第9交響曲の9年前の録画を先ほどTVで見た。震災復興祈念としてズビン・メータが指揮したもので、これを当時筆者は見たが、今回はより感動が大きかった。特に第4楽章では家内に悟られないように何度も瞳を潤ませた。
今日はその話をしようと思いながら、投稿のために用意している10数枚の写真のどれもが文章内容とあまりにちぐはぐになる気がしていて、支離滅裂を書いてしまいそうだ。それはさておき、ここ数日で映画を何本か見たのでブログのネタには困らないが、考えをまとめる必要上、投稿はずっと先になるかもしれない。昨日家内は筆者のことを考え事が多くて大変だと言った。家内と終日一緒にいてもしばしば筆者は空を見て家内の話を聞いていないことがあり、確かに常に何かを考えている。それは筆者の場合、いつもぼんやりしていることと同義で、その思いの混沌状態をブログの投稿に毎日それなりに形にせねばならず、それが時にしんどいながらもやはり好きであることを昨日家内に言い返した。その時に持ち出した例がストラヴィンスキーが毎日数小節、五線紙を手描きして作曲した事実だ。その日常の中から作品が形となって浮上した。同じことはベートーヴェンも言えるはずだ。創作家すべてがそうだと言ってよく、逆に言えば毎日わずかでも創作しない人は優れた作品を生み得ない。はははは、書き始めれば興に乗ったかのようにどんどん進む。とはいえ、筆者のブログは
ぺんぺん草のようなものだ。ほとんど誰も気づかず、ただそこらに生えているだけのようなものだ。さて、6日の昼下がりに鵜屋の写真を撮りに中ノ島公園に出かけた際、現在休業中の「風風の湯」の前の林に幾組かの家族連れがくつろいでいて、少女が大きなシャボン玉を作って飛ばしていた。卓球のラケット大の青いプラスティックのシャボン玉製造器を、地面に置いた石鹸水を入れた青くて平たい容器に漬けては振っていたが、大半のシャボン玉は鈴なりにくっついてあまりきれいではなかった。ただし、少女の仕草が絵になっていた。その様子を撮影しようかと思いながら、見知らぬ爺では不審者に間違われる。それでいわば仕方なしに彼女が立つクローバーが繁茂する林を横切って家に戻る際に今日の写真を撮った。見えにくいが、クローバーの手前にぺんぺん草が生えている。写真を撮ってすぐ、しゃがんで四つ葉のクローバーを探したが、少女の気が散りそうな気がして数十秒でやめた。四つ葉のクローバーは踏みつけられた幼葉がそうなりやすいとのことなので、桜の林にはたぶんあるだろう。何だか急に興が削がれて文字どおりどうでもいいぺんぺん草を書いている。四つ葉のクローバーを見つけていれば違ったか。クローバーの写真を撮ったのは、
8日に「ハート」のことを書いたからだ。トランプの「クラブ」の三つ葉のクローバーは地味ながら形がよい。それが四つ葉では面白くない。
今朝は中学生の同級生の女子の面影を思い出した。それについては明日に回すとして、話を第9交響曲の放送に戻す。指揮者のメータの表情が険しかったのはあたりまえとして、大地震でフィレンツェ・オペラの来日公演のすべてがこなせられなくなり、メータは急遽ベートーヴェンのこの曲を採り上げることにした。この曲を若いワグナーが愛し、とことん研究したことはよく知られるが、レコードが発明されてから誰でも気軽に楽しめるようになったとはいえ、生演奏に接する人はクラシック音楽ファンでも少数派であろう。新コロ禍によって人と人との生の接触が禁忌され、ネットを介しての対話や作品鑑賞が増す気配にあるが、生での接触と違って映像には撮影者の意図が混じっている。指揮者や各演奏者の顔のクローズアップは生演奏の会場にいてはわからず、TVは生演奏よりもいいと考える人があろうが、遠目にわからない演奏者の顔が赤裸々に見えることはよけいな情報の提供であり、時に邪魔なものだ。そうした映像はベートーヴェンの意図とはほとんど無関係なものだ。ベートーヴェンは作品として楽譜に書いた。その楽譜にいろいろ版があるとしても、録音のみがいわばベートーヴェンの脳裏に響いていた音楽の体現で、生演奏の録画はベートーヴェンの想像を超えたものが入り込んでいる。そうであっても先ほどの演奏が感動的であったことは、楽譜には記されない指揮者や演奏者、演奏場所、録画やその編集といったことが、この曲の意図することから外れないどころか、拡大的に体現しているからだ。またシラーの詩「歓喜に寄す」を旋律にどのように組み込もうとしたかのベートーヴェンの腐心とその苦しみゆえの歓喜を筆者は感じながら聴いたが、新たな創作への意気込みがベートーヴェンの人生の原動力であったことは、おそらく同じように作品を常に構想し、また製作している人にしかわからない。一方で思うことは、映像を伴なう音楽が作品となる場合、たとえばYouTubeでは創作家はベートーヴェンよりもはるかに多くの事象に携わる必要があり、それはよほどの才能がなければ無理という現実だ。つまり、YouTubeにはろくなものがなく、ベートーヴェンの第9交響曲並みに人類の財産と呼ばれるほどのYouTube映像はあり得ない。先日も書いたが、何かを形として発表することは、そのどの細部においても製作者の美意識が認められるべきで、その観点からは、震災復興祈念のメータによる第9の映像は顔の彫りの深いメータは別として、各演奏者の表情は平凡な庶民を感じさせることがままあり、それがまた却ってクラシック音楽を身近なものに感じさせた。管弦楽曲の場合、作曲者、指揮者、演奏者の順でアウラが減少してあたりまえで、さらには演奏者の下位にぺんぺん草的凡人の聴き手がいると書きたいところだが、シャボン玉のような意見と思ってほしい。
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