溝の中に汚水が流れて行くドブは、下水道が発達してもうほとんど見られなくなったが、それは日本ではたかだか半世紀ほどの歴史だ。新しい世代はドブを不潔の権化のように思うだろうが、筆者が小学生の頃は遠足で郊外に行くと、人糞を肥料とするために貯め込んだ円形の大きな筒が畑の片隅にあった。
そこから漂う臭気を級友たちは「田舎の香水」と囃した。今では化学肥料に切り替わって、野菜は雲古を栄養とすることを知らない子どもがいるだろう。ドブは消えたが開渠の用水路は残っていて、ドブほどのひどい臭いはないが、わが家の裏庭向こうの用水路は、梅雨の大雨で水嵩が増えないように上流の堰の門が閉められ、干上がった状態になっているために藻の臭いが強く漂っている。その用水路沿いにどの家も草木を植え、アジサイの花が半ば水流に浸かっている眺めが毎年見られる。梅雨時に楽しめる花の代表のアジサイは、残念なことに香りがない。一昨日嵯峨のスーパー行く途中、人気のない嵐山公園でクチナシの白い花が満開になっているのを発見し、その六弁花を見た途端、ヴァニラのような甘い香りがした。その花の濃厚な白さと香りは、筆者には白の袖なしワンピースを着た西洋の日焼け娘を連想させるが、八重のクチナシはさらにそうだ。そう言えば筆者は八重のクチナシを何度も写生したことがあるのに、それを題材に作品を作ったことはない。さて、スーパーへの途上、蔦が絡まる古い家のすぐそばの細道の角にひっそりと青いアジサイが数十個咲いている。その青が紫味が皆無の青空のようで、その珍しさにいつもしばし注目する。濃度の浅い青に葉の色は釣り合いの取れた黄緑で、ひとつずつの花弁(実際は萼)は小指の爪ほどに小さく、花の塊も拳より少し大きいほどで、全体に弱弱しい感じが漂っている。それがまたよい。わが家の近くには真っ赤やオレンジ色のアジサイも咲いていて、アジサイには白を初め七色があるのではないか。わが家のアジサイは植えて30年にはなるが、最初はやや紫味がかった青のみであった。筆者はそれをとても好み、赤は論外として、紫やピンク系のアジサイも嫌悪していた。ところが10数年前から紫が勝って来て、今ではピンク色も多い。それが嫌で、元の紫青に戻せないかと、数年前から土壌のPH濃度を変えようかと思い始めたが、先日大雨の中での満開を見ていると、色の混じっている様子が楽しかった。水は別として養分を一切与えず、放置状態でこうなって来たからには、それが自然ではないか。アジサイとしてはなりたいように変化して来た。元の紫青のみの状態に戻そうとすることは白髪を染めるように不自然だ。あるがままを肯定し、楽しむ気持ちの余裕は持つべきだ。ただし、それは筆者にとっていわばどうでもいいものに属するアジサイであるからかもしれない。

わが家のアジサイは花期後の剪定がまずいのか、一時期は花の数がかなり減った。今年は赤ちゃんの頭大が4,50咲き、またそのうちの数個は毎年大雨ですぐに頭を地面に垂らす。そういう花は家内が切り取って花瓶に挿し、食卓で愛でることになる。今日の写真は10日の撮影で、目の高さに咲いているものを選んだ。前述した嵯峨のとある四つ辻の角に咲く青いアジサイは、この写真の青花の紫味のない左半分よりさらにわずかに緑味を帯びた青で、その日本的な色合いの風情が印象に強かったのか、昨日の早朝、夢うつつの中で中学生の同窓生の女子Oを思い出した。Oは小学生の時も同じクラスになったことがあるが、言葉をまともに交わしたことがなく、彼女がどこに住んでいるのも知らなかった。正確に言えば今も知らない。好意がないからだ。Oは長身で、こけしのような美人だが、成績は中以下で、言葉が少なく、目立たない。「おしとやか」や「奥床しい」と言えるが、あまりにも出しゃばらず、男から注目されない。名字からして雪深い越前越後の出と思うが、そのように思うとその寡黙で控えめな態度がわかる気がする。中学の卒業以来、Oを一度だけ見かけた。20年ほど前のことで、筆者は同じく中学の同窓生であったNを大阪に出たついでに訪問した時だ。Nの住まいの前で立ち話をしていると、斜め向かいの家から、緑と茶を基調したぴったりとしたセーターに、これも体にぴったりとした黒か焦げ茶のズボンを履いたOが出て来た。Oは10メートルほど離れた場所に立つ筆者をまともに見つめ、そして数秒後にはにかみながら小走りで家の中に消えた。NはOだと言ったが、OがNのすぐ近くに住むことをその時に知った。当時は何度も同窓会を開きながら、Oは一度もやって来なかった。Nが誘っても断ったのだろう。Nは独身のまま死んだが、当時のOが家にいたことは、独身か出戻って来たと考えてよい。Oは中学生の時の雰囲気のままで、彼女が恥ずかし気に家の中に駆け込んだ様子はいじらしかった。ただしそれだけのことで、筆者はOに好意を抱いたことはない。ところが、近年ごくたまにOのその時の行動と表情を思い出す。Oが筆者に好意を抱いていたかどうかは知る由がないが、今の筆者ならOに声をかけ、面白い話をして和ませたであろう。それは彼女への憐憫からでもあるが、彼女のような目立たなくも美しい女性が、なぜ独り身で実家に暮らし続けねばならないのか。だが、そのような女性はいつの時代にもいるはずで、またつまらぬ男に振り回される、あるいは振り回す人生がいいとは限らない。
ドブに放り込まれたアジサイを
小村雪岱は市井の美人にたとえた。古くてくすんだ色の見捨てられたような街にひっそりと暮らしていたOは、前述の嵯峨の青いアジサイのような美しいさびしさがあった。その後彼女がどうしているかは知らず、Nがいないでは知る手立てもない。
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