げんなりすると言えばいいか、先ほどハイネの『アッタ・トロル』を読み終えたが、30年前に読んだ記憶が蘇り、自分の物忘れぶりにひどさに愕然とした。どの箇所でかつて読んだことを思い出したかと言えば、後述するが、実質的には最後の第26章だ。

読んだのに記憶から見事に消え去って本の題名だけ覚えていたのは、消化不良であったからで、今回再読してまた同じような気分を味わった。消化不良というのは、この本をどう解釈すればハイネの意図をすっかり理解したことになるかよくわからないからだ。そのことは巻末の解説を読んでなるほどと思いつつ、やはりドイツでも完全に理解されているとは言い難いことを知り、そこで理解への門を閉ざされた気分になる。たぶん30年前の筆者は同じことを思い、そして本の内容をすっかり忘れた。解説で井上正蔵はこんなことを書いている。『ハイネ研究家エルスターは、『アッタ・トロル』の理解のための学問的研究は、ドイツ本国でも十分にはなされていないと言っている。』 それから6、70年経っているので研究は進んでいるはずだが、出版から長年専門家によっても充分理解されていたとは言えなかったことは確かで、翻訳で読む筆者がハイネの意図が理解出来るはずがない。となれば筆者には無縁かつ無益の書と言えそうだが、それでも30年前に筆者は確実にこの本から学んだことがある。もっと正確に言えば、この本以前に筆者が獲得していた創作における心がまえのようなことが、この本によってより強固になった。それは簡単に言えば作品の厳格な形式だ。この本は叙事詩で、全編がとても読みやすい。専門的に言えば四脚の揚抑格だそうだが、4行が単位となり、各行は単語が発音の強弱で並んで韻を踏む。各行のその強弱の数は同じはずで、これは各行の単語数が同じことを意味しないが、そこが各行の漢字の数が決まっている漢詩とは、また日本の詩とも違うが、ハイネの詩が当時のシューマンなどによって歌曲に作曲されたのは、内容が素晴らしいこととは別に、言葉の抑揚のリズムが音楽的であったからで、ハイネの詩は朗読すればその美しさがよりわかるのだろう。そういう詩を日本語に置き換えることは不可能と言ってよい。それで筆者はいつも思うのだが、文庫本ではどのページも下半分は余白であるので、詩の各行の下に原語を印刷すれば、どの単語がどれに対応し、訳者がどう苦心して訳しているかがわかるのにと思う。筆者がもどしかいのは、原文と対照したいのにそれがすぐには無理であるからだ。ドイツ語であればを韻を踏む箇所はすぐにわかるし、またそのことで本当の香りがより感得出来る。たぶん30年前に筆者は同じことを思い、それでフランクルトの書店に入って見つけたハイネの本を買おうとした。その時は『アッタ・トロル』はなかったように思うが、ハイネの著作は全部読みたかったので、いずれ少しは役立つ気がしたのだ。
ハイネはこの本を40代半ばで1年少々費やして書いた。それから10回に分けて雑誌で発表し、またその時はあちこち原稿を改めたが、雑誌での発表から4年後の出版時にも、序文で完全ではないと書き、手を加える余地があると思っていた。このこだわりは芸術家、特に詩人ではあたりまえだ。散文と違って限られた言葉を厳格な形式で用いるからには、一語をどうするかで何日も苦悶するとしても当然で、また何年も推敲しているうちに次々に欠点が目について終わりがない。そうこうしている間に別の書物の執筆に入るので、見切り発車の形で原稿は本となり、それが決原稿として伝わるが、いつまでも原稿に手を入れ続ければその間の作者の思いの変化が入り込み、作品として却ってまとまりのないものになる可能性が増す。また作者は不完全と思っていても、鑑賞者には決定稿しか提示されず、作者がどこに不満であったのかはわからない。そこで手を入れた箇所がわかれば、つまりいくつかの旧原稿が出版された本と対比可能であれば、作者が腐心した箇所がわかって、本の内容とは別に興味深いことがわかるが、それは研究家の仕事で、普通の読者はそこまで関心はなく、また暇もない。そしてハイネ研究家が『アッタ・トロル』を理解するための研究がされ尽くしていないと言うのは、それぞれの言葉、行に込めたハイネの真意を理解するには、当時のハイネが置かれていた立場や、誰に向かって何を言いたかったかという理解なくしては無理で、そのいわば時事問題的でもある側面が百年や二百年経つと大半がわかりにくくなることを暗に意味しているはずで、この本の主人公であるアッタ・トロルという熊が何を風刺するためのものかは、解説を読まねばまず誰にもわからない。そういう書物はもう現代ではほとんど意味をなさないと言ってよい。というのはハイネ以降に多くの詩人が登場し、たとえば20世紀に入ってのフランスの超現実主義からこの本を見ると、あまりにも型に囚われていて、また詩でなくても散文で主張したほうが風刺もよりわかりやすいと言う人がいるだろう。つまり、時代遅れで新しい詩のために参考にならないという考えだが、それでも筆者はこの厳格な形式で書かれた詩に芸術の真髄を見、またそれは永遠のものだと思う。芸術は何でもありで、どのように表現しようが、いいものはいいという意見があるが、そのいいものには程度の差があり、その頂点にあるものは才能に恵まれた者が時間を費やして試行錯誤することでしか生まれ得ない。そして本書は2時間あれば読んでしまえるが、書き上げるのに1年以上要し、さらに推敲を重ね、本にする段階でも完全とは言わなかったことを思えば、古典となる名作が生まれるための条件を突きつけている。言い換えれば、本書の価値が何とはなしにでもわからない人は、古典となるような作品を生むこととは無縁だ。
アッタ・トロルという牡の熊は妻の牝熊ムンマとともに、人間に捕らえられて芸を仕込まれ、見世物になっているが、ある日アッタ・トロルは逃げ出してピレネーの山奥に帰る。そこでは6匹の子熊たちが待っていて、アッタ・トロルは子熊たちに自分が仕込まれた芸を自慢し、また人間を呪詛しつつ、いつかムンマを取り戻すと考えるが、著者の「私」と狩猟に連れ立った、死者から蘇った若い男の銃弾に倒れる。アッタ・トロルが子熊たちと戯れる場面はとても愛らしく、読者はアッタ・トロルに優しさに同情するが、呆気なく殺されて毛皮が商人に売られ、さらに敷物に加工されて「私」の恋人ジュリエットが買って部屋に敷いてその上に立つという結末を迎える。ジュリエットはハイネがパリで出会った雑貨屋の売り子マティルドで、ハイネはこの本を書く7年前の37歳で知り合い、またピレネーに1か月ほどふたりで旅行し、その直後、7年の交際を経て結婚した。知り会った時の彼女の年齢はわからないが、20歳前後であったろう。彼女と生涯を過ごすが、子どもはなく、本書の解説によれば、気まぐれで結婚後もさんざんハイネを悩ましたとある。売り子ではハイネの才能を真に理解出来ず、文盲に近かったであろう。本書の第1章に彼女のことが次のように書かれているからだ。「ジュリエットの胸には情などない。あれはフランス女だ。うわっつらだけで生きている。でも、ちょっと見には魅力がある。その眼差はあまい光の網だ。その網の目に引っかかってみんなの心は小魚のように心地よく跳ねまわるのだ。」 蓮っ葉な女にハイネが魅せられ、生涯を一緒に過ごしたとしても不思議ではない。賢い男が奔放な女に魅せられるのは竹久夢二もそうであった。WIKIPEDIAに彼女の写真が出ていて、なかなか知的に見えるが、ハイネがいなければ名前は伝わらなかった。58歳で死んだハイネより四半世紀長生きしたが、ネットに情報がないところ、一昨日触れたエリーゼ・クリニッツほどには知的ではなかったのだろう。なおエリーゼは、半身不随になって病床にあったハイネが、読み手兼秘書を求めて広告を出し、それを見て訪れた女性で、最初の訪問はハイネが亡くなる5日前であったという。ハイネとエリーゼの手紙のやり取りをマティルドが仲介したが、読み聞かせをしてくれる女性をハイネが求めたことは、やはりマティルドは字が読めなかったのではないか。ハイネはエリーゼに20数通の手紙を書いたが、エリーゼは公開しなかったようだ。彼女に「蠅」の愛称があるのは、手紙の封印が蠅を象ったものであったためのようで、研究家の努力によっておおよその人生はわかっている。ハイネの文才によるエリーゼへの恋文となると、ハイネ全集に収めるべきだが、どうなっているのだろう。ともかくマティルドはいい顔をしなかったと思うが、もう男に相手にされない年齢で、ハイネにしたがうしかなかった。

アッタ・トロルの妻ムンマのことが本の最後の章に書かれている。それにはマティルドへの思いが反映しているように感じられる。30年前に筆者が読んで驚いたのは、ムンマの夫没後の行動だ。そこには女性の本質が描かれている気がする。もっとも、風刺家であったハイネであるので、ムンマへの辛辣味は割り引いて鑑賞すべきで、ムンマにも言いたいことがあるだろう。つまり、マティルドからすればハイネが誉められた夫であったかどうかだ。だいたい歴史に名を遺す男は精力絶倫が普通と思ってよく、ハイネもマティルドと知り合うまでに盛んに女遊びをしたであろう。ハイネは梅毒を患ったが、それは当時としては珍しくなかった。シューベルトもそれが原因で若死にしたが、若い頃に恋人がいなければ性の処理を商売女に頼ることは仕方なきところがある。またハイネが雑貨屋の売り子のマティルドを見染めたことは庶民的で、たとえばスタンダールの『赤と黒』の主人公ジュリアン・ソレルとは違って、成り上がろうとする野心に乏しかったことを思わせる。さてムンマは第26章でこう描かれる。「ところで、ムンマは? ああ、ムンマは女! 脆きものよ、汝の名は女! ああ、女な瀬戸物のように脆いのだ。運命の手が、ムンマを光栄ある、けだかい夫から引き離したとき 彼女は死ぬほど歎きはしなかったし、悲しみに打ちしずむこともなかった――それどころか、反対に、ムンマは、愉しく自分の生活をつづけ相も変わらず踊りおどって聴衆から、やんやと毎日いわれたかったのだ。とうとう、パリの動植物園に彼女は、安定した地位と保証された生活を見出した。」 そしてジュリエットと「私」はそこへ行ってムンマを見るが、次にこう書かれる。「雪のように白いシベリア産の大きな荒熊が、一頭の牝熊と、いともなごやかにいちゃついていた。その牝熊こと、ムンマだった! アッタ・トロルの細君だった! しっとり濡れたあの目の光で、私はすぐにわかったのだ。たしかに、ムンマだった! 南方の黒熊の娘! あのムンマがいま北方の野蛮なロシア熊と同棲している!」 ここにはハイネの女性観がよく表われているはずで、マティルドと結婚するまでの間、打算的な女に何度も振られたのではないか。女は男より長生きするが、それはムンマのように過去に執着せず、古い男は去った途端にきれいさっぱり忘れ、また別の男と暮らすことに躊躇しないからだ。30年前に筆者はアッタ・トロルが消え去った後のこのムンマの行動に呆気に取られたが、それが現実でもあることを認識し、女は信用してはならないと思ったものだ。竹内勝太郎が高校生の富士正晴らに対して、女に幻想を抱くなと言ったことは、この本のムンマのような例をよく知っていたからだろう。筆者もそれに似た女性を知っている。夫と10代後半から10歳までの子ども3人がありながら、若いやくざ男と出走した美人妻で、中学生ながら女は怖いと思ったものだ。
だが、夫と子どもがありながら、妻が男と一緒に家を出る例はD.H.ロレンスにあることをその後筆者は知って複雑な気になった。ロレンスは世界的な名声を得たので、駆け落ちしたその人妻の名前も歴史に残ることになったが、彼女が子どものことが気にならなかったはずはなく、その後子どもとは会っている。子どもを何人も産んでも、夫とは相性が悪く、たとえばロレンスのような才能あふれる男が出現しなくても、家出する妻はいるだろう。そんなことを思えば、ムンマにすればアッタ・トロルがひとり勝手に逃げ去り、ひどい夫と思ったかもしれない。それにハイネは「女は瀬戸物のように脆い」と書いている。これはひとりで孤独には暮らせないことを意味するだろう。もちろんそんな女ばかりではなく、また男から拾われる女ばかりではないが、ムンマは人間で言えば妖艶な魅力を持った女性で、それを自覚するので客に踊りを見せることを喜び、またロシアの牡熊と一緒になることを幸運と思っている。そしてそのことでアッタ・トロルの惨めさがより鮮やかになるが、悲劇のヒーローとしてハイネが描きたかったかと言えば、巻末の解説には、「傾向熊」という言葉を使って、時流に乗って大手を振る俗物のたとえとしている。それをもっと理解するには、ハイネの以前の著作と、それが当時巻き起こした論争とそれによるハイネへの徹底的な批判、またそれによってフランスに亡命しなければならなかった事情を知る必要があるが、そこまで関心のある人は少数派であろう。そして大多数の人は本書を読んで、ハイネがアッタ・トロルを嘲笑しているのか同情しているのかについて確信が持てず、本書が何を言いたいのかわからない。そこで筆者のようにムンマのドライな行動を注視してしまうが、それは本書の核心ではない。ただし、あらゆる思いを注ぎ込んだ叙事詩であるので、ハイネが考える女性一般の本質めいたことも言いたかったことであるはずで、どの箇所にどのように注目しようが、それは間違いとは言えない。話を少し戻すと、アッタ・トロルは殺された後、ハイネの部屋の敷物となるが、その結論からはアッタ・トロルを痛烈に風刺していることは明らかだ。マティルドがその毛皮の上に乗っている姿を想像すると、ハイネの風刺の的になった人物たちは、ハイネには我慢ならない俗物であったが、実際解説を読んでもハイネが当時内心距離を置いて侮蔑した連中は日本ではほとんど知られず、ハイネのみの名が輝かしく伝わっている。それはたとえば本書のような古典となった著作をものにしたからで、芸術の勝利だ。相手を一目見てその才能を値踏みすることは誰しもだが、ハイネには誰にも負けないという自信があった。天才とはそういうものだ。また天才には天才がわかるが、ハイネは若いマルクスと知り合い、マルクスはハイネの著作が非難の嵐に巻き込まれていること知り、ハイネに同情した。
ハイネもマルクスもユダヤ人で、そのことがたとえば本書に影を落としているかと言えば、そういう箇所はある。「私」はピレネーの山小屋で夜を過ごした時、窓の外にギリシア時代の神々から聖書に登場するサロメの母へロディア、そして文学の巨匠のシェイクスピアやゲーテといった死者の亡霊の行列を見る。この部分は古典の知識がなければ楽しめないが、逆に言えばハイネはそうした古典に連なる作を目指して本書を書いた。古典となるべき作品は古典の何たるかを知っている。それでハイネは四脚の揚抑格で全編を書いたが、それは古い革袋に新しい酒を入れる行為と言ってよいが、ハイネが他の詩において新しい革袋としての詩の形式を作ったのかどうかは筆者は知らない。また四脚の揚抑格が古い形式であっても今なおそれにしたがって詩を作っている人はいるはずで、古いとは言い切れないだろう。新しい酒というのは、当時のハイネが遭遇していた論敵やピレネーへの旅行で得た自然描写などで、大いに批判された前作とは全く違う叙事詩という形式で、前作と同じような風刺を盛った。またそれなら直接的な批判はされにくいし、またそれゆえに本書でハイネの言いたいことがわかりにくくなっている。さて、解説を引用すると、ハイネと同時代、革命的自由思想が湧き起こっていて、ハイネはそれに同感しつつも、そうした政治詩人が政治信条を主張することが直ちに文学であるという多くの作品が許せなかった。またドイツの革新陣営にふたつの流派があって、ハイネは前著のベルネ論でこれらを次のように定義した。ひとつは、新しい革命の合言葉を口真似してマルセイエーズをさえずる以前のドイツ主義者で、「祖国、ドイツ、祖先の信念」といった言葉を使い、もうひとつは、フランス的自由思想の根本原理に服従するさまざまな民主主義者で、「人類、世界主義、後世の理性、真理」といった言葉を好むが、前者ははるかに大衆に感動を与えているので、ハイネは前者を叩く必要があった。そこにはユダヤ系であるとの自覚があったと思えるが、そのことは前述の死者の行列の中でへロディアに大いに魅せられていることからも言える。ハイネが書いているように、それはユダヤの女王だ。ユダヤと世界主義は現在を見てもいかにも馴染みやすいタームだが、新型コロナウィルスによって世界主義が批判され、各国が自国主義を深めつつあるようで、そうなれば本書は顧みられない風潮が出て来るだろう。ましてやマルクス主義が世界的に終焉を迎えたと歴史が書かれている現在、ハイネはますます過去の人物と目されるのではないか。だが、ハイネの時代の政治詩人が忘却され、ハイネの名声が高いのは、ハイネを政治の文脈で見るのではなく、詩人の伝統において評価するからだ。政治的な詩を書けば喝采を浴び、それが流行の文学だと思われていたことにハイネは我慢がならなかった。
流行に敏感な者はいつの時代にもいて、彼らは名声と富を得る。ハイネはフランスに亡命したまま生涯を終えることを序に書いているが、こうも書く。「私のことを無定見だの奴隷根性だのと罵倒した光と真理の勇敢な闘士たちときたら、いつのまにか立派な地位の役人になったり、組合の幹部におさまったり、毎夜、愛国者気取りで父なるラインのぶどう酒をのみ、海にかこまれたシュレスヴィヒ・ホルシュタインのかき料理の御馳走にあずかるクラブの常連になったりして、いとも安全に祖国を歩きまわっているのです。」 これは調子のよい愛国主義者たちに対する散文による風刺で、本編に組み込むことが出来なかった部分だろうが、彼らをいわば妻を寝取られる一方で部屋の敷物に加工されるとんまな熊アッタ・トロルとして描くことで留飲を下げた。ただし、本書はアッタ・トロルを滑稽一辺倒では描いておらず、人間に対しての気高さや子どもたちをかわいがる父性も表わし、深みのある人物像となっている。また解説には、「彼は思想をもって武装したのではなかった。全篇をつらぬいているものは、詩人的精神以外のなにものでもない。それは、俗物と妥協できない真実を志向する詩精神にほかならない」ともあって、これは詩のあるべき姿を古典を通じて知悉していたと言い換えてよい。さらに、「一見、統一がなく、曖昧で、混沌としていることも否めない事実である。が、矛盾や不統一をさらけ出し、常識的に割切ってしまえないところに、無類のフモールをかもし出す。それが、じつはハイネのハイネらしさなのである。」 とあって、さらに「政治その他の精神世界の俗物どものいわゆる「主義」を相手に、すぐれた「才能」の勝利と自由を告げているのである。」とも書かれていて、ここにマルクスのその後の業績を対比させると、ハイネらしさがより浮かび上がる気がするが、日本に置き換えてみれば誰がハイネに該当するかとふと考える。もちろんそのような人物はおらず、それどころか、ハイネが唾棄したような、政治家を持ち上げて懐を豊かにする手合いが目につくばかりだ。ハイネが生きていればそういう連中をどういう形式の文章で風刺したであろう。もちろんそこにはユーモアが欠かせないが、筆者が30年前にハイネに関心を抱いたのは、ザッパの政治的な発言と絡めて、風刺とユーモアがどう同居可能かを探るためであった。後世に残り得る、つまり古典となるような美しい形式を持ち、最新の世界をあますところなく描き切り、しかもそこに普遍性があるといった作品を、今の日本の30代の表現者がどこまで覚悟を持って目指しているか。解説のほぼ終わりにこうある。「卓抜な諷刺の精神をもって浪曼主義的にうたわれた内容は、ただ1840年代の過去にとどまるものではなく、その表現形式とともに現代のわれわれにさまざまな問題を投げかけるだろう。」
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