勅使が来たと思ったのか、94歳の理髪師は毎日仕事してはいたが、事情が理解出来なかった。1か月ほど前、朝のTV番組が数年前の放送を再び流し、その後のことも紹介していた。
大阪市内で94歳の主とその孫娘が長年同じ場所で散髪屋を経営していて、近所では老舗として有名であった。主は年齢の割にはきれいに老けていた。毎日客相手に立って仕事をしていたからだろう。主はTV局が作成した「となりの人間国宝」のシールをもらったのはいいが、本物の人間国宝すなわち重要無形文化財と勘違いしたらしい。取材後、主は孫娘に、天皇から式典に呼ばれた時は行く体力がないので代理で行ってほしいと頼んだそうだ。シールをもらってから体調がおかしくなって、確か1か月後に亡くなった。長年同じ仕事をして来てついに国から認められ、人間国宝に認定されたことに夢心地になったのだろう。そのシールを手わたしたタレントは罪なことをしたようだが、考えようによっては主にとっては人生最後の大きな華で、いい気分であの世に旅立ったと考えてよい。一見かくしゃくとしていたのは本職に関してだけで、そのほかのことは年齢相応に耄碌していたのだろう。床屋が本物の人間国宝になれるはずがないことは、街中を歩けば次々に同じ店があることから常識的にわかるが、94歳であれば、職人仕事に長年携わって来た意味において人間国宝の資格が与えられると思ったとしてもそれは自然だ。それほどに仕事が人生であった。それは人間として理想的な生き方ではないか。94まで元気で生きることも珍しいのに、客の髪を刈るのであるから、「となりの人間国宝」の言葉にふさわしい人物であった。本物の人間国宝になれば、工芸分野であればその作品が高値で取り引きされ、遠い将来にそれが国宝にならないとも限らないが、その分野の裾野が大きく広がっている、つまり同じ職種の人がたくさんいるべきで、人間国宝は携わる分野を後の世代に引き継ぐ使命がある。だが陶磁はいいが、染織はますます手作りの時代ではなくなり、四半世紀前から人間国宝の重みが減じて来たように感じる。枯木も山の賑わいと言うが、ある分野に多くの携わる人がいて、その中に特に目立つ才能がいる状態が理想だ。それでたとえばツイッターでは、誰よりも目立ちたいナルシストはフォロワーが万単位になることを画策するが、ツイッターという枯木の山は玉石混交であり得るだろうか。石はたいてい自分を玉だと思っているし、若いうちはそれもかわいいが、還暦を過ぎればたいていの人は自分よりうんと若い世代が人生を謳歌して玉の気分でいることに気づく。その時に自分が枯木の山の一本の枯れ枝だと認めたくないことは、傍から見て醜いか美しいか。老醜の言葉はあっても老美とは言わず、筆者はみっともないことはしないと自戒しているが、これがそう簡単ではない。ともかく、若い頃だけは自分が美しいと誇る特権はある。
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