利に聡いという表現は生き物すべてに言える。人間の場合、利とはマネーに言い替えていいが、これは金なくしては誰しもほとんど生きられないからだ。金を必要としない世の中になれば、利の意味はもっと広く、金に代えられないことに対する興味に使われる。
さて数日前、息子が腕時計を送ってほしいと言って来たので、筆者が電池交換し、今日は郵送するために雨の中を西郵便局まで歩いたが、窓口で発送した後、車折神社の際を通ってスーパーに向かう途中、柴犬を連れた若い女性が傘を差して立ち止まっていた。犬は濡れた路面に寝そべって、しきりに青い梅の実を齧ろうとしていた。筆者は小学生3,4年生の頃、青い梅の実を食べると腹を壊すということを図入りの教科書で学んだが、犬はどうなのかと思いながら、飼い主に声をかけた。「梅の実ですね。」「そうですね。そこに落ちていたのを見つけてこれです」「ははは、香りがいいのでしょう。かわいらしいですね」「はい、でもずぶ濡れで動かないのは……」 その犬にとってその梅の実は不思議な儲けもので、興味津々なのだ。そのことを利に聡いと形容してもよく、またこうしてその犬のことを書く筆者もそうと言える。そこにはマネーの話は介在しない。ネットではYouTubeでもブログでも、金稼ぎの手段として利用する人がいる。先ほどのネット記事で、TVを干されたお笑芸人がYouTubeで百万人の登録者を得たと読んだが、それも利に聡い、つまり収入の話で、なーんもおもしろくない。金はなければないで楽しもうとするのが人間だ。その場合の「利に聡い」は、ポジティヴなことに強い関心があるという意味だ。一方、コスパという短縮語がよく使われる。これは費やした金と得られる効果の関係で、いかに得するかを念頭に置いている。犬が散歩道で見慣れない梅の実を見つけ、その場で寝転んでじゃれつく行為は、たまたまの出会に対する純粋な興味だ。それに比べて人間が金儲けのためにYouTubeをやろうとしたり、金を払ってより条件のよい結婚相手をネットで見つけようとしたりすることは、いじましいと言えばいいか、筆者には縁のない人たちだ。それでも人さまざまで、価値観の合う者同士が意気投合して一緒に暮らす。その生活が数年で破綻してもまたお互い似た人を探せばよく、そのことを繰り返している間に寿命が尽きる。それは犬の暮らしとさして違わない。あまり欲張らずに生きるならば、小さくても心の平安は保てる。それこそが利だが、その簡単なことがわかない人がいる。そうそう、外資系会社に勤める40代の独身美女が、会社の男をみんな馬鹿だと思い、デートで5万円ほどの食事を奢ってくれる男をネットで次々に探しているという記事があった。高給取りの彼女は筆者を馬鹿な爺と嘲笑するだろうが、筆者もそういう女に何の関心もない。そもそも出会いがないし、出会ってもお互い値踏みして嘲笑し合うだろう。
思い出したのでついでに書く。東電OL殺人事件で殺された女性は当時39歳で、昼間の仕事は男に混じって優秀であったそうだが、骨と皮の身体になって毎晩3人の男に3500円で15分の性行為を提供する習慣から抜けられなかった。ホストに狂って大金を使う若い女も同じように精神が壊れているが、金に困らず、肉体の快感を得ることに不自由しないのに、なぜ幸福感で満たされないのか。自分を大事にしない人間が他者から大事にされるはずがないということがなぜわからないのだろう。本題に入ろう。本作の監督はフィンランドのアキ・カウリスマで、原題は「Dogs Have No Hell」だ。この「犬に地獄はない」の「犬」は、監督の作品でいつもテーマになる社会の底辺の人たちを指す。そうした底辺の人々に地獄がないのは、現状以上に生活の質が落ちようがないからでもある。ドン底にいる者はさらに下を見て投身自殺するか、上を見て這い上がるしかない。たいていは後者で、そのきっかけを見つけたいと思っている。それで婚期を逃した女性は藁にすがる思いでネット婚活に参加するが、現実を思い知らされる。素敵と思える男との出会いはそう転がってはいない。出会いがあって5万円のディナーを一緒に過ごしても、それは犬が散歩途中で見つけた青い梅の実に戯れる程度の暇つぶしだ。そういうことで自分をエリートと自惚れる40代の未婚女こそが犬のような人間だが、本作が描くカップルを哀れで惨めで、正視に耐えないと思うはずだ。だが、人間の大半は裕福ではなく、また美女でも格好いい男でもないから、アキ監督のいつもの手法が端的にまとめられている本作には真実味がある。そして後味がいいのは、社会の弱者に向ける温かい眼差しのためだ。本作は50前後の男が留置場から出る場面から始まる。それは午後3時20分で、出所後すぐにホームレスにモスクワ行きの列車が何時に出るかを訊くと、10分後だ。男は線路に寝ているところを確保されて収監されたのだが、長い間会っていないレストランの炊事婦を妻にしてシベリアに働きに行くことに決めている。そして金の工面のために共同経営している工場に行き、事情を説明して相棒からわずかな札束を受け取る。その足でレストランに行き、結婚を申し込むが、その相手はアキの映画では馴染みのカティ・オウティネンだ。筆者は彼女が主役の92年の『マッチ工場の少女』を当時見た。アキの映画は他に『レニングラード・カウボーイ』のシリーズを2本TVで見ただけだが、アキの作品は画面の色合いが青と赤の対比が鮮やかで、また独特のユーモアがある。『マッチ工場…』ではバンドが劇中ライヴを披露したが、本作ではレストランのステージで4人のロック・バンドが安っぽいラヴ・ソングを寒々と演奏する。その演奏を背景に男は結婚を申し込み、女はエプロンの上に真っ赤なコートを羽織って男と店を出る。
男はいつか山を当てたいと思っているのだろうが、酔って線路に寝転ぶほどに生活は荒れている。これでは駄目と思い、結婚してシベリアに行こうとする。ふたりに両親や肉親がいないのかという疑問が湧くが、いたとしても絶縁状態で、誰にも何も言わずに突飛な行動をするカップルはいる。留置場から出て列車出発まで10分しかなく、本作で描かれることは実行不可能のはずだが、そこは映画であり、ひとつのメルヘンと思えばよい。男が決めたことを強引に進めながら、女に「愛しているのはお前だけだ」と言う。女は男と並んで歩きながら、指輪がもらえないならついて行かないと言う。突然のプロポーズを受諾しながら指輪を求めることには、男の言いなりにならないという自己主張があって、このふたりなら大丈夫だと思わせる。ふたりは急いで店に入って指輪をふたつ買い、出発直前の列車に乗り込む。本作当時カティは41歳で、美人でない彼女がレストランの裏方として働いている設定は日本でも通用する。41歳の独身女が一は八かの夢を見る男に地の果てまでついて行こうとすることは、レストランで演奏されるロック曲と同じく、いかにも安っぽく、また甘い考えのようだが、人生の酸いも辛いもよく知ったカップルだ。その似た者同士が手に手を携えて結婚し、誰も知る人のいない土地で生きて行くのは、純粋な愛の形ではないか。本作のカップルはいわば新婚旅行を兼ねて、ヘルシンキからモンゴル北方のイルクーツクに油田を掘りに行く。それは都会生活に慣れた者からすればほとんど島流しの生活で、社会の底辺にいる男女が選びそうな衝動的な行動だが、何年か交際していた旧知の間柄であれば、結婚して新天地で暮らせば幸福が得られると考えるであろうし、またそう思わない限り、女は男について行くことは出来ない。それにシベリアで暮らせばもう逃げ場がなく、仲よくするしかない。人生の賭けはうまく行く確率は低いが、賭けている間は楽しみがある。本作のカップルは残りの人生は20数年だろう。それはあっと言う間だ。本作のカップルを非現実的と思う人は多いと思うが、結婚は決心で、決心とは勢いだ。そうであるだけに他者を交えた儀式は必要で、男は車掌に神父役になってもらおうと考えている。いつの時代にも貧しさがあり、愛がある。本作の物語は新コロ禍の昨今、現実味を増しているが、世界中にウィルスが蔓延し、地の果てで新たな暮らしを始めることが出来ない。新コロ禍から会社が倒産し、寮を追い出された若いカップルが公園で野宿しているというニュースを先日見た。野良犬のようになった彼らは30歳前後だ。利に聡く生きて来なかったのに、不運に見舞われたが、まだまだ人生のやり直しが何度も効く。ふたりで力を合わせて仲よく暮らして行ってほしい。地の底は地獄ではない。落ちれば這い上がればよい。利に恵まれながら心が満たされない状態が地獄だ。
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