眩しいほどのピカピカなものでも必ず古びるが、常に新品を求めていると、自分が最先端の眩しい存在のように思えるのかもしれない。
10年ほど前に死んだNは毎年のようにパソコンを初め電気製品を買い替えるのが好きであった。新しいものは新しい性能を持つという理由とは別に、使い方が荒っぽいのか、筆者には信じられないほどによく壊れていた。3人の子どもが遊び半分で操作していたかもしれないが、もともとNには物を大事にする考えが乏しく、また新品を買えばよいという信条であった。Nは図書館の本や古本を触ることを嫌がった。骨董品の話をしたことはないが、たぶん関心はなかった。古いものは時代遅れで、輝きが感じられないと言ったであろう。街がそのように常に新しくなって来ているし、常にTVではNの心をうきうきさせた10、20代の新人女性歌手やタレントが登場する。そして新しいものが出現すると古いものは視界からも意識からも消える。人間もそうだろう。「去る者は日々に疎し」で、新しい出会いがある限りは、ほとんど連絡し合わない人のことは思い出さなくなる。そう言えば数日前に自治会住民の仏師のOさんから電話があった。新コロ禍以来、Oさんに世間話をしに行っていないからだ。5分で会いに行けるが、その時は電話で長話をした。そのことでひとまず満足したので、また当分会いに行かないかもしれない。その理由のひとつは、会いに行ってもOさんの在宅の確率は3割ほどであるからだ。電話してから会いに行くのは大げさで、散歩ついでに訪れたということにしたい。それはともかく、奥さんを数年前に失くしたOさんは、喪失感からかなり落ち込み、自治会を辞めたが、世間話をしに訪れる自治会住民は筆者だけだろう。奥さんのいないさびしさは相変わらずでも、話好きな筆者との出会いがあり、それなりに独さは紛れているようで、そのことについて感謝の言葉をもらったことがある。そのOさんが様子伺いで筆者に電話をかけて来たのは、筆者がOさん宅にたまに訪れることの初めての反対の行為で、筆者を心配していたことになる。わが家の仕事場に招きたいと思いながら、真夏は無理で、秋には呼ぼう。音楽の話は出来ないが、美術の話ならそこそこ噛み合う。Oさんは筆者があまりに多忙であることを見抜いているが、その多忙は自分でそうしているだけで、収入には全くつながらない。家内に言わせると大の遊び人で、筆者もそれを否定するつもりはない。それはさておき、『10ミニッツ・オールダー』では中国系の監督の作品が1本だけ入っていて、筆者はこれに大いに感動した。今しがた調べると、筆者より1歳年少のチェン・カイコーという監督で、『北京ヴァイオリン』を今日取り上げる短編「夢幻百花」と同じ2002年に撮っている。数年前家内はTVで『北京…』を見てとても感動していたが、筆者は見ていない。
チェン・カイコーは文化大革命を経験している。反革命分子として父親を糾弾し、その後は地方に追いやられたそうだが、その不本意な経験が本作を初め、彼の映画に色濃く反映していることが想像される。集団ヒステリー時代はそう長くは続かなかったが、当時は知識人も含めて、価値ある文化財が大いに破壊された。紫禁城が燃やされたり破壊されたりしなかった理由は知らないが、一部は被害に遭ったかもしれない。そうそう、「風風の湯」の常連Fさんは商社に勤務していた時、中国に何度も訪れ、紫禁城には数回入ったことがあると聞いた。現在でも政治家がその大通りに面した高台で演説するが、その場所にも立ったそうで、また意外なことに、その演説する場所の足元は大きなトイレになっているそうだ。寒い北京のことであり、またあまりに巨大な紫禁城で、演説中に尿意を催した場合、席を外して遠くのトイレまで行く時間がない。それで民衆からはわからないようにその演説の場で用を足すそうだ。日本の感覚からはまさかと思うが、ヴェルサイユ宮殿でもかつては庭園がトイレ代わりをして、王侯貴族は庭の灌木の陰で用を足したから、中国はまだそれよりましということになる。紫禁城の規模の大きさは日本の城からは想像を絶するほど広大で、またそこで使われていた家具調度、衣装も人間技とはとうてい思えないほどの精緻さで、人間味に乏しいが、同様の徹底性、途轍もない規模という民族性は現代も続いていると見るべきで、それが文化大革命を経て経済大国になった現在、どのようであるかは、本作にわずかに映る高層ビル群れとそれによって消え去った古い家並みの対比から想像出来る。つまり、徹底して古いものを壊し、道路も建物もすっかり新しく造り直したはずで、本作から18年経った現在、本作がどこでロケされたかはもうわからないだろう。それは日本と同じと言ってよく、後世に遺すべき建物は日本ならば御所や皇居、有名な寺社、中国では紫禁城や万里の長城で充分で、民衆が普通に生活を営んだ家やそれが密集する街区はより効率的で便利な生活が営めるものにすっかり建て替えられる定めにある。ましてや都市計画は日本以上に共産党のいわば独裁でどのようにでもなり、資産家が大切にして来た屋敷や家宝は文化大革命時に破壊の運命に遭ったことも多かったのではないか。4,5年前に日本の骨董界は中国の金持ちによって大いに潤ったが、彼らが求めた物の大半は日本にもたらされていた中国の美術品で、金持ちになった中国人は心の安らぎや自分の地位の誇示のために中国の古い作品をほしがる。欧米の有名な画家や彫刻家の作品をほしがる人もいるだろうが、清朝滅亡以降外国に流出した美術品を買い戻すことを義務と思ってもそれは理解出来るし、またそうであるべきだろう。その一方で中国では発掘によっていくらでも古いものが登場し、美術の歴史が書き替えられる。
本作の原題は「100 FLOWERS HIDDEN DEEP」だ。これは「埋もれている百の花」つまり発掘品と思っていいが、北京の街が21世紀に入って急速に変化して行く途上にあることの中でのひとつのエピソードを描く。監督は本作の話を新聞で読んだか、誰かから聞いたことを想像させるが、若者と老人の価値観の違いを描くとも言える。北京市内の中心部近くか、ある運送業者のところにひとりの中年男性が訪れ、自分の家の引っ越しを頼みたいと言う。引き受けた若者4人は中年男性と一緒に現場に向かうが、男性は街の変化が激しく、どこを走っているかよくわからない。百花通りの外れにようやく到着すると、そこは広大な空き地で、一本の大きな木のみがある。業者は何もないことに呆れて引き返そうとし、その時、上役から電話がある。その男性は以前にも同じ迷惑をかけていて、上役はトラックを走らせた分、金をもらって来るように言う。業者は男性の言われるままに見えない家具や金魚鉢、花瓶などを荷台にパントマイムで運ぶ。その最中に男性は泥土の中から家の軒からぶら下げる風鐸の舌部分の金属を拾って喜ぶ。かつての家は大きな木を取り囲む中庭つきの邸宅であったのだ。業者のひとりは、男性が言う200年前の家宝の花瓶を運ぶが、動作の途中、気を取られて両腕を重い荷物を抱える仕草から解放する。その途端、男性には花瓶が地面に落ちて粉々に割れたように見え、悲鳴を上げて泣く。荷物は全部荷台に積まれ、男性は気落ちした様子でまた助手席に乗って街中に戻ろうとし、運送料金の札束を支払おうとする。運転手は花瓶を割ったので、その弁償代として代金は不要だと言うが、その業者の男性に対する優しさは、監督が若い頃に父を糾弾したことに対する済まない思いがだぶっているだろう。トラックは走り出すが、男性は目の前に大きな溝があると叫ぶ。そんなものは見えないのだが、男性は埋め立てられたと言い、その言葉どおりにトラックはタイヤを地中に嵌め込んでしまう。業者たちが木材でタイヤを起こそうとする時、男性はタイヤの下から風鐸を見つける。男性はそれと先ほどの舌を持って、かつての邸宅のあった空き地を前に、「引っ越しが終わった」と喜んで小躍りする。邸宅はアニメで描かれるが、最後は夕焼けの中の一本の木が映される。アニメは安っぽいが、10分の短編では本物の邸宅を取り壊し、それを撮影することは出来ない。大木は北京の街の激変を見て来たが、おそらく高層ビルの建設のために、伐採していい日が占われ、結局切り倒されたであろう。韓国でもそうだが、中国でも大金持ちは百年前と同じように、広い庭つきの伝統的な平屋の住まいを建てるだろう。タワー・マンションはしょせん成金の慎ましい暮らしだ。昔は誰でも手に入ったものが、今は新しいもので我慢するしかない。それで筆者は古くて花のように美しいものが好きだ。
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