脱兎のごとく逃げるに限る場面に遭遇することがある。誰でも人生にそういうことが何度かあると思うが、DVつまり家庭内暴力はその代表となっている感がある。
だが実際は昔からその割合はほとんど変わらず、表沙汰になることが多くなって来たからだろう。よほどのマゾでない限り、女性は男性の暴力を嫌悪し、逃げるしかないと思い詰める。肉体的暴力は男性から女性へというのが一般的だが、そうでない場合もたまにあり、また言葉による暴力の点では女は男に負けないことが多々あり、夫婦喧嘩はどちらにより多くの原因があるかは傍目にはわからない。それで犬も食わないと形容される。我慢の限界を超えると離婚となるが、そこに至るまでに悲惨な事件が起こることは毎日どこかで生じている。男女が一緒に暮らすのはお互いに好きになるからだが、その感情は変質する。そこで「こんなはずではなかった」と、自分の見る目のなさを半ば棚に上げながら、相手を内心謗って別れたくなり、今や日本では夫婦の3割が離婚する。同棲も含めると離別の割合は5割以上は確実であろう。誰し別れを思って一緒になるのではないが、どちらかが死ぬまで添い遂げることは今後少数派になりそうな気配すらある。結婚は若い時に勢いでしておくべきで、また大恋愛から結婚した者ほど離婚しやすいのは事実で、しょせん男女はある程度はお互い誰とでも暮らせるもので、昔のようにお見合い結婚はとても合理的で真実味があったと思う。今は女は若くて美しく、男は金があればよいことが求められ、結婚出来ない男女が激増している。それで女は美容整形に金をかけ、男はえげつないことや悪さをしてでも金持ちになろうとする、お互い浅ましい限りの男女が跋扈し、また彼らが一緒に暮らしてすぐに離婚する。価値観が同じ者同士が同衾するのは自然なことだが、その価値観の本質が自分本位であれば、相手への愛情は、セックスの相性がいくらいいと思っていても3年持てばいいほうだ。それでも本人たちはかまわない。3年ごとに結婚や同棲を繰り返せばお互い新鮮でいいではないか。畳と女房は新しいほうがいいと昔は言われたが、男女平等であるからには、女も夫は新しいほうがいいと思っている。それで30代半ばを超えると女は自分より若い男に目が行くことは自然だが、それは子どもを産めない年齢に近づくと男化することであって、生理が終わるとすっかり男と同じになり、40代半ばになれば自分の年齢の半分ほどの男を求めようとする。それゆえ、女はあまり多くの人と接することのない20代半ばまでに結婚しておくのがいいと筆者は思っているし、その意味で筆者は家内を見つけてうまくアタックした。女は男以上に若いうちから世間擦れしやすく、自分では気づかないうちに考えも表情も老けやすい。これは筆者の想像だが、同性愛の男性は美意識が強く、女性のそういう嫌な部分を早々と知ってしまうのではないか。
男女が一緒に暮らしてその後別れることは珍しくないが、少しは我慢しなければ長い人生を3年ごとに相手を変えて暮らす器用なことはそう誰にも出来ることではない。それに、何度も結婚や同棲をすれば、変な相手に遭遇することもある。後腐れなく、きれいに別れられればいいが、別れは一緒に暮らし始めること以上にエネルギーを要し、次の相手が見つかるまでは相手を恨みがちだろう。それでストーカーされたり、刃傷事件が起こる。今日の作品は夫婦ないし恋人同士の感情の行き違いによる刃傷沙汰を描く。本作の男女の関係は、男が暴力的で、女はそれを受け止めるしかない弱者となっているが、本作の男女の関係は交換可能だ。つまり、女も暴れて不思議でなく、そんな女が実際にいることはネット・ニュースからも明らかだ。女が飲み物に薬物を盛られて昏睡している間に強引にセックスされる事件が後を絶たないが、女が毒で男を殺し、財産を狙う事件がままあって、男女ともに下衆はいる。本作の監督はハンガリーのイシュトヴァーン・サボーで、筆者は彼の作品
『ハヌッセン』を数年前に見た。それは
同じハヌッセンという男を描くヘルツォークの映画との対比のためで、どちらの作もあまり覚えていないが、特にサボー監督の名前は関心すらなかった。ハンガリーは日本と同じく姓、名の順で表記し、実際はサボー・イシュトヴァーンだが、そのハンガリー独特の名前の表記を巡る対応が本作に出て来る。それは後述するとして、本作はカット数が2、つまり演戯の中断は一度のみだ。その中断は無理すれば設けずに済んだもので、舞台劇のように俳優は10分の一連の行動を演じ切り、その分演戯は迫真的になっているが、舞台の演劇のように、いかにも客に見せるために演じているという雰囲気が却って濃厚にもなっている。また演劇に似ているのは、描かれる男女の関係や生じる事件の遠因がわからず、人間は意図していないのに、正当防衛的に人を殺める突発的な出来事があることを描く点で、本作は不条理性を露わにしている。そして、いかに親しそうに見える男女でも、お互い我慢して本音を隠しているだけというひとつの真実も描かれているが、その我慢が限界を超えた時に別れがある。刃傷沙汰がなく、きれいに別れられればいいが、愛のエネルギーがそのまま憎しみ、恨みに転換する場合は多々あり、本作で描かれることは珍しくないだろう。ただし、本作の主役の女性はひたすら夫らしき男性を愛していると思っていて、夫の変貌ぶりが理解出来ない。夫は一日にして変わったのか、あるいは一年ぶりの面会かはわからないが、後者に近いようだ。そして男はすっかり愛情が冷めていて、酔った勢いで別れを言い出したかったのだ。若い美女なら次の男が簡単に見つかるが、本作の中年女性では難しいかもしれない。それでなおさら男の心変わりがわからないか、わかっていても見ようとしない。
ある日の午後、女性は落ち着いた一室で夫の誕生日を祝おうとして、帰りを待っている。またその準備作業の間、部屋の片隅のTVでは英会話の番組が流れていて、女性はその画面をちらちら見ながら、英単語を発音している。そこで映る初老の男性は本作の監督で、そのカメオ出演によって監督はひとつの家庭劇を最初から最後まで目撃する。今日の3枚の写真はいずれもそのTV内の監督の顔を捉えたが、同じ間接的目撃者の立場は本作を見る人全員が共有している。女性は冷蔵庫から去年と同じ形の誕生日ケーキを取り出してテーブルに置いた後、家庭用ビデオカメラを夫が座る場所に向けてセットし、去年の夫の誕生日会の映像をTV画面で確認する。招待客はほかにもいるようだが、時刻どおりにドアのチャイムが鳴り、夫が姿を見せる。ところが、夫は両肩をふたりに抱えられ、ひどく酔っている。ドアの前まで送った二名は姿を消し、女性は夫を部屋に入れる。ビールで酔った夫はもっとビールを寄越せと怒鳴りながら暴れる。女性はビールで酔う夫が意外で、なぜ暴れるのか理解出来ないが、夫は女性に飽き飽きしていて、これまでの不満が一気に爆発している様子だ。女性は献身的に尽くしていると思っているが、そのことが男には鼻につくのかもしれない。あるいはもっとほかの、たとえば男に別の女が出来ていたかもしれず、想像が及ばないことがふたりの間に横たわっていたのだろう。ともかく我慢の限界が誕生日を祝う日に夫にやって来た。これに似たことは男女には珍しくないが、本作ではケーキを拳で凹ませ、さらに暴れる夫に対し、女性はなだめようとしながら揉め合っている間にケーキナイフで夫の腹を刺してしまう。すぐに女性は警察に電話をする。語る住所は監督の名前のイシュトヴァーン通りで、名前はコルダ・ガボールだが、ガボールは男性の名前だ。電話の相手は女性に対し、夫かと訊くと女性はそうだと答えるが、女性の旧姓を求めながら、それには答えない。この辺りに、事情がある男女が匂わされ、別居中の夫婦か、愛人関係だろう。最後の場面で同じ部屋に飾られる若い頃の仲のよかった3枚の写真が流し映しされるが、そこに映るカップルの男は刺された夫には見えない。ともかく、救急車が来て担架で夫はマンションの外に運ばれ、女はすぐ後に来た警察に尋問されて一緒に事件現場の部屋に戻る。その際に場面のカットがあるが、大部分は部屋の中での撮影で、本作は舞台劇になり得る。ただし10分では短く、男女の間柄をもっと詳しく描く必要があるが、本作の面白さは夫婦であるにしてもかなり事情がありそうなこと、また親しい男女に求められる我慢と、それに気づかない一種の鈍感さや勘違いといったものをあれこれ想像させるところにある。10分で予定していたことが台無しになり、おまけに最愛の人を刺すという展開で、似たことに遭遇すると、とにかく脱兎のごとく逃げるが勝ちだ。
●スマホやタブレットでは見えない各年度や各カテゴリーの投稿目次画面を表示→→