劇薬と劇場に何の関係があるのかと言えば、劇は激で、演劇では役者同士が真に迫る激しい演技で応酬を繰り広げる。ちなみに、漢字に劇の左側は虎と豚から出来ていて、役者は虎か豚になりそうだが、虎と豚がぶつかり合うと激しい闘争になることは想像出来る。もっとも、豚は本来猪で、猛進する猪に虎はひるむだろう。
新コロの終息後、世の中が以前のように戻るかどうかは誰にもわからないが、惰性で続けて来たことを一新するのはいい機会で、たとえばTVでもう見慣れた画面上での遠隔出演は増えるのではないか。スタジオに出向く必要がなく、家庭教師や塾もオンラインが普通になるかもしれない。省エネと言うのであれば、まずは人の無駄な動きをやめることだ。となればネット依存が高まり、ライヴハウスでの演奏もオンラインで見せるようになるかもしれない。その場合、鑑賞者はどのように金を支払うのか筆者にはわからない。YouTubeが無料で見られるのであるから、オンライン・ライヴを見るのに金を出す人がいるだろうか。ライヴハウスを借り、オンラインで流すには複数の撮影者が必要であるから、実力の乏しい者はますます経済的に困窮し、懐がさびしくなる。また、映像が現実のライヴの代わりをするならば、演劇は映画のようになり、人間の生の姿を見ることの価値観に変化が生ずる。以前にも増して本物の演奏者や役者を眼前に見たいか、あるいは映像で充分と思うかだ。かつての映画俳優がスターと呼ばれていたように、めったに生の姿が見られないことによる神秘性を獲得するかと言えば、それは表現者各個人のネットの使い方次第だが、オンラインでファンと対話することで金を稼ごうとする者が増えるだろう。そのことでスター的神秘性が失われても、ファンあっての娯楽産業に携わる者だ。つまり、露出を控えて神秘性を保持する態度は古く、今の若者はそういう表現者を人気者ではないと無視するか、そもそも気づかない。ネットやYouTubeがそのような世界になることを導いて来て、今や小学生のなりたい職業の筆頭がユーチューバーで、今後誰もがネットをやり、毎日YouTubeを見るかと言えば、そんな時代は来ないはずだ。またネットやYouTubeから外れたところにいる人が、ネットやYouYubeに取り上げられることも続くだろう。ただし、どの人にも具わっている孤独感が今後どう変容して行くか。ザッパはしばしば歌詞で「さびしい人々」に言及したが、売春やポルノはそうした人のためのもので、それがネット時代により広範囲かつ手軽に利用可能となり、「劇場」と化したネットは「孤独な人」を増産している。これは孤独な人が率先してネットを開拓し、SNSやYouTubeを生み出したからだ。今は孤独な人が孤独な人相手に商売をする時代で、もうひとつ言えるのは、いつの時代も人間は「激」を欲し、それがネット上の誹謗や中傷になっている。
さて本腰を入れて書こう。筆者はキャロル・キングの「君の友だち」のように、すっ飛んで行って慰めたい人はない。顔を知る人が落ち込んでいることを知れば、声をかける程度のことはするが、真に孤独な人が発散するさびしさは伝染するので、誰しもなるべく近寄らない。そのことがわかると、つまり孤独な顔をしていればますます孤立すること自覚すると、明るく振る舞おうとするが、それが出来ない人が自殺したりひきこもりになったりする。どちらも精神を病んでいて、孤独を感じることは精神病の一歩手前ということになるが、ではどうすれば孤独を感じずに済むか。有名で金持ちになれば孤独とは無縁になると思っているのは幼稚園児並みの頭だ。そういう人は案外幸福かもしれない。とりあえずは目指すものがあるからだ。有名になりたい、金持ちになりたいと、一心不乱に生きている間は孤独にはなりにくい。それで望むものを得ると、やがて「こんなものか」と熱が冷める。もっとも、大多数の人は有名にも金持ちにもなれないから、諦めれば孤独に陥り、諦めなくても疲れから孤独を抱え、いずれにせよ孤独からは逃れられないが、大多数の人が自分と同じであることを知っているので、その孤独は「ま、こんなものか」と納得が行く。またそのように思えない人が自殺するが、それは現実が認められず、心を方向転換出来る余裕がないからで、そういう事態にある友人にキャロル・キングは「君の友だち」の歌詞を書いたのだろう。ところで、最近ヘルツォークの映画が気になり、何年か前に調べて知っていた『ミスター・ロンリー』のDVDを買って先日見た。知らずに見るとヘルツォークの映画そのものだが、彼は俳優として出演しているだけで、監督はハーモニー・コリンズというヘルツォークの崇拝者だ。2008年製作で、ヘルツォークもまだ颯爽としている。本作は昨日取り上げたボビー・ヴィントンの大ヒット曲「ミスター・ロンリー」をテーマ音楽とし、ほかにも多くの曲が流れ、その中にはとても興味深い、筆者が知らなかった曲もあるが、「ミスター・ロンリー」の調べが本作の雰囲気に最も似合う。使用権を得るのにボビーにかなり支払ったであろうが、この曲が改めて広く紹介されることになり、古典的名曲の風格を高めた。映画の内容はこの曲の歌詞とは無関係だが、この曲の発表から40数年経ってもさびしい人は同じようにいて、その意味で本作が突きつける内容は今後も古びることがない。むしろネット時代の進展に伴ってさらに孤独な人が増え、この映画の意味するところがより重視されて行くはずだ。本作の意味するところはわかりにくく、見る人によって、また時期にもよって、思いが異なると言っていいが、「夢も希望もない」のが現実で、それを見定めて孤独を抱えながら群れずに生きて行くという、きわめて古典的なあたりまえの人間の覚悟を描く。
本作の結論をどう解釈していいかわからない描き方がされているのは、それは見る者の自由という監督の思いだろう。誰でも自分の生涯があり、羊のように生きたくないのであれば、他者からとやかく言われたくない。自由とは孤独と同義で、大ヒット曲「ミスター・ロンリー」が、孤立無援の心境を歌うにもかかわらず、どこかからりと明るいのは、孤独の空虚さに輝かしい何かが入り込む余地のあることを知っているからだ。ハイネの『アッタ・トロル』では、熊が人間の所有欲を風刺する。ポケットがあれば所有欲は無限に続き、金儲け競争を人生と勘違いする。東北の大震災か阪神大震災か忘れたが、廃墟になった自宅の前で高齢の男性が、「みんななくなってしまった」と呟いているのでTVで見たことがある。筆者が感じ入ったのは、それがとてもさばさばした様子であったからで、そこに「ミスター・ロンリー」と同じ、一種の明るさ、未来への希望のかすかな光のようなものを見た気がした。人間はどんなことがあっても、何度転んでも起き上がることが出来る。この映画が言いたいことも結局はそうではないか。とても耐えられない辛い経験をしても、いつかまたむっくりと心は起き上がる。もちろんそれが出来ない人もいるが、そのような精神的に弱い人がいれば、なおさらそれを知る人は強く生きようと思うべきだ。他人の前で強がりを言ってもよく、また強がる暗示を自分にかけ続けると、いつの間にか本当に強い人間になれるものだ。ただし、もちろんそのためには目指すものに対して不断の努力を惜しんではならない。そして、自分が強い気持ちを持って輝いているとの自信を持って生きられるのであれば、それで人生は充分ではないか。そういったことを前述の震災の被害に遭った男性のわずかな言葉と素振りに筆者は見た気がしたし、その男性はアッタ・トロルのように自然で、欲がなく、とても格好よく見えた。なかなか本題に入れないが、あれこれ思いつくまま書く。さて、腑に落ちない箇所があれば何度でも見たくなるが、本作でまず思ったことは、映画監督と映画を見る一般人との壁だ。前者は有名人、後者は無名としてよく、その対立が本作の登場人物たちの世界にも描かれる。ところで、本作はふたつの物語が交互に映じられる。ひとつはヘルツォークがカトリックの神父役となって、パナマで尼僧たちとジャングルに住む住民たちにセスナ機で食料を投下するボランティア活動をしている画面で、もうひとつは有名人を物真似する芸人集団のスコットランドでの生活ぶりで、それらが全く別々の出来事として描かれる。だが、どちらの物語も最後は死が描かれ、死に主眼がある。どっち道死ぬのであるから、どう生きようが無駄と言えるが、死ぬのはあたりまえで、生きている間は自己主張してそれなりに楽しく生きるべきと読み解くことも出来る。そのどちらを選ぶかは本作の鑑賞者の自由だ。
物真似芸人は絶対に本家を凌ぐ存在になれないことを知っていて、本家の有名に対して無名過ぎる。それは本作における監督対鑑賞者の関係と同じで、本作の鑑賞者の大部分は、自分が本作の物真似芸人と同じく無名で貧乏である現実を知る。そう思うと、コリン監督はなかなか意地が悪い。孤独の権化のような、うらぶれて夢も希望もない物真似芸人の集団を描き、彼らが体現している孤独を鑑賞者が自覚することを無慈悲にも促しているようで、自殺願望や自傷行為の経験のある人は見ないほうがよい。本作の主人公はアメリカからパリに大道芸人として出稼ぎにやって来た青年で、彼はマイケル・ジャクソンの物真似をする。マイケルになり切っていると生きて行ける気分が保たれるのだ。偉大で尊敬出来る人物になろうとすることで生き甲斐を持つ人は珍しくない。だが、そこにはふたつの種類があって、本作のように物真似をするか、あるいは全くの独創で勝負するかだ。もっとも、物真似もいろいろで、演者によってその芸は異なり、そこに独創性が入り込むという見方も出来るが、本質は模倣であって独創性は低い。だが、独創も模倣がかなり入り込んでいる場合がほとんどで、物真似のほうが手っ取り早く、また多くの客を喜ばせることが出来る。独創を自慢しても、それは誰も注目しない無名の人の場合が圧倒的に多く、彼らの置かれている位置は物真似芸人と大同小異で、どちらも無名で貧乏だ。そして、ヘルツォークもコリンも世界的に有名で、次作を期待しているファンが大勢いる。有名監督の映画は一般人には手の届かない天空の星で、少人数の客を相手にする演劇とは違って、却って新型コロナ禍以降に重要性が再認識される媒体のような気がする。それに別の意味でも本作は新型コロナを暗示させる場面もあって、14年前の作品とは思わせない新しさ、普遍性がある。話がまた脱線するが、本作の半ばでスコットランドの古城で暮らしている物真似芸人たちが飼っている羊が伝染病に罹り、防護服を来た人が消毒に訪れたり、また羊がみな銃殺されたりする場面がある。それは見終わってしばらく考えないことには意味がわかりにくい。キリスト教で羊は人間の象徴で、本作の伝染病に罹って死んだ一匹の羊は、その後の物真似芸人たちの行く先を暗示している。結局一匹のせいで全員が死ぬ運命にあるということで、本作の物真似芸人集団には未来はない。ところが、そこから脱してパリに戻るマイケルだけは別で、彼はスコットランドでの短い暮らしの中でひとつの人生訓を得る。同じ物真似芸人でありながら、なぜ片や滅亡し、片や生き延びるのか。スコットランドの物真似芸人の暮らしは運命共同体だが、マイケルは元来ひとり芸で、群れる必要はない。新型コロナではないが、共同生活の三密を避け得たマイケルが生き延びるのは暗示的ではないか。筆者は自分の姿をそこに重ねる。
主役のマイケルを演じる若者は、本作のほとんど最後でパリの元締めを訪れ、もう大道芸をやめて生きると伝える。そういう心境になった経緯が本作で描かれるのだが、それについては後述する。元締めは『汚れた血』で有名になったレオ・カラックスが演じているが、彼はマイケルにこう言う。「今まで君のように普通に生きたいと何百人も同じことを言う者がいたが、みな失敗している。普通に生きることは惨めだ。君はマイケルで、そのようにしか生きられない。」 この発言の「普通」に該当する英語が何か聞き取ろうとしたが、わからない。ともかく、元締めは物真似芸をやめて普通の人と同じように働くことを「惨め」と言うが、アリとキリギリスのアリを惨めな生き方と言うのは、芸人を束ねて儲けている元締めならではの言葉ではある。本作を見る普通の人もそう思っている場合が多いので、芸人という職業が成り立っているが、アリ的な生き方の「普通」が本当に惨めであろうか。筆者はそうは思わないし、コリン監督もそうだろう。むしろ惨めなのは、有名を望みながらいつまでいつまでも無名で貧乏な芸人だ。とはいえ、彼らも普通の人も死ぬから、生きている間は自尊心を保って好きなように生きる者が惨めではないということになる。ヘルツォークやコリンが普通でなく、惨めでないかと言えば、それは当人らに訊ねてみないことにはわからない。筆者が思うに、芸術家は普通の生活を送らねば名作を生み得ない。ただし、それは普通に生活すると考えも行動も普通になるという意味ではない。図抜けた才能や作品は、普通が基盤にあって生まれる。またそうであるから普通に生きている多くの人にその作品の価値がわかる。作品で過激になるには、生活は普通を保っていなければならず、荒れた生活の中からは普通かそれ以下の作品しか生まれない。物真似芸もそうで、研究と練習を重ねることで本物の特徴をつかみ、それを演じることが出来る。これは物真似ではなく、独創を追求している者も同じで、普通の人が軽く考えることよりはるかに多くの時間と努力を費やす必要がある。それが出来ない人は凡百の独創しか得られないが、物真似であろうが独創であろうが、広く名声を獲得して裕福になれるのは万にひとつの可能性もない。それは誰でも知っているが、それでもやらずにはおれない人がいて、彼らはキリギリスのように生きる。そこには孤独はつきものだが、それは「普通」の人も同じだ。だが、芸人や創作に携わる者は、芸や作品を生み出し、それによって誰かを楽しませる可能性がある。そしてそのことが、多寡はあっても生き甲斐になる。筆者は創作者だが、他者からの理解を期待し、また誰かの笑顔を見たいという気もない。その意味での孤独を全く怖がっていないが、孤独を感じさせる親しくない人からは遠ざかりたいので、孤独がどういう心の状態であるかはよく知っている。
本作に登場する物真似芸人たちは、物真似の対象となる本物と出会って話をしたことはない。映像からイメージを模倣しているだけで、その点は本作のヘルツォークとコリンの関係とは違う。ヘルツォークもコリンも幸福で、前者は弟子を、後者は師を、お互い生きている時に見つけてしかも共演している。そこには芸ないし才能の伝達がある。ところが本作の物真似芸人たちは本家への一方通行の愛情で、またその愛情の対象である本家に存在のすべてを負っていて、それは神と信者の関係に等しい。だが、元締めのレオ・カラックスが言ったように、神の信者に一旦なった者はそれをやめられない。恍惚の気分を忘れられないからだ。それがあるとすれば、神に代わる存在を見つけた時で、それは普通の人と同じ生活では手に入らない。そこでたいていは同業者の中から神に準ずる相手を見つける。類は類を呼ぶで、本作では物真似芸人が60年代のヒッピーのなれの果てのような共同の暮らしを古城で営んでいる様子が描かれる。そこにどれほどの創作が入り込んでいるのかわからないが、似た生活はよくあるのだろう。日本の時代劇の旅芸人一座もそうで、各地にファンがいて、一定期間演劇を披露しながら共同生活を営む。本作での物真似芸人集団10数人の生活には痛々しさがある。それは多くが高齢で、またようやく自分たちで手作りした舞台でショーを開くと、10人に満たない客であるからだ。初日以降は客が増えると慰め合うが、宣伝効果は絶望的に薄い。やがて彼らはひとりずつ死んで行く現実が見えているが、その間に若者が入って来なければ解散し、そうなっても誰も気にしない。そういう現実が待つ一見華やかな芸人であり、そのことをよく知って彼らは暮らしている。ある日マイケルは元締めの命令でパリの養老院で芸を披露する。そこでの老人たちは本物の養老院で暮らす人たちであるはずで、このドキュメンタリー手法はヘルツォークに学んだものだ。また脱線するが、30年数年前に京都ドイツ文化センターで見たヘルツォークの最初期の映画に、カナダの片田舎か、場末の小さなバーで中年の細身の男性がズボンを履かずにピアノを弾き続ける様子を割合長く、真横から捉えた場面があった。その単調な繰り返しのメロディと演奏者の様子の異様さが相まって、筆者はヘルツォークの作品ではよくその場面を思い出す。たまたまの場所で遭遇した演奏を半ば隠し録りしたものに見えたが、そのドキュメンタリーらしき様子は俳優の演技よりも強烈で、その真実らしさをヘルツォークは若い頃から追求して来ている。それは本作でも言える。物真似芸人たちの顔は本物とは差がかなりあると思わせられつつも、物真似される本物たちが普段そうであったと思えるほどに自然な演技で、またそのことに、ヘルツォークが若い頃に撮った場末のピアニストと同質の孤独さが滲み出ていて、残酷な気がした。
マイケルが養老院で芸を披露していると、やがてマリリン・モンローの物真似芸人がやって来る。彼女とマイケルは響き合い、彼女はマイケルをスコットランドの古城に招いて一座に加わることを勧め、マイケルは一座に合流する。マリリンにはやや年配の、チャップリンを物真似する芸人の夫がいて、ふたりの間には戦前の子役で有名であったシャーリー・テンプルの物真似をする小さな女の子がいる。チャップリンは妻に対して、マイケルを連れて来たことを邪推の言葉で質問する。その怖い夫の表情を見てマリリンは、夫はチャップリンではなく、ヒトラーに見えると言うところは笑わせられるが、夫の顔は怖いままだ。夫婦の関係にマイケルがひびを入れた形で、やがてチャップリンはマドンナを物真似する若い女性に迫る。その様子をマイケルは目撃するが、マリリンには言わない。そして天気のよいある日、日光浴のためにマリリンはチャップリンのそばに寝そべり、寝入った後はすぐに起こしてくれと言うが、チャップリンは意地悪から放置する。ひどい日焼けを負ったマリリンは夫に文句を言うが、夫は妻にほとんど関心がないどころか、ひどい目に遭わせるつもりであったのだろう。やがて手作りの芝居小屋が完成し、こけら落としに全員で芸を披露するが、前述のように客入りはさっぱりだ。そして全員で戸外に出て夜の森を散歩し、前方の暗闇にマリリンの首吊り自殺を目撃する。そのことでマイケルはパリに戻る。スコットランドにいたのは1週間か10日ほどか。仲良く集団生活していたはずの物真似集団は、若い新人がひとり入っただけで夫婦の関係が壊れた。芸人も普通の人と同じように嫉妬も浮気もするし、またマリリンのように、壊れた夫婦関係に悩んで自殺する者もいる。「普通」ではなく、「惨め」ではないはずの芸人も、普通で惨めだ。そのことをマイケルは充分知り、芸人をやめようと決心し、髪を短く切って元締めを訪れるが、元締めの言葉に納得したであろうか。マイケルがその後どのように生きるかは鑑賞者の想像に任せるということだが、日本でもお笑い芸人や俳優、ミュージシャンなどの夢を捨てて普通に、つまり目立たなく生きる人は無数にいるから、マイケルがどのような人生を選んでも驚かない。芸人は人前に姿を晒して派手な生き方だが、それに代わるものが得られないと考える人は、無名で貧乏であっても同じ生活を続ける。それは他人がとやかく言うことではないが、他人はその人の生き方を内心吟味し、それは羨ましいよりも惨めと思うことが多いだろう。だが、芸人たちはそうは思わないし、それは彼らの自由だ。やり続ける者はそうするだけのことで、無名はいつまでも無名で彼らがどうなったところで誰も関心はない。そこには無関心と孤独が広がっているが、芸人であろうが普通の人であろうが、また子どものいる夫婦であっても、群れることで孤独を忘れようとするのは無理だ。
本作の最初と最後はミニバイクに乗ったマイケルを真正面から捉える映像で、マイケルがパリからスコットランドへと経験を重ねた結果、元の物真似人生に戻ったことを表わしていると言ってよい。元締めの言うように彼はマイケルをやめることが出来ず、マイケルになり切っている時が生き心地がする。もちろん大道芸の収入だけでは生活は無理で、アルバイトもしているだろうが、本職は物真似芸で、それに誇りを持っている。この場合、世界的名声を得て豪邸に住んだ本物のマイケルと自分を比較し、卑下する気持ちはない。マイケルは神で、自分は信者であり、そのことだけで充分満足なのだ。また、神はキリストのように不幸な死を迎えたから、本物のマイケルが夭折し、いろいろと問題があったことも神としては当然だ。『アッタ・トロル』の第25章の最後にも、シラーの詩を引いてこう書かれる。「詩にうたわれて永遠に生きるものは、この世で滅びなければならぬ!」 またこのことを無名の芸人も自分を悲劇の英雄としてよく自覚しているはずだが、ハイネはアッタ・トロルをいわばおちょくったのであって、英雄気取りが滑稽であることを冷静に見るべきだが、俗物ではそれは無理というもので、また本作はマイケルら物真似芸人をそこまで辛辣には描いていない。ただし、どこまでもいつまでも本家を凌駕出来ない物真似芸人には悲哀さは馴染み、またそのピエロ性によって人気者になるが、マイケルやマリリンのような20世紀を代表するイコンとなった超有名人の究極のスター性を物真似芸人たちは際限なく高め続け、そのスター性が映像を介して拡散したものであるという事実が、今のネット社会ではさらに彼ら有名人が命を長らえ、聖像性に強固さが増すことを思えば、神対信者の図式が現代の孤独な人にはなくてはならない新しい宗教になっていると言ってよい。つまり、20世紀の神は本作で描かれるマイケルやチャップリン、マリリンであって、キリストは出番がない。また彼ら物真似芸人がキリストを真似ようものなら、不謹慎として袋叩きに遭うだろう。そこでコリン監督は巧み本作にキリスト教を差し挟む。それがパナマで撮影されたヘルツォークと尼僧たちの行動だ。本作では最初は原住民の子どもの洗礼の場面があり、最後はヘルツォークや尼僧たちが乗ったセスナ機が墜落して浜辺で彼らの死体が浮かんでいる様子を映す。ここにも誰もが生まれて死ぬことが描かれているが、もうひとつ言えば、奇蹟があってもやはり死は避けられないという現実を直視すべし、つまり「メメント・モリ」の思想が描かれる。尼僧たちはセスナ機に積んだ食料をジャングル奥地の住民に送り届ける仕事もしているが、ある日飛行機の扉を開けて荷物を投下する際、ひとりの尼僧が墜落する。僧衣の下にパラシュートをつけているはずだが、そうとは見えず、墜落の場面はとても衝撃的だ。
ところが全身を包む僧服と落ちた場所に草が多くてクッションが効いたのか、尼僧は怪我ひとつせずに立ち上がる。その奇蹟をヴァチカンに報告したヘルツォーク神父たちは、ヴァチカンにセスナ機で赴き、そして墜落して全員死亡する。ここにも「夢も希望もない」現実を見るが、マリリンの自殺にしろ、尼僧たちの事故死にしろ、死は自然だ。尼僧たちの突然の死は本物のマリリンやマイケルの死と同じほどに呆気なく、生前の有名度や裕福さに関係がない。その意味で死こそは平等な神だ。ところで、尼僧4人がセスナ機から飛び降り、4人が手を組んで空中で十字架を形成する場面がある。映画の本筋とは関係のないおまけ映像だが、青空を背景に4人が一体化する様子はキリスト賛歌として象徴的で、その画面を監督はどうしても挿入したかったのだろう。筆者はその場面でニルソンの68年のアルバム『エアリアル・バレエ』を思い出した。その中に名曲の「ワン」が収録される。ニルソンの才能と歌声は天賦のもので、誰からも文句なしに愛されたはずなのに、酒と薬に溺れて50少々で死んだ。それは筆者には緩やかな自殺と思える。齢を重ねるごとに厭世的で悲観的になって行ったが、そこにボビー・ヴィントンとは6歳しか違わないのに、時代の差を感じて仕方がない。本作では「ミスター・ロンリー」と同じ60年代の他のヒット曲が使われるかと言えばそうではなく、監督の好み曲が適切な場面に効果的に挿入される。最後近い場面で筆者は女性ヴォーカルのとある曲の歌詞に魅せられたが、そのCDを入手していずれ感想を書くかもしれない。ひとつ言えることは、いい作品は誰かが目に留め、広く紹介される可能性があるという希望だ。ネット社会になってその傾向は進み、そのことで表現者は孤独から少しは気分が紛れられるようになった。本作の物真似芸人たちがせっかく開いたショーが10人ほどの客では落胆するのはあたりまえで、表現者は少しでも多くの人の目を浴びたい。そのことで相手を和ませるという自惚れからではなく、ただ自分の存在意義、生きている実感を得たいのだ。その伝で言えば筆者のこのブログも同じかもしれないが、常識外れのいわば過剰過激な長文を誰も歓迎しないことを知っている。それでも書くのは、家内に言わせれば、梅津の80代半ばの従姉の旦那さんが自転車で往復100キロも気晴らしに出かけるのと同じで、ありあまる精力を吐き出すためだ。なるほど、筆者にとっての頭の運動で、書くことが楽しいのだ。それに読者のひとりかふたりは、「面白い、もっとやれ」と思っていることを想像するのだが、空を見上げて十字架つまり死と孤独を思えば怖いものなしで、心は空中バレエを楽しむ。今日の3枚目は5月25日、梅津での撮影で、同じ信号をもっと見つけて「
キリストの信号機、その3」として投稿しようと思っていたものだ。
●スマホやタブレットでは見えない各年度や各カテゴリーの投稿目次画面を表示→→