恋が破れた話なのかどうか、今日取り上げる作品は最初から最後まで画面が4分割され、各画面が別の時を映し出すので、一度見ただけは意味がわからない。筆者は4,5回見たがまだ完全に理解出来ていない。
オムニバス15作では最も感想を書きにくく、そう思ったので後回しにして来た。監督はイギリスのマイク・フィギスで、名前を初めて知った。イギリスらしい映画であることは確かで、部屋がいくつもある大きな屋敷が舞台となっている。画面の解像度は粗いが、あえてそうしているのだろう。主人公はマイクという名前で、監督の自伝的な要素があるのかもしれない。フィギスはミュージシャンとして有名なようで、映画監督になってからはスティングを俳優として起用している。またファッション・デザイナーのヴィヴィアン・ウェストウッドを紹介する短編の記録映画も撮っていて、本作の主人公のようにどちらかと言えば中流から上の階級出身だろう。もちろんイギリスの中流は日本のそれとは比較にならないほど裕福で、日本で言えば上流に相当する。ビートルズのように労働者階級出身が有名になってサーの称号をもらうことはあるが、中流以上の階級出はよほど才能があって有名な人物でない限り、労働者階級出とは交際しないのではないか。ビートルズが64年に格式のある会場で演奏した時、裕福な人は拍手ではなく、宝石を鳴らしてほしいと冗談を言った。そこには労働者階級の皮肉と絶望がある。ビートルズは女王から勲章をもらい、また億万長者になったが、出自は変えられず、ジョンはビートルズ後に「労働者階級の英雄」という歌を作った。それはさておき、全国ないし世界的に有名になると、名士とされ、上流階級の人物も接近して来るはずで、才能を自覚する者はその才能に人生を賭けてみようとする。スティングはそのようにして成功し、億万長者にもなった。数年前のTVでは自分が功成り名を遂げたことを自負し、上流社会の人物と同じと思っていることが紹介され、その番組を見た家内は何となく嫌な気がしたと言っていた。つまり、スティングのそういう思いに労働者階級出の上昇志向の卑屈な面が感じられるからだ。それはさておき、48年生まれのフィギスはスコットランドに近いカーライル出身で、生後間もなくナイロビに移住、8歳からイングランド北部のニュー・カッスルで育ち、同地の芸大に入学してバンド活動をしていたというから、中流の下くらいの階級ではないか。70年代は前衛演劇に没入、80年に王立演劇学校で映画を学び、84年の監督作品で注目を浴びる。映画監督としては36歳がデビューで、それまでの多彩な関心と活動が映画を独特のものにしていることは本作からもわかるが、本作のようにあまりに凝った作品はせっかちな人は時間を損したと思うだろう。筆者は手元にDVDがあり、また15作すべての感想を書くと決めたので、繰り返し見た。
冒頭の場面は今ならかなり古く見えるデスクトップパソコンで脚本を書いている男が映る。主人公のマイクで、本作の脚本を書いている。彼はキーボードから離れて脚立に乗り、背後の本棚の上にある何かを取って床に投げる。たぶんウィスキーの小瓶だろう。そして脚立を降りて別の部屋へと順にさまよい始めるが、城のような屋敷だ。長い階段があるので、2、3階建て以上だ。その屋敷でマイクは生まれ育ったが、恋が破れたことがおそらく理由でその家を出た。そしてどういう理由かわからないが、屋敷に戻って来て過去を回想する。昔のままの家具調度で、マイクはいわば透明人間になって、少年や青年期の自己の行動を見る。そして親し気に過去の自分に語りかけるが、現在のマイクはそういう心の余裕を持っている。少年期のマイクは屋敷の中で友だちと戦争ごっこをしていて、彼は現在のマイクに悩みを打ち明ける。友だちがヒトラー役、自分はチャーチル役で遊んでいて、自分はいじめられると言うのだ。現在のマイクは、戦争に負けるのはヒトラーなので落ち込む必要はないと励ます。少年時代のエピソードはそれのみで、本作では少年はあまり重要ではない。最初から最後まで登場するのはひとりの若い女性だ。彼女はマイクの恋人か妻だが、本作の最初のほうで下着姿の彼女は青年マイクとベッドの上で戯れる。それはモノクロ画面で、後に彼女が出て来る場面ではカラーになるので、青年マイクとの仲がまだおかしくなっていなかった頃だろう。彼女が屋敷の階段を激しく駆け上がる場面は、屋敷の中で不穏なことがあったことを感じさせる。彼女がある部屋に入ると、マイクの妹か彼女の妹かわからないが、より若い女性が老いた女性に慰められながら泣いている。たぶん夫か恋人が死んだのだろう。あるいはマイクの以前の恋人か。無言で部屋を出た彼女はさらに階段を駆け上がり、広い部屋に入ってピアノを弾き始める。そこに青年マイクがいて、やがて彼女は仰向けに寝転んだマイクに馬乗りになるが、マイクは彼女に詫びながら、「出来ない」と言う。性的に不能になったのだろう。その理由はわからず、彼女は悲しんでマイクから離れる。これが本作の核となるエピソードで、青年マイクは彼女と生活をともにすることを止めて屋敷を去った。その後の彼女がどうなったかは描かれないが、自殺したか他の男と一緒になったか、いずれにせよマイクには過去の思い出で、彼女のことを脚本に書くまでに辛さは癒されている。マイクが性的不能になった理由は、マイクに新しい恋人が出来たのか、あるいは彼女に飽きたのか、そこは自由に想像すればよい。結局ふたりは相性が合わなかった。そういう男女の関係のほうが、長年夫婦として暮らすことよりもはるかに少ない。その意味で、本作のマイクと彼女の件は、背後にレクイエムのような沈痛な曲が流れはするが、全く月並みなことだ。
本作でとても奇妙な場面は、4画面の上ふたつが使われる50年代のTVのブラウン管だ。そこにモノクロでお婆さんとお爺さんの顔がクローズアップで映っている。彼らはマイクの両親だ。そしてブラウン管の中で生きていて、ふたりで会話し、下男のトニーに飲み物を持って来るようにと言いつける。ふたりは屋敷に住む亡霊と思えばよい。部屋を順に歩く現在のマイクは、ブラウン管がそれぞれベッド上に置かれた部屋を見つけ、下男にその部屋の存在を初めて知ったと笑顔で話す。そしてブラウン管を両腕で抱えながら両親と話すが、マイクに久しぶりに会った両親は、マイクにマーティンはどうしているかと訊くと、マイクは死んだと言う。そしてマイクはひとつ質問があると言いながら、それをせずに部屋を出る。残された両親は、マイクが質問しないまま去ってしまったと言い合う。両親に訊ねたかったことは何か。両親はマイクと違って高齢になるまで仲よく暮らした。その秘訣をマイクは知りたかったのではないか。だが、両親はとっくに死んでいて、ブラウン管の中で生きている。本作はマイクの少年、青年、現在と三つの時代が描かれるのに対し、両親は高齢者としてのみ登場する。やがてマイクは高齢者になるが、両親のように伴侶がいるかどうかは、現在からはわからない。死ぬ間際に伴侶がいることは、本人たち以外にとっては幸福とは言い切れないだろうが、本作では両親が仲よくしていて、平凡だが満ち足りた様子だ。最初から最後まで執拗に老いた両親が画面に映ることはマイクを心配していると解釈してよい。両親がいたのでマイクが生まれた。そのマイクの人生は波乱がありながら、今は脚本を書いて少年期や青年期を回想している。10分間の短編であるので、どのようにも解釈出来るが、両親がやがてマイクと対話する場面は、マイクが彼女と別れたことに残念な思いを抱いていることを強調する。だが、ブラウン管の両親は皺だらけでグロテスクだ。本人たちは満足していても、他者はそういう高齢の夫婦をあまり羨ましいとは思わないだろう。それはそれ、これはこれで、現在のマイクは過去を冷静に見つめながら、現在を肯定している。またそうでなければ生きては行けない。人間は他者から見てどのような不幸にあっても、本人は案外幸福と思っている。不幸と思えば敗残者であることを認めるからだ。筆者は自分が不幸か幸福かとは考えない。幸福ですと公言することは、本当は幸福に懐疑的であるからで、幸福な人は幸福をことさら意識せず、吹聴もしない。その意味で筆者は真に幸福だ。本作では現在のマイクが少年マイクと青年マイクに声をかけて励ます場面がある。青年マイクは現在マイクに少々図に乗った言葉を返すので、彼女との関係が終わることは当然でもある。青年期はそのように恋に有頂天になり、そして失恋するものだ。青年期はいつまでかとなると、本作の青年マイクは30歳ほどか。
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