粘り気のある食べ物が好きな筆者は粘着気質かと思うが、ネットで調べる粘着型の性格の全部に当てはまっていない。筆者はかなり根気強く、古いことをよく覚えているほうだと思うが、実ることが無理とわかれば諦めは早い。
映画監督は製作費の捻出を初め、どういう俳優を起用するかなど、多くのことを考え、実行する必要があるので、全員が粘着質だと想像するが、俳優はどうだろう。俳優がいなければ劇映画は作り得ないが、監督が考える役柄に合わせての演技が求められ、自分でこだわる部分は監督ほど大きくはない。そのことで思い出すのは、ザッパが作曲家と演奏者を比較し、前者が優位にあることを発言したことだ。ベートーヴェンという作曲家と、そのたとえば第9交響曲があるので、指揮者や演奏者はそれを演奏出来る。他人の作曲した作品を指揮したり演奏したりしたくないのであれば、作曲家になればよいが、それは指揮者や演奏家よりも売れる確率がはるかに低く、またそのことを除いても仕事は困難であろう。ザッパはオーケストラの総譜を書き、指揮し、演奏もしたが、そのこだわりと言ってよい態度は粘着質そのものだ。それはさておき、監督が次の場面を考えている間、出番のない俳優は監督ほどにその映画のことを考えていないだろう。その意味で総じて俳優は監督よりも粘着質の度合いが少ない気がする。そうそう、辻まことが『虫類図譜』で「演戯」虫について書いていた。これは役者全般を指している。「耳でしゃべれるのはこの虫だけだ。大根形の頭部にゃ眼も口もないから仕方がない。左の耳から聞いたことを右の耳がすぐしゃべる。右の耳から聞いたことを左の耳がすぐしゃべる。両方の耳から別々の声を聴かせるとリズミカル且大袈裟に見栄をきり、そのあとで痙攣を起こして沈黙する。きいた風なことばかりいう虫だ。」この言葉は台本どおりにどのようにも演戯することを風刺しているが、演戯を本職にしていると本当の人格が何か自分でもわからなくなるのではないか。もっと言えば、俳優は中身が空っぽのほうがよく、演戯している時だけはその配役の人格になり切ることが出来て幸福感が得られる。ところで、先々週のTVで73年制作の寅さんの映画を半分ほど見て、以前から気になっていた浅丘ルリ子が演じるキャバレー歌手のリリーのことが詳しくわかった。当時33歳で、年齢相応に見えていたが、彼女が寅さん相手に自分や寅さんの職業を「泡」と形容する場面があった。よく自分のことがわかっているという意味においてとても印象的で、またそう言うリリーであるから、いい加減に身の振り方を考えていて、家内によれば映画の終わりでは寿司屋の奥さんに収まったそうだ。あり得る設定だが、彼女は寅さんが一番好きとその映画では発言していたし、後年寅さんと暮らすので、彼女には香具師も歌手も同じ泡という思いがあった。
ついでに書いておくと、リリーのわけあり人生の一端がその映画で描かれ、彼女が暮らすボロ・アパートの一室の様子も映った。美人でいつも華やかな衣服を着ているが、現実はドン底の貧困で、部屋の中はウィスキーの瓶があるなど、かなり荒れていた。歌手は大ヒット曲があれば豪邸で暮らせるが、そうであってもそういう生活は「泡」であって、まともな職業ではない。そのように山田監督は当時思っていたとして、それは寅さんの映画を見る常識人の考えと同じで、もっと言えば俳優も泡ということだ。その泡に監督が含まれるかと言えば、山田監督はそうは思っていないだろう。俳優は代わりが利くし、実際寅さんシリーズは高齢で没した俳優の役を別の人が順次演じた。渥美清が死んでも山田監督が生きているので、寅さんシリーズの新作が作られる。そのことからして、監督は俳優より格上の、泡ではない存在だ。とはいえ、さらに長い年月で言えば、監督も泡であり、人間そのものがそうと言える。先日筆者は「風風の湯」の前の桜の林で、
小さな女の子が大きなシャボン玉を作っては飛ばしている光景に出会った。彼女を創造主と見立てると、飛ばされる泡は自然であり、人間だ。そう思ったすぐ後、筆者はその子のそばでぺんぺん草を見下ろした。『10ミニッツ・オールダー』にかこつけて言えば、彼女はその後、10分の何百倍も老いたが、そのように思うと、彼女がお婆さんになった姿が想像出来る。そしてそのことを示唆するのが先日取り上げた
「老優の一瞬」で、そこには演じてはいるが、演じているようには見えない自然な中年男性の演戯があった。20代の頃のフルシンスキーはジェームズ・キャグニーを思わせる風貌で、チェコがアメリカ映画の影響を受けていたことを感じさせたが、ひとりの男優の作品上の生涯を10分にまとめた時、そこには俳優としての、またひとりの普通の人間としての「泡」のごとき瞬時の人生があますところなく表現された。これを女優でやることも可能だが、女は化けるものであり、また老醜を晒して平気な女優はいないだろう。もちろん若手が化粧して老け役をする意味ではなく、実年齢に応じた、そしてかつての美の片鱗もない意味での老いの残酷さを撮影させるという意味だ。そのことからわかるのは、男優よりも女優のほうが辻まことの先の言葉にふさわしいことで、またその意味において実像も常識から外れた女優のほうが面白い。筆者はそういう女優として、それこそ泡のように生きて死んだ嵯峨美智子(瑳峨三智子)を思うが、彼女が主演した
『恋や恋なすな恋』が27歳の作で、今日取り上げる「女優のブレイクタイム」の主役の女優クロエ・セヴィニーが28歳であるので、20代後半が女優として最も美しいのかもしれない。クロエはファッション・モデル出身というが、美人でスタイルがよければ、中身空っぽでも女優になれるというのは日本でも同じだろう。
本作の監督ジム・ジャームッシュについて筆者は名前を知るだけで他の作品を知らない。「老優の一瞬」とは対象的に現役の女優のロケ中の10分の休憩の様子を描く。冬場の夜で、彼女は彼女用に当てられたトレーラーハウスに入って1920年代風の衣装のまま一服する。最初にすることはソファに座って大きなCDラジカセでピアノ曲を鳴らすことだ。それはグレン・グールドの演奏のはずで、彼の代表作になった『ゴルトベルク変奏曲』の冒頭曲のアリアだ。ただし、その曲は3分未満で、10分の休憩には足りない。そこで同じ変奏曲から2番ではなく、アリアと同じように落ち着いた静かな曲が流れるが、同変奏曲を知らない人にはそれは自然に聴こえるが、そういう曲順のCDはないので筆者は不自然に思った。それはいいとして、彼女はたばこに火を点け、ケータイ電話で男と話し始める。そうしていると、ヘア・デザイナーが入って来てチェックする。次に衣装係がやって来て、電話中の彼女を触りまくって下着を整える。次に食事が運ばれて来るが、それを食べている暇がなく、彼女はその料理に手をつけずに、たばこの吸い殻を突き刺す。10分の休憩がたばこを吸うだけに終わり、話していたケータイもそのままで彼女はトレーラーハウスを後にする。おそらくどの女優もそのようなものだろう。監督の指示にしたがって駒として動くだけで、休憩さえもほぼ管理されている。また一本の映画には俳優以外の裏方もたくさんいて、みなそれぞれに自分の役割をこなす。監督はそれらすべてのまとめ役で、交響曲の作曲家であり指揮者のようなものだ。また泡のような存在を束ねて泡のようには一瞬に消えない作品を撮ろうとするが、それがヒットしなければ泡となって徒労に終わる。ということはそのような賭けの人生を送っていることもやはり泡と言ってよく、結局のところ娯楽産業や人気商売はすべて泡ということになりそうだ。ただし、泡としての自覚がありながら完璧を追求するのであって、それは監督も俳優も同じだ。本作は暗にそういうことを言っているように思う。ほとんどドキュメンタリーのようだが、実際はそうではなく、音楽を初め、すべて脚本どおりに撮ったものだ。その映画製作の裏事情の一コマは意外性が皆無で、休憩も撮影手順に織り込まれた計画のひとつであって、すべては監督が支配する。そう思えば俳優ではなく、監督になったほうが面白そうで、また筆者がザッパの音楽が好きなのは、ザッパが単なる演奏者ではなかったからだ。真っ白なところに思いのまま作品を作り上げて行くことは、そうとうな粘着質でなければ無理だ。ついでに書いておくと、筆者がグールドの『ゴルトベルク変奏曲』は曲解し過ぎであまり好きではない。バッハに対しての一演奏者の越権行為に思えるからで、グールドの大ファンを自認する人も苦手だ。もっと素直でバッハらしいチェンバロの演奏のほうが楽しい。
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