ヌーヴェルヴァーグの影響を受けたドイツの映画監督としてヴェンダースはヘルツォークより有名だと思うが、それはより商業的に成功しているからだろう。ヘルツォークの作品はドキュメンタリーが目立ち、またオペラの監修も手がけて、ヴェンダースよりかなり地味だ。
とはいえ、ハリウッド映画しか見ないような人にはどちらの監督の作品も関心がない。20年ほど前、筆者の下の妹の旦那がレンタルビデオ店の洋画は全部見たと豪語していて、筆者にどういう監督が好きかと訊いた。筆者は正直に思いつくまま7,8人の名前を挙げたが、彼はきょとんとして、どれも聞いたことのない名前だと言った。そのため、『10ミニッツ・オールダー』を見ないはずで、見ても面白くないと言うに決まっている。その態度はロック通を自認する人がザッパの音楽をまともに聴いたことがないことと似ている。彼らにとってはファンの数が多いミュージシャンほど有名で、その音楽は聴く価値があるとの思いを抱いている。映画も同じで、興行収入の多い映画ほど見る価値があると思われる。同じことは日本の10代が聴く音楽にも言える。アイドル・グループが数千人を収容する大会場で歌い踊る様子をTVでよく見かけるが、観客の仕草は一致していて、まるで宗教団体の狂熱に見える。ファンはステージ上のアイドルを眩しく見つめ、他の客と一体感によって日々の暮らしに充実感を得ようとする。アイドルに代わる存在、たとえば恋人を見つけるとコンサートに通わなくなるかと言えば、中年や初老の女性を対象としたグループ歌手もいるから、妄想を孕ませる対象のアイドル的歌手は今後もなくならない。その点、映画はたいていひとりで見るもので、他者との一体感は得られないが、世界的に大ヒットした作品の場合、そのことを知って見るので、孤独さは癒される。小人ほど群れることを好むのは大昔からだ。そのことをよく知る商売人が娯楽産業に手を出す時は、小人が喜ぶ内容を考える。莫大な資本を投入してそれに充分見合う収入があれば、賭けの確率は高いとしても、より効率的に儲けられる。ハリウッド映画はそのようなものだが、マンネリ化することは目に見えているし、実際そのようになって来た。ハリウッド映画界はヨーロッパ出身の監督を戦前から起用し、その流れにヴェンダースは乗った。彼のロード・ムーヴィーの手法はあまり予算をかけずに、また偶然を取り込む考えもあってのもので、筆者が最も好きな彼のそうした作品は『都会のアリス』だが、若い頃に培った手法はなかなか手放せないというよりも、むしろその手法を深化させる。その意味で筆者は作家の初期作に大いに関心がある。昨日書いたように、人間の個性は、本人や親、周囲の者が気づかないだけで、ほとんど生まれたと同時に具わっている。ただし、これは他者への偏見になりかねず、自省の意味で自分に限ってのことと思うのがよい。
『10ミニッツ…』の2枚の中古DVDを買ったのはヘルツォークの作品が含まれるためだ。同じ盤にヴェンダースの作品も含まれていて、双方の短編はこれほど端的に両者の個性の差を教えてくれるものはない。今のところ筆者は全15作品を一度だけ見たが、最もわかりやすく、後味のよいものはヴェンダースで、彼がハリウッドで成功したことが本作からもよくわかる。映画を見ている間、はらはらさせられ続け、最後に後味のよい落ちがある。これはハリウッド映画の鉄則で、ヴェンダースは本作でその職人芸をこれ以上は考えられないほどに手際よくまとめている。だが、それは強い個性を持つ他の監督の作に混じって存在感を増すもので、ハリウッドの娯楽超大作からすればあまりの低予算であり、4コマ漫画の安っぽさであろう。とはいえ、気難しそうな短編ばかりであることが素人にもわかる本DVDのようなオムニバスには、息抜きのようないわば軽い作品は必要だ。30年もっと前のNHK-FMのクラシック音楽番組では、名前は忘れたが、有名な音楽評論家がベートーヴェンの交響曲をかけた後、「お口直し」と言いながらクラシック音楽を元にした軽音楽を流していた。緊張と弛緩を取り混ぜるその手法は、番組の運びとしてとても優れていた。緊張を強いることが本命で、弛緩はお茶を濁すようなどうでもいいことになりそうだが、実際はそうではなく、弛緩は弛緩なりの真剣さがある。そこで日本のお笑い芸人の存在意義もあろう。だが、政治の話題をお笑い芸人たちが寄って集まって論じているあまりの内容の偏向さは見るに絶えず、嫌悪感から筆者はすぐにTVを切る。彼らは権力側の飼い犬になっていて、その惨さはお笑いでは済まず、弛緩の最たるものとして日本のメディアを汚染し、緊張の片鱗さえもない。つまり、TVに緊張は存在しないが、緊張は男で言えば勃起であり、それなくしては命の持続はない。ともかく、日本が没落に向かっているとすれば、その様子はTⅤ番組の現状が示しているはずだが、番組は金を出すスポンサーあってのもので、そしてスポンサーは資金がものを言い、そのことは大量生産品をより多く売ることに負うから、20世紀初頭からの大量消費文明の中で生まれた映画がハリウッド化することは必然であった。そこに映画の実験性とまた文学や絵画に比べての面白みのなさもあるが、誰もが映像を手軽に撮影出来て発表出来るYouTubeが劇場公開の映画にない芸術性を持つかどうかは、まあ望みはないと筆者は思っている。それはたとえば本作を見ればわかる。短編であっても監督は1秒に満たないカットに工夫を凝らし、どの画面のどの細部にも意識が張り巡らされている。それは物作りをする人ならば当然の行為のようでいて、実際はそれが出来るのは稀な才能のみだ。ヴェンダースはそのひとりとなって、本作は10分という制約をごく単純な内容で構成する。
それは他の監督のように哲学的という意味ではなく、娯楽に徹する立場だ。砂漠の中の道路を突っ走る一台の車がテーマで、その点で『パリ、テキサス』を誰しも思うが、本作は同作から18年後だ。その間、ヴェンダースはアメリカに住んでいたのかどうか、またアメリカの砂漠を舞台にした映画を撮ったのかどうかも筆者は知らないが、本作のアイデアは『パリ、テキサス』の頃にあったのではとふと思った。それともうひとつ思ったのは、『べルリン、天使の詩』であったと思うが、その作品ともつながりがある。それは人間が見る幻想の表現だ。『ベルリン』では睡眠中の夢を映像化した場面があった。それは筆者には不満であったが、個人の夢は映像化出来ないからには、どのように表現してもそれが間違っているとは言えない。夢を文字で表現することは出来ないが、そのことで却って本物の夢らしく他者に伝えることが出来る。そうした夢を映像で示すことは画家や映画監督にはかなり魅力で、筆者も自分の夢を映像化したい思いはある。それはさておき、本作では間違って麻薬入りの菓子を一袋全部食べてしまった男が強い幻覚に見舞われ、急遽病院で胃の洗浄を行なわねば死に至るので、砂漠を車で走って病院に駆けつけるという話だ。最初に訪れた医院は扉が閉まっており、12マイル先の別の病院へと砂漠を走るが、途中で幻覚が最高潮になって車を停める。そこに追い着いた車の運転手の若い女性に瀕死の状態で這って頼み込み、彼女の車で病院に着いて手術を受け、無事快復して彼女と談笑するところで終わりとなる。男が汗まみれになって幻覚に見舞われている際のその脳内の映像は、わずかに若い女性が1秒足らずの間、中年女性に変わっているという場面のみで、その他は撮影カメラのピントをぼかしたり、色合いを七色気味に変えたりするなどで、それはそれでとても印象深いので、新たな映像技術が駆使されているのだろう。登場人物はほとんど中年男と彼を助ける若い女のみだが、前述のように同じ服装と態度のみで女が中年の別の女性に変わる場面は、10分の間の0.5秒であり、手間と経費の贅沢な遣い方としてとても効果的でさすがのプロを思わせる。誤って大人用のクッキーを全部食べてしまったという設定は、アメリカではごく普通に麻薬が入手出来ることを示すようだが、麻薬は命に関わる問題であることを本作は描いていると見てもよい。また彼のロード・ムーヴィーらしく、道を行くと必ず何か出会いがあり、そのことで人生、運命が変化して行くことを本作でも描いている。本作の蛇足的結末として、病床で快癒した男は見守っていた女に感謝し、また好意を寄せているが、そのことを女は感じ取っていて、もうひとつ別の短編が本作に続きそうな余韻を描き、人生を道路と捉える監督の思いを反映している。結末は「禍転じて福と成す」で、15作のうちでは最も後味がよい。
●スマホやタブレットでは見えない各年度や各カテゴリーの投稿目次画面を表示→→