蟻とキリギリスのイソップ物語を小学校で教えてもらったのは、2年か3年であったと思うが、蟻の生き方を推奨する意味があったのだろう。歌って人生を過ごすのではなく、目立たず、地道にこつこつと働けば、秋風が吹き始めても困ることはないという人生訓だ。
コロナ禍で派遣切りが行なわれ、やはり安定した正社員がいいという考えが増えている気がするが、大会社の正社員でも一生安泰とは限らないという意見がネットで散見出来る。それはあたりまえで、どのような生き方にも絶対はあり得ない。蟻として生きたい人はそうするし、キリギリスでいいと思う人はそう生きるだけのことだ。楽しくて目立つ生き方のキリギリスに憧れている蟻は多いはずで、それで芸能人や歌手になりたがる若者は毎年大量に湧いて来るし、それが無理と諦めている人は芸能に金を払って楽しい時間を過ごす。活躍出来なくなったキリギリスは、贔屓にしてくれる蟻を見つけて、秋風が吹いてもさして困らない生き方をするのが現実で、キリギリスの生き方を選んで多くのファンを作っておくに限る。そう言う筆者は蟻かキリギリスかとなると、出歩かずにこつこつと仕事することが性に合っているので、典型的な蟻であって、今夜も蟻のように思いをちまちま綴る。今日取り上げるフォルカー・シュレンドルフの短編は皮肉が大いに効いていて、人間を蟻ならぬ蚊と見立てる。キリギリスだと思って自惚れるなど、大それたことだ。しょせん人間はみな蚊のようなはかない存在に過ぎない。そう言われるとさばさばした気持ちになり、また蟻のように生きることが馬鹿らしくなるが、本作は蟻のように地道な撮影と編集作業を経ていて、キリギリス的な生き方の監督が誰よりも蟻のような根気がなければ名作を生み得ないことを証明している。筆者がある創作家やその作品を前にして思うのは、蟻のような粘りのある作業、言い換えれば職人的な才能がどれほどあるかだ。創作にはまず閃きが大事とよく言われるが、その閃きを優れた作品に仕立て上げるには技術が欠かせず、その技術が平凡であれば作品もそうなる。その観点で本作を見れば、10分にいかに多くのことを詰め込んでいるかに大いに感心し、どの映画も10分で充分ではないかと思ってしまうほどだ。フォルカーは『ブリキの太鼓』が代表作で、その最初の出産場面はあまりに強烈でよく覚えているが、本作には妊婦が登場し、『ブリキ』といちおう関連を感じる。その後の彼はヒトラー政権を主題に数本撮っていて、これも機会があれば見たい。本作の妊婦は、夫が黒人で、夫婦仲はよくなく、妊婦は夫の忠告やその行動に逆らって酒を飲みまくる。その話は本作の主題とは関係がなく、本作は長編映画から切り取った感がある。そこが10分の短編ではあるが、話に膨らみをもたらせている点と言ってよい。
これを書くために再度見たところ、最初に登場する老いた女優がどうもファスビンダーの
『四季を売る男』に出て来た、眼鏡の痩せた若い女優とそっくりなことに気づいた。ネットをあれこれ調べてドイツ語のウィキペディアで考えが正しいことがわかった。イルム・ヘルマンという女優で、何と今年5月下旬に死んでいる。たまたま見出されたファスビンダーから離れた70年代半ば以降、いろんな作品に登場し、死ぬ寸前まで活躍した。美女ではないが、却ってそういう女優のほうが息は長いかもしれない。結婚してふたりの子を産んだというから、キリギリス的な生き方ながら、俳優として長命で、まともな人生を送った。本作では彼女は夫らと川沿いのキャンプ場を訪れている。そこは同じようなキャンピング・カーが勢揃いしている避暑地だ。大食漢の太った夫はビールを飲みながらバーベキュー担当で忙しく、やることがない、イルム演じる妻は赤いマニュキュアを塗りながら過ごしているが、彼女の姿は衣装と腕時計が変わった場面が続き、キャンプは1日ではないことがわかる。そこに彼女の知り合いの妊婦とその夫らが到着する。妊婦は不機嫌で、夫からアルコール類を取り上げられるので、走って近くの刺青を入れた若者の集団に混じって缶ビールをもらって踊りながら飲むという抵抗を見せるが、急いでやって来た夫に邪魔される。妻が反抗的になる原因があったのかもしれないし、そこは見る人が自由に考えればよいが、妊婦が酒を飲むと胎児にはよくないというのは常識だ。それでも世間には蟻とキリギリスがいて、大部分の人が守る常識を無視する人はたくさんいるし、そう考える人に何を言っても無駄だ。それはともかく、そういう人でも子どもを産み、人間は永遠に常識を守る人とそうでない人がいるむという現実を本作は描いている。その実態は多様性であるという寛容な見方も出来るが、蚊よりはるかに複雑な存在に進化したヒトが、しょせん好き勝手に生きて他者への迷惑を考えず、むしろ蚊以下の存在と本作は言いたいと見る。というのは、蚊も子孫を残すために必死に生きるが、子孫に悪い享楽を親はしないはずであるからだ。この妊婦と夫との話は本作の主題には関係がないが、この夫婦の物語を取り除くと別の物語を持って来なくてはならない。そしてどのような物語を持って来ても、それは本作が言いたいことに比べて価値は低く、人生は蚊と同じほどに無意味であるということだ。それどころか、人間が蚊を嫌がるように、人間は神から嫌悪されていると言ってもよい。神からすれば人間は蚊と同じで、いつどこででも死ぬ運命にある。そのことを誰でも知っているが、いつ死ぬかは知らない。自殺する人は勇気と関心が大きく、誰にでも出来ることではないが、死は早いか遅いかの差で、生きている間は好きなことをすればよく、酒を飲む妊婦も自分勝手ではあるが、キリギリス的な妊婦も一定の割合でいる。
イルム・ヘルマンの出番は最初と最後のみで、その最後は、バーベキュー担当の夫が蚊を振り払おうとした瞬間、手に持つ鉄製の長いトングが頭上の電線を断ち切って感電死した時に、妻や周囲の人が駆けつける場面だ。本作は最初から最後までカメラが蚊の視線のように揺れ動き、バーベキューを食べる人間とそれを刺す蚊という対比を描くが、題名の「ENLIGHTENMENT」は、人間で言えば「啓示」だが、蚊で言えば吸い寄せられる灯りで、それは青紫の光を発する感電死装置として本作の最後にクローズアップされる。天龍寺近くのお好み焼き屋にある同じ装置は、蚊が感電した瞬間、かなり大きな衝撃音がするので、そばを歩いているといつも驚く。本作の感電死した夫も同じで、激しく叫んで倒れる。最後に本作がローマ時代の神学者アウグスティヌスの言葉を元にしていることが明かされ、著作から言葉が語られるが、冒頭の現在、過去、未来についての哲学的な解釈もそうだ。時間を現在(注意)や過去(記憶)、未来(期待)と分ける一方、過去と未来は存在せず、現在の現在と現在の過去、現在の未来の三つがあると定義する。また本作の冒頭は老人と少年が釣り舟に乗る白黒映像と同じ川で泳ぐ中年男女のカラー映像があって、そのBGMがチェロのソロとなっているが、『10ミニッツ…』の「GREEN」はどの作品の冒頭にもチェロの音楽が流れ、本作はそういう編集を知った上でBGMを作ったことを思わせる。またチェロの音が蚊の飛ぶ音を形容するなど、音楽も周到に計算されている。感電死した夫を見下ろしながらのアウグスティヌスの言葉の語りは最初がかなりわかりにくい。「期待された出来事は現在に入り可能性が縮小する。それは日々の生活で起こり、一生のうちにも起こる。」これは「I think this expected by the minished by joy in the present,and happened times single day.」のように聴き取れるが、「this」は「death」のことだろう。ならば、「死は毎日何度も起こるが、現在の楽しみの中で減少することが期待されていると思う」といった意味になる。この後、アウグスティヌスは神に向かって、自分が人生のどの位置にいるのか、つまりいつ死が訪れるのか、そのことについてもっと光がほしいと言うが、その言葉が終わらないうちに一匹の蚊が感電死して落ちる。神から啓示をほしいと思うにもかかわらず、人間は蚊と同じように一瞬で命を落とし、その可能性は日々何度もある。キリギリスのように生きるが賢いかと言えば、人間は案外なかなか死ねずに馬齢を重ねる。本物のキリギリスはまだどうにか歌いながら息絶えるが、人間のキリギリス的生き方はジョン・レノンのように銃殺されるか、三島のような自殺以外は、そんなに格好よくはない。
●スマホやタブレットでは見えない各年度や各カテゴリーの投稿目次画面を表示→→