、「「夜」と彼は言い、「夜」と彼女は言い、「夜」と彼らは言う」という字幕に続いて、等身大の人形を操る2,3人の男の数秒の映像があるが、筆者はその人形劇についても知識がない。この人形劇が本作の「最後の映像」であるのは、人は操られているも同然という意味であろうか。誰しも自主的に動いて生活していると思っているが、そうであれば人間はなぜ老いて夜になり、またどのようなこともいずれ最後のこととなるのか。時間からは逃れられず、若さも勇気も思考も記憶も愛も静寂も歴史も恐怖も永遠も、そして映画も失う。そう思うと、こうして本作の感想を好き勝手に書いている筆者はまだ明るさは残っている。また、映画は本来暗闇で鑑賞するもので、闇の中で明るい存在として冒頭の焚火での男女の対話を対比させれば、映画は若くて光り輝いている存在となる。その映画を今は明るい部屋でTVやパソコン画面で見る。その人工的な明るさは自然のフェイクで、元来フェイクの映画はさらに本質を露わにするようになったと言える。フェイクないし作ったものが真実味を帯びる。あるいは真実そのものだ。本作は本物の映像と演技が混ざっているが、どちらも映像になれば記憶になるのであって、それは闇を照らす。ゴダールは本作を72歳で作った。映画への愛は衰えず、人は本作によってゴダールの「映画こそ人生」を感じ、また自分の人生の記憶を反芻し、さらに明るい記憶を欲する。そういう前向きのメッセージを読み取ることを監督は意図したはずで、何事においてもの「最後の瞬間」が先送りされていると思えばよい。つまり、夜であっても死ぬ直前まで明るさはある。どうにかまとめたな。
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