賞を獲った作品が必ずしも名作となって長年評価されるとは限らないが、受賞は作者の励みになり、優れた作品を遺す可能性につながるとは言える。
筆者も若い頃は本職の染色でいくつかの公募展に出品して受賞し、賞金稼ぎのような気分になったことがあるが、2年連続でキモノと屏風それぞれが京都府主催の公募展で賞金つきの最高の賞をもらい、その一定の目的を遂げた思いで公募展に関心を失った。そういう年齢でもなくなったうえ、文章を綴ることに主眼を置き始めたので、ここ10数年は鵜飼を見ずに迂回している気分だが、その文章作業は自分の染色と無関係ではないどころか大いに関係し、また誰もやっていない仕事という自負がある。つまり、筆者は自分のやることはみなつながりがあると思っている。そのように考えなければひとつの大きな仕事を長年続けることは難しい。それでも息抜きは必要だ。そこから自分の仕事を眺めると、足りないことや欠陥めいたことも時に見える。筆者にとっての息抜きは展覧会巡りや読書、音楽を聴くことだが、一昨日も今日も数キロ単位の重さの本が届き、常に興味を広げている。音楽も同様だが、CDは聴くのに勇気が必要で、買ったままで長年聴いていないものがたくさんある。それなのに昔聴いて感動したハイドンの交響曲をじっくり聴きたくなって、ハイドン全集を買おうと思っているが、そのCDを全部まともに聴くと1年以上は必要だろう。そこで思う。後何年生きられるかだ。年々読みたい本、聴きたいCDが増えるのに、寿命は確実に減少している。「いつかやろう」という思いは40歳くらいまでがよく、それ以降はすぐに行動に移したほうがよい。「いつか」は「今」で、死ぬまでやって来ない。そのことを筆者は重々知っているが、何事も時機がある。それがふさわしくなければ得るものは少ない。それで多くの未知の本やCDを手元に置き、また大量の展覧会を見る必要がある。映画にしても同じだが、筆者は映画の知識はとても少なく、わずかな監督の作品を全部見たいと思っているだけだ。そういう監督のひとりがドイツのヘルツォークで、最近彼のDVDを1本見た。そのつながりで7,8年前に買った、ヘルツォークを含む15人の監督の短編を2枚のDVDに収めた2002年の『10ミニッツ・オールダー』を数夜費やして見た。このオムニバスの題名はどの短編も10分にまとめられていることによるが、ある作品をTV画面に映る時刻を確認しながら見たところ、10分以上あったと思う。映画祭で受賞していないと思うが、どの作品もとてもきわめて印象的で、各編に対して短い感想をブログに投稿して行くつもりでいる。2枚は「イデアの森」と題するGREENと「人生のメビウス」というREDに分けられている。筆者は後者から見た。見た順に感想を書かず、今日は前者に収録されるイジー・メンツェル監督の「老優の一瞬」を取り上げる。
人生で言えば10分というごく短い時間にこれほどに凝縮した内容を盛る監督たちの技量はさすがで、筆者は素人が作ったYouTubeなどで貴重な自分の時間を費やしたいとは思わない。TVも同じで、醜悪な顔や態度のお笑い芸人は筆者にはもう全く必要がない。ただし、彼らには彼らの時間の流れがあり、また誰でも自分の時間を自由に使ってよく、他人の生き方を否定するつもりはない。前に書いたが、お笑い芸人が街中を歩き、商店や地元のそれなりに知られる人を訪れる朝のTV番組がある。番組制作者や出演している芸人たちは素人を食って飯を食っているわけだが、彼らにすれば素人をTVに出演させてやっているという考えだ。TVで名を売って金儲けしている連中はTVに映らない人を軽んじ、存在しないも同然と思っているだろう。現都知事がTVキャスター上がりであるのは、その後の彼女の本性を表わしている。要するに目立ちたがりで自分の存在を世間に広く知ってほしいという一種の病気だ。そういう人間はだいたい中身が空疎だが、同じ病に侵される若者が毎年大量発生し、同類が群がって中身のない英雄を担ぐ。思い出したのでついでに書いておく。20歳で引退した女性アイドル歌手の数百の曲が最近ネットで聴くことが出来るようになった。その歌手の近影を2、3日前にネットで見たが、普通のおばさんになっていた。あたりまえのことで、それでいい。筆者はその歌手に何の魅力も感じず、歌もまともに聴いたことがないが、20歳で引退するのは原節子以上に見事と言ってよく、そのことだけは感心していた。芸能界はただの泡の集まりで、ある程度の名声と金を得ればさっさとやめるのがごくまともな考えだ。つまり、その歌手はきわめて常識人で、その点に好感を持っていた。ところが彼女は男優と結婚し、息子は歌手となったと聞く。家内が言うには、2,3年前のTVでその息子はある有名な俳優一家の長男の男優から、「ザッパを聴け」と忠言されたとのことだ。つまり、ロックをやるならザッパを聴いておけという、いわば本物志向の言葉だ。その後その若い歌手がザッパを聴いたかどうか知らないが、ザッパの音楽を少しくらい齧っても本質はそう簡単には見えない。また理解したとして、日本の中身からっぽの芸能界ではザッパ的なるものを活かす場は皆無と言ってよい。話を戻すと、20歳で引退したアイドル歌手が息子を同じ歌手にしたことに筆者はひどく幻滅した。息子には何歳まで芸能人をやらせるのか。しかもザッパの音楽を知らない男のロックなど、頑張ったところで泡沫にもならない。ザッパには10分を超える曲がたくさんある。誰も10分経てば10分老いるが、それが人生の長さに比べるとごく短いので10分を十分気にしない。だが、その10分は時として一生を左右するほど濃縮された記憶となる。そういう決定的な出会いが人生には何度かある。
そのことを『10ミニッツ…』は暗に言っているが、筆者の年齢ではこの映画で人生が変わらず、これまで感じて来たことを確認するだけだ。また話は変わる。今はスマホで簡単に写真を撮って紙に焼かないので、写真は映画の一場面のように、より記憶されることになった。筆者は自分の姿をめったに撮影せず、生誕100日や2,3歳の頃、小学生になる前の写真が年々大切に思えているが、生誕100日ですでに筆者の今の姿が見えている気がするからだ。そのように見たいだけなのかもしれないが、赤ん坊の筆者が遠く見ているものを今の筆者は同じように見ている気分になれる。前に書いたことがあるが、甥が小学5,6年生の時の何のサークルか忘れたが、ひとりずつの上半身の名刺サイズの写真が隙間なしに100、200枚と並ぶ写真集を見たことがある。その時に筆者が感じたことは家内も同じで、どう言えばいいか、彼ら少年少女のひとりずつの自己主張ぶりが集合となった状態は喧噪そのもので、筆者は各人の写真をまじまじと見始めながら、20名ほどでもう音を上げて目を逸らした。人間は10歳くらいになるともう大人と同じで、「かわいらしさ」がないということだ。そのように感じる筆者であるので、2、30代の美女を見てもほとんど心が動かない。ましてやイケメンと言われる芸能人男性やホストを見ると、誰もが頭からっぽの醜い人形に思える。ただし、女も同じような者が大半なので、彼らの美形は世間でもてはやされ、有名かつ金持ちになって、そうでない者からは羨ましがられる。だが、原節子もそうであったように、彼らとて人間で、老いから逃れられず、またそうなれば注目もされなくなる。本論に入る。イジー・メンツェルはチェコの監督で、本作に登場する主役の男優ルドルフ・アルシンスキーはイジーの映画では有名のようで、94年に73歳で死んだ。本作は彼の若い頃からおそらく死ぬ歳までの映画から彼の場面を抜き出してつなぎあわせたものだ。主題は女との恋で、人生を走馬灯のように映像詩として描き、男の一生はロマンで最期は孤独であることを見せる。老齢になって自転車で去るテニス・ウェアの女の尻を見続ける場面がある。また若い娘と抱き合ったと思うと次の場面ではベッド上の別の女優に変わっていて、筆者はフェリーニの『カサノヴァ』を思い出した。アルシンスキーは73歳にしては老け過ぎで、中年の頃の恰幅のよさが消え、頬がこけて目は赤く、涙で潤んでいた。若い頃は何人も女は寄って来たはずだが、70になれば悲しみばかりが滲んでいる。そういう男の一生を数々の映画から10分にまとめ上げていることは、今のYouTubeで過去の若い映像がふんだんに見られるミュージシャンと同じで、イジーはそのことを本作で予見し、先取りしている。無名の筆者は生誕100日と小学校入学時の2枚の写真だけで十分だ。そこに筆者の全人生が予告されている。
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