傾いたり流されたり、家や橋が氾濫した河川で流される。今年の梅雨は降雨量がまた観測以来最大で、大きな水瓶が割れたような土砂降りが続く。ビートルズの「レイン」でジョン・レノンが歌っている。
「雨が降るとみんなは走って頭を隠し、死んだ気分。空が晴れればみんなは日陰に逃れ、レモネードを吸う。ぼくは雨でも晴れでもかまわない。」このどこか東洋的な雰囲気の曲が書かれた60年代半ばと現在とでは、明らかに地球環境が変化している。浸水被害は晴天になれば後始末が大変で、天気に思いが左右されないと歌ったジョン・レノンでも、被害に遭えば達観は出来ないだろう。今回の豪雨は主に九州に集中しているが、これはたまたまで、日本中どこで同じように降ってもおかしくない。生きることはロシアン・ルーレットだ。いつどういう事故や災害に巻き込まれるかわからず、ジョンの「レイン」の歌詞の心境が正しいように思う。この曲の当時、ジョンはジョージ・ハリソンとともにインド思想に染まり、そのことがビートルズの曲の新たな特徴になった。アメリカのアラン・ホヴァネスが戦前にインド音楽に関心を示し、ビートルズが登場するまでに東洋的な響きの交響曲を書いていたが、生のインド音楽がアメリカの若者に歓迎されるのはビートルズ以降だ。今日取り上げるイタリアのベルナルド・ベルトリッチ監督の短編はインド思想が根底にあり、またインド人がたくさん登場する。ベルトリッチの東洋趣味は代表作である87年の『ラストエンペラー』で初めて全開したのではないだろうか。彼は41年に生まれ、ビートルズと同世代だ。その東洋への関心はビートルズが巻き起こしたインド音楽ブームの延長にあるのではないだろうか。何となくそのように思ったこともあって、先に「レイン」について書いたが、西洋人が考える東洋思想というものが、東洋人には誤解が混じるとはまでは言わないまでも、西洋に行き詰まった挙句、仕方なしに東洋に助けを求めたように見えることがある。それは逆に言えば東洋人が西洋の真似をしても、西洋人から猿真似と思われることかもしれない。脱亜入欧を唱えた福沢諭吉が今の日本を見れば、日本は生活の多くは入欧したかもしれないが、知識人は英語で詩が作れず、またその関心もなく、中国由来の漢字を使って地域的にはアジアから逃れることは不可能であって、脱亜入欧がまだ途上にあると思うか、あるいは今後も完全には不可能と諦めるのか、そのどちらであろうか。それはさておき、ネット情報によるとベルトリッチは20代前半はコミュニストであったそうで、62年の『革命前夜』はその頃の自伝的映画という。共産主義に染まったことがその後の人生にどのような影響を及ぼしたのかとなれば、『ラストエンペラー』は明らかにつながりがある。また共産主義からの転向後の旅路が彼のフィルモグラフィーとみなすしかなく、そう考えると本作はよく理解出来る気がする。
ベルトリッチが求道者となって確かな道を歩み続け得たかどうかだが、筆者が知る限りにおいて彼の作品の多様性もあって、一本の確かな道は把握出来ない。また確固とした道を見つめていたとは思いにくいが、それは前述のように西洋に行き詰まって東洋に目を転じたところで、皮相的な理解に留まることが落ちであるからだ。そしてそのことを充分に知りながらもなお東洋の神秘性に憧れのある西洋の知識人が多くいることは平凡な人にもわかることだ。ま、深入りはせずに本作について書こう。冒頭場面は貨物列車に数十人のインド人男性が乗っている。彼らはドイツへ密入国する予定であったが、警察に見つかりそうになったのか、突如全員が降ろされる。山間部のことで、行列を作って進むが、ひとりの初老はあえて仲間から外れる。それを目撃した主人公の若者は声をかけ、後を追う。初老は大きな木に下に坐り込み、笛を吹き出す。そして突っ立っている若者に喉が渇いたので水を汲んで来てほしいと言う。初老のすぐそばに数匹の水牛がいて、水飲み場はそう遠くないはずだ。若者は水辺を見つけ、その直後に灌木の向こうに若い女がひとりでバイクでやって来て、バイクが故障して立ち往生しているのを目撃する。そして女に近寄り、修理してやり、互いに好意を抱く。修理後、ふたり乗りして女が働く店に着くが、男はドイツだと思って話すと、女はイタリアだと言う。その店は10歳くらいのひとり娘を持つその女が経営し、ガソリンスタンドと軽食が出来るバーを兼ねている。次の場面は、女とインド人のその男と結婚式で、インド人の3人の楽師を招いての華やかなものだ。夫婦が踊り終わった後、椅子に座った新婦は破水する。新しい生命の誕生に水があるという本作の題名を意識した場面だ。ヨーコ・オノの曲に「ウィア・オール・ウォーター」があるが、これは中国の思想の受け売りで、人間は本来「水」ということだ。生まれた男子が4,5歳になった頃、主人公の男は店をすっかりインド風の装飾に改築して大きくする。さらに4,5年経った頃、女の連れ子を含む家族4人でドライヴに出かける。店のシャッターはインドの絵が描かれ、連れ子の素朴な女の子は唇や鼻にピアス・リングをしてインド風のパンクになっている。次の場面では車が川から引き揚げられていて、乗っていた4人がその様子を橋の上から見つめている。怪我がなかったのは不幸中の幸いでも、ヴァカンスが早々に台無しになった。男はふと何かを思い出したように家族3人をそのままにして背後の荒地に歩み進む。そして着いたのが10年ほど前に初老と話した場所だ。そこには昔と同じように初老が坐って笛を吹いている。そして男を見て言う。「兄弟よ、水を探してどこまで行った。朝からずっと待ってたよ」その瞬間、主人公は初老に跪き、顔を埋める。初老がその様子をなだめる間、背後に列車が猛速度で通過する。
時間の流れが人によって違うという結末は一昨日の
「星に魅せられて」に似る。本作は原題を直訳すると「水の歴史」だ。水を汲んで帰る途中に女に出会ってやがて家庭を築き、自家用車が水に嵌る事故に遭って水汲みを思い出すという奇妙な物語だ。男は結婚して自分の子を女に産ませればもう用はないという話に受け取ってもよく、また男には家庭を持つ以外にもっと重要な何かがあるというふうに考えてもよい。本作では女の最初の夫のことは描かれないが、インド人の夫を持ってからも客から色目を使われることは描かれている。そこを注視すれば、夫の失踪後、妻にはまた別の男が出来るとの予想が立つ。女はそのようにして生きて行く動物で、男は子孫を残せばまた風来坊のように別の土地へ向かうのが本能とも言える。だが、その目指す何かは重要なことではなく、水汲みに相当するどうでもいいことだ。女がしっかりと子育てをして行くのに対し、男はふらふらと好き勝手に過ごす。それは遊びであって、ベルトリッチの場合は映画作りであった。本作で監督はイタリアとインドの出会いを描くが、店をインド風の装飾にし、混血児を産んだ設定に、西洋と東洋の本物の出会いを託している様子が感じられる。つまり、監督には無理であったが、新たな世代が西洋と東洋を真に結びつけて新しい文化や思想を作るのではないかというひとつの淡い期待だ。本作が描く時代は、車の様式や、女の店の壁にジョン・ウェインのポスターがあるので50年代末から60年代前半と思うが、当時から密入国を含めて外国人労働者がドイツやイタリア、フランスにはいたのではないか。砂漠のような辺鄙な場所にある店で、男手のない若い女にすれば、たまたま出会ったインド人男性は伴侶として願ったりであった。女を演じるのはヴァレリア・ブルーニ・テデスキで、とても個性的な顔をしていて、一度見れば忘れ得ない。本作当時38歳で、バイクが故障して男と出会った時はそのように見えているが、最後の車で出かける場面では10歳老けて見える。彼女の存在感によって本作は大きく印象づけられている。彼女が監督した作品もあって、筆者は大いに彼女に関心を抱いた。いかにもイタリア的な熱情を持った女優で、早速彼女が出演しているほかの映画を見たくなっている。本作はエキストラが多く、また出会い、結婚式、長男の幼少期、少年期の4つの場面を数分ずつに分けて撮っているので、10分の短編とはいえ、とても手が込んでいる。巨匠と呼ばれるからには小品であっても決して手抜きをしていないことは当然だが、細部を疎かにしない態度は却ってこういう短編にはっきりと表われる。その細部とは、各画面をどういう枠に収めるかという構図、そして台詞や音楽、カットのつなぎで、隅々まで神経を張り巡らせる。珠玉の作品とはそういう細部へのこだわりに立脚している。無駄をこれ以上は不可能なまでに省き、緻密な網を構成する。
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