糊が乾きにくい季節で、友禅の仕事では最も厄介な梅雨の季節になりつつある。先ほど筆者が所有する隣家の隣りの住民が訪れ、裏庭から毛虫が入って来るので樹木の剪定をしてほしいとやんわりと言われた。
初めてのことだ。そう言われるのを見越して一昨日は高い木の枝を少々剪定したが、そう言えば隣家の裏庭に植えた白梅は今年生えたどの新しい枝も、先端のまだ開き切らない若葉に灰色の黴のようなものがまとまりついていた。数日前にそれらを全部切り落として、根元に積み重ねておいたが、そこから虫が羽化しているかもしれない。一方、近所に白黒の斑模様の野良猫が子を4,5匹生み、それらが夜間にわが家の裏庭を走り回り、また昼間は隣家の裏庭の日陰で寝転んでいるが、ひどい臭気から裏庭のどこかで糞をしているはずで、その糞に虫が集まってもいるだろう。昨日は終日雨で、今朝見ると裏庭の白薔薇の3つの花はどれもうなだれていた。今日の写真は昨日書いた3つ目の花で、小振りながら形はよい。右下に写り込んでいるのは14日に載せた花で、これは椿の「糊こぼし」のように花弁のあちこちに赤い斑点がたくさん出ている。開花直後は真っ白なのに、枯れ始めると出て来る。前にも書いたが、筆者が通販で購入したVIRGOの苗木は、赤系の品種に接ぎ木したものかもしれない。もっとも、薔薇の純粋な、つまり原種はどれかわからなくなっている。これはどのような生き物にも言える。日本人はよく純粋種であることを自慢するが、周囲を海で囲まれているからには、いろんな血が流れ着いて混じり合うのは必然で、混血の点ではアジアの代表格のはずだ。またその遠い昔のことと近いところでは鎖国によって、独特の文化が育まれた。新コロの遺伝子を調べてその最初の種やまた変異種を確認しようとしているようだが、遺伝子には突然変異がある。新コロが同じコロナウィルスの何を元として変異したものであるかが判明しても、その元となったウィルスを原種とするのか、突然変異によって生まれた今の新コロを原種とするかの問題があって、これは研究者によって意見が分かれるだろう。つまり、原種という考えはどうにでもなるもの、あるいは誰にもわからないもので、あらゆるウィルスは原種でありまた雑種でもある。それは犬や猫、薔薇、人間、あるいは芸術作品にも言える。ヒトラーやナチのように教養の必要を思わない連中が純粋種を気取る。それは滑稽なことだ。1992年秋にロンドンに行った時のことと思うが、またどういう話の経緯か忘れたが、サイモンさんとそのような話になった。サイモンさんはイギリス人という自負よりも、自分は地球人と思っていると言った。イギリス人というのは属性で、本質ではないとの意味だが、その考えをどのイギリス人も持っているはずはなく、むしろどの国においても他国を見下す人が圧倒的に多い。そういうことが新コロの広がりでなおよく見える。
以上まで書いて5時間後に再開。毛虫云々はコブシかネコヤナギのどちらかわからないが、見上げると葉が食い散らされていた。脚立に乗って間近で見ると、毛はないつるりとした茶と緑の混じった芋虫が葉の裏に大量発生していた。その枝を全部切り落とし、ついでに金網フェンスの上を綱渡りのように乗って移動しながら、一昨日小川の中に脚立を出して切った名前のわからない木を今度は幹側からかなり切った。曲芸気分で、そのうち高いところから落ちて骨折しそうだ。切り落とした枝は乾燥させてから処分するが、これがまた大変だ。だが散歩しない日には運動代わりになる。昨夜は午後7時、雨降る中、家内と梅津のスーパーに行った。松尾橋バス停のバス転回のための広場と歩道の間のごくわずかな舗装の隙間に毎年
白いスミレがたくさん咲くが、今年はほとんど嵯峨のスーパーに通い、そのスミレが花を咲かせるのかどうか確認しなかった。正しく言えば、1,2か月前に見ると、いろんな雑草が繁茂していた。それらを引き抜こうと思いながら、袋を持っておらず、そのまま帰宅した。それがいけなかったのかもしれない。雑草は大きくなって、今年はスミレの葉すらも見えなかった。筆者はその白スミレを梅津の天然記念物と命名していたが、ついに今年姿を消した。小さなもの、かすかなものはより力のあるものに駆逐される。オニタビラコなどの見栄えの悪い雑草より、可憐な白スミレのほうがどれほどいいかは、花を知る人なら言わずもがなだが、ほとんどの人はそのぎりぎりの幅1センチに満たない細長い2,30メートルの隙間に毎年咲く白スミレを見ないだろう。暗がりの中で筆者は2,3か月前にビニール袋と鋏持参で雑草を始末しておくべきであったことを悔いた。手間をかけ、世話をしてやらなければすぐに消えてしまう命がある。そんなことも新コロ禍はいろんな例で知らせてくれた。
「今日の作曲家は死ぬことを拒否する」。このヴァレーズの標語をザッパは単数形に変えて終生使った。もちろん「死ぬことを拒否する」とは、創作によって金を得て生き続けることだが、「作曲家」つまり「composer」は音楽に限らず、構造を作る人すべてを指す。たとえばこういう文章を書く筆者も使ってよく、構造の独特さや面白さによって作者と作品は評価される。そしてその構造は作品だけではなく、使う言葉、身なり、ネットを利用するならば写真1枚の構図といった作品の提示の仕方など、すべてにおいて作者の共通した創意が働いているべきで、それを最低条件としてそのうえに運やカリスマ性が加わって世間に広く知られることになる。筆者が作品から作者の人柄を想像して楽しむのは、その作品が独特な面白さを持つ、つまり「奇」であるからだが、白薔薇のVIRGOはどこにでもあるような薔薇のように見えるが、全くそうではなく、この品種にしかない聖処女にたとえられる清楚さがある。
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