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●『ジョン・レノン IN NEW YORK CITY ボブ・グルーエン写真展』
9日に行く予定が昨日になったが、すっかり春めいた天気でかえってよかった。ここ数日、この写真展に行くことを考えながら、ジョン・レノンのある曲をよく思い出していた。



●『ジョン・レノン IN NEW YORK CITY ボブ・グルーエン写真展』_d0053294_1323252.jpg正確にはビートルズの曲で、「DEAR PRUDENCE」だ。この曲は大抵のビートルズ・ファンなら知っているが、それほど有名ではない。ビートルズ時代のジョン・レノンが歌う曲であまり知られていないものの中にもいい曲が多いが、筆者の周りにはそんなビートルズの奥深いところを話せる人物はいない。以前はいた。Fだ。だが、6、7年前にタイに永住してしまって音信不通になった。Fと筆者がほとんど最後に会った場所は、四条河原町を八坂神社に向かって数分歩いたところにあるドトール・コーヒーだ。入ってすぐ横の、通りに面したカウンターの端でコーヒーを飲んだ。今日、その店の前を通ると、つい数日前に閉店が決まったようで店は閉まっていた。店は全面ガラス張りなので、店内は歩きながらもよく見えていたが、これももうしばらくの間のことだ。やがて次のテナントが入って内部をすっかり改装してしまう。何でもそのようになくなってしまい、次に人々の記憶も消え去る。そうそう、ジョンがピストルで撃たれた時、電話でFが知らせて来た。つい昨日のようにその電話の声を記憶しているのに、26年も経ったとは信じられない。ジョンは1940年10月9日生まれで、40になって間もなく亡くなったが、その時を境に歳を取らなくなった。ジョンが死んだ時に筆者は29歳、今はジョンを追い越して54になっている。その差はますます開いて行くのに記憶は古びず、いつでも「DEAR PRUDENCE」のイントロのギターの音色を頭の中に鳴り響かせることが出来る。人々の心にずっと残るのはそんなメロディの断片だ。難しい哲学やここで筆者が書くような長いだらだらした文章ではない。限りなく短く、それでいて他に代えられないもの。そんなものをたくさん生み出す人こそ、本当の芸術家として讃えられる。
 つい先日の新聞に、防寒服に身を固めたポール・マッカートニー夫妻が、カナダのどこかで氷上のアザラシの赤ちゃんを間近で見つめている写真が載った。そこからは環境保護問題に力を入れている様子が伝わるが、ポールの音楽活動は近年はぐんと話題にならなくなった。1967のビートルズのアルバム『サージェント・ペパー』には、ポールが歌う「ホウェン・アイム・シックスティフォー」という曲があって、64歳になった自分を想像して歌っている。膝に孫たちを抱える姿を20代後半のポールは思い浮かべていたわけだが、ポールは今年6月18日に満64になる。孫はいるのかどうか知らないが、64歳記念に同じ曲を録音して発売してほしい。それはさておき、ポールが死んでもジョンほど騒がれて悲しまれることはないだろう。今回の写真展ではあちこちにジョンとボブ・グルーエンの言葉を書いたパネルがあったが、それとは別の説明書きの中に、ジョンが20世紀を代表する10人の人物のうちのひとりに入るとあった。残りが誰か気になるが、この表現は一見おおげさなようだが、本当に正しいかもしれない。若者たちに大いに影響を与えたことを考えれば確かにそう言えるからだ。だが、ジョン自身はそんなことはどうでもよく、ただのロックンローラーの肩書で充分であったと思う。実際わずか2、3分で演奏し終わる曲ばかりを自作自演した才能に過ぎないという見方も出来る。それらの曲は短くて単純なあまり、歌いやすく覚えやすい。そのため、ずっと歌い継がれるだろう。そのことで充分であり、20世紀の10人のひとりといった賛辞には苦笑するに違いない。よくこんなことを考える。もしジョンが今も生きていたならばどうしたかだ。筆者の想像では、日本に年の半分ほど住み、たまにはTVのヴァラエティ番組に出るなどして、ますます存在は知られるようになる反面、オーラが失せて、それこそただのロックンローラーの陳腐さを晒す姿だ。それもまた面白いと思うが、結果的には神格化されるにふさわしい死に方をした。「ラヴ・アンド・ピース」はヴェトナム戦争時代にヒッピーを中心とした若者たちが唱えた合言葉だが、ビートルズ時代にすでにヨーコと出会っていたジョンは、ビートルズの解散後も「ラヴ・アンド・ピース」を実践する行動で大いに話題を撒いた。ソロ時代のジョンはほとんどヨーコあっての存在に見えるほどだが、そうしたことがもっとよく見えて来るのはまだまだ先のことだろう。ジョン自身はどちらかと言えば「ラヴ・アンド・ピース」を心底思っていたと言うより、ただのロンクンロールを歌っていたかっただけと思える。昨夜TVでジョンが歌う「スタンド・バイ・ミー」が少し流れた。それはもとはジョンの作曲ではない。だが、ジョンが激しく歌えばオリジナルを越える。ジョンがシャウトして歌うその曲には聴いていて涙が出そうになる部分がある。そしてとにかく格好いい。そのように歌える人物はそれこそ20世紀にはほかにいなかった。
 格好いい存在はそれだけで価値がある。それは同じサングラスをかけて同じヘア・スタイルをして、同じ服装を身につけ、同じ歌を歌っても再現出来ない。むしろそんなことをすればとても格好悪い。模倣するなら、何かを徹底して変える気持ちがいる。それは自分はここが違うのだという確信だ。模倣から出発しながらも、ビートルズが生み出した曲は奇跡としか言いようのない火花を散らしてレコードに収まっている。あまり知られない「DEAR PRUDENCE」という曲ひとつを見ても、どうしてそんな曲が書けたのかと思う。それはもはや誰にも作り得ない境地に届いた作品で、他人が似た曲を作ろうとしてもいやらしさが出るだけだ。ただのロックンローラーがなぜそんな曲が書けたのか、ただただ驚くばかりだ。それはただのロックンローラーには収まらない何かを持っていたからだろう。ロックンロールが世に出た時にちょうど巡り合わせてジョンの才能が開花したのであって、時代が違えば別のことで何かを成していたに違いない。つまり、ロックンロールが生んだ天才だ。ロックンロールが今のように広く市民権を得た時代にあっては、後は退屈な模倣や3、4流の才能が続いて金儲けに走る者が出て来るばかりだ。それがロックンロールというものを堕落させる。そしてそのことがジョン・レノンを今の神々しい地位からいずれ引きずり下ろさないとも限らない。いや、きっとそんな反動的な時代は来る。だが、そんな時代が来ても、ジョンの歌声はただのロックンロールにおける感動的な別格的存在として支持する人の出現はなくならない。筆者はどちらかと言えば、ジョンを愛と平和を説いた人道主義者のように讃えるのは大嫌いだ。だが、誰がどう非難しようとも、いつでも思い出せて、ある一定の気分にさせてくれる数多い曲を作った人物としてずっと心の中にある。それはもっと別の好きな画家の作品を思う時の気分と同じであって、自分にとってはかけがえのない芸術なのだ。筆者はそんな芸術家を心に秘めることが出来て幸福に思う。したがって、周りにジョンのことを話し合える人物が誰もいなくても全くかまわない。むしろ、中途半端にわかっていると言うような連中と話すことでジョンへの思いを壊されたくない。
 ボブ・グルーエンは1970年にティナ・ターナーの写真を撮影した。それが後にティナの夫アイク・ターナーが偶然見て気に入り、一緒に仕事をしようと誘った。そしてボブはさまざまな音楽業界人と出会うきっかけを得た。アイクがティナをドメスティック・ヴァイオレンスでいじめ抜いたのはよく知られる話だ。ボブがまだアイクとティナの関係が破綻を来さない時にティナに出会えたのは幸運であった。今回、出口の売店ではビートルズの絵はがきがたくさん売られていたが、一番最初にあったのは若きティナの笑顔を撮影した写真だ。それが最初に置かれていたのは、ボブにとって幸運の女神がティナであったからだろう。ジョンとヨーコがニューヨークに住み始めたのは1970年だが、ボブはジョンとヨーコがアポロ劇場でチャリティ・コンサートをしている時に初めてふたりの姿を見たそうだ。1971年のフィルモア・イーストの舞台上での姿を撮影した写真もあったが、正式にジョンとヨーコに出会えて間近で写真を撮らせて貰えるようになったのは1972年だ。1971年にジョンの姿を一般人がたくさん撮影しているのに混じってボブも撮影していたところ、ジョンは撮影された自分の写真はどこへ行ってしまうのかと、たまたまそばにいたボブに声をかけた。ボブは自分なら写真を手わたせると言うと、ジョンは自宅まで持って来てドアの下からすべり込ませてほしいと伝え、後日ボブは本当に写真を持って訪問した。だが、ジョンはおらず、結局手わたすことは出来なかった。つまり、この時はまだボブとジョンの正式な出会いではなかった。1972年に『ロック・フォトグラフ』の仕事をすることになり、この本でボブにインタヴューしたライターが、自分の文章のためにジョンの写真を撮ってほしいと依頼した。これで正式にジョンに会えるきっかけを得た。そしてレコーディング・スタジオに出かけると、何時間か待たされたものの、ボブは努めて緊張をほぐして自然体でジョンとヨーコに会った。このことがふたりに好感を持たれ、以後ふたりを自由に撮影してよい専属の写真家の地位を得た。今回の展示はそのようにして撮影されたさまざまな場所でのもので、プライヴェートな感じのものが多い。アルバム・ジャケットに使用されるなど、有名なものも少なくないが、初めて見るものもたくさんあった。カラーは比較的少ない。またポートレートだけではなく、ニューヨークの風景写真もまま挟まれていて、これがニューヨークと当時の時代を感じさせてよかった。印象に残った写真を挙げると切りがないが、アンディ・ウォーホルと話しているところ、ニルソンと寛いでビリヤードをしているところ、生まれて間もない息子ショーンにミルクを与えているところ、ボブが最後にジョンを撮った写真、亡くなった直後に若者がたくさんセントラル・パークに集まっているところなど、おそらく無数にあるネガから選ばれたに違いないこれらの写真からは、ジョンの話し声が聞こえて来そうであった。
 写真はどれも痩せたジョンを伝えていた。ロンクンローラーが太っていれば何となく汚らしくてコメディになる。だが、これも40で死んだからで、もっと長生きしていると、ふっくらと肥えたジョンが見られたかもしれない。ジョンが死んだ後に日本の有名人が寄せたコメントを集めた本があった。そこでは確かエジプト旅行から帰って来たばかりの糸井重里が、晩年のジョンがすでに有名ではなく、痩せて、しかもうすい皮膚の下が透けて見えて侘しい姿になってしまっていることをかなり茶化して書いていた。それはジョンをとっくに過去の存在とみなした傲慢な印象を与える文章で、当時筆者は憤ったものだ。有名になったことで仕事が豊富に舞い込み、それで自惚れるような存在にはろくなのがいない。ジョンはそんなことはなかった。ビートルズ時代にキリストより有名だと発言して叩かれたが、これは実際正しかったし、どこか愛嬌がある。コピーライターも短い言葉や文章を世に送る存在で、その分、人々の記憶に長く残りやすいと言えるが、最初から商売で作るそうした文章は消耗品に過ぎない。そこには内からほとばしる魂など入り込むはずがない。会場の中ほどにはビートルズやジョンの曲をライヴで演奏するステージが設えられていた。だが聴けなくてよかった。レコードで本物を聴く方がよい。あるいは自分で歌うかだ。ビートルズとジョンのLPジャケットがずらりと並んでいるコーナーがあった。どういうわけかビートルズの『ホワイト・アルバム』はなかった。それは真っ白なジャケットであるので展示しても仕方ないと主催者が考えたか。だが、並べられていたジャケットは版がまちまちでその点はセンスが欠けていて、ビートルズ・ファンやジョンのファンを馬鹿にしている。そうそう、『ホワイト・アルバム』には2曲目に「DEAR PRUDENCE」が収録されている。なのにそれがないとは。図録が2000円で売られていたが買わなかった。2000円はもったいないし、ニューヨーク時代のジョンの写真はボブだけが撮影したのではない。それに資料としてあまり重要には思えなかった。「PRUDENCE」は「慎重」や「倹約」という意味だが、実際の女性の名前として昔は使われた。それは慎ましい女性に育つことを思っての親心だろうが、娘は迷惑だろう。そのことを思えば、この曲の歌詞がジョン特有の皮肉も込められていることがわかる。The sun is up,the sky is blue,It’s beautiful,and so are you,Won’t you come out to play?……
by uuuzen | 2006-03-12 01:33 | ●展覧会SOON評SO ON
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