卒業式以来会っていない級友は、いかに同窓会を頻繁にやっても、誰しも心当たりがあるはずで、人生においてそうした区切りにおける人との永遠の別れはよくある。それはさびしいことかもしれないが、新たな場所で新たな人との出会いがある。
そして深い付き合いでなくても、何となく馬が合い、少しの言葉を交わすだけでそれなりに楽しい人があって、そういう淡い付き合いの中にたまに家に招きたくなる人がいる。昨夜のTV番組で70代の女性が家中、物で溢れさせ、それを子どもたちがついに断捨離をさせる様子を見たが、きれいになった家を断捨離の言葉を生んだ女性が訪れた時に語った言葉が印象的であった。家の中から物を減らし、整理すると、人を呼びたくなり、また人もやって来るというのだ。確かにそうで、筆者と家内が生活し始めた頃、古い木造の2Kには、お互いの肉親を初め、多くの知り合いがひっきりなしに訪れた。そのことは嵐山に家を買ってからも変わらなかったのに、ここ20年ほどは筆者の物、主に本が溢れ返り、足の踏み場もない始末で、人を呼ばなくなった。これでは駄目と去年末に思い、どうにか人が呼べる空間を作った。そこで新コロ騒ぎが始まって、まだほとんど人を呼んでいないが、スーパーへの途上、新築の家を見るなどして、人を招くほどの家では全くないことを改めて客観視して恥じ入り、気づけば新たに買った本があちこち積まれている始末だ。とはいえ、筆者が人を呼ぶことは話が最大のもてなしと思っているし、またそういう話が弾む人しか呼ばない。それで4,5時間はすぐに過ぎ去る。それが一期一会のようになるかもしれないことを感じる年齢になって来た。癌で入院中であった枚方のKさんは、筆者に会いたがっていたのに、あまり深刻に考えていなかった筆者はついに葬式で遺体に面会することになった。会える時、つまりお互い生きている間に、時間を作って会っておくべきであったと思い返している。それでもKさんの笑顔の面影をいつでも思い出せるし、そのたびに筆者は勇気づけられ、Kさんが語っていたように、若い人に目をかけるべきことを思う。人生において真の理解者はたいていの人は身内や知友の中に求めるしかないが、実際は身内であっても、また配偶者であっても深く理解し合えるとは限らず、それでせっかく積み上げた夫婦生活でも壊すことがある。そういう例をたくさん見て来た筆者は、近年はつくづく家内と一緒にいることにそこはかとない愛おしさを抱く。筆者のようにわがままのし放題、自分勝手な男の面倒を看ることは、まず普通の女性では絶対に無理だ。家内から台所をリフォームしてほしいともう20年以上も言われ続けているのになかなかその機会がなく、そうこうしている間に隣家を購入し、本やガラクタの倉庫にしてしまった。隣家を住めるように整理し、息子に結婚してもらって生活させることが夢なのに、たぶんもうかなわない。
何事も思いどおりにならないことを知るのが人生ということをこの年齢になってまたよく感じる。とはいえ、筆者は本当にほしいものは何でも手に入れて来た。それは大金持ちからすればあまりにささやかで安いものだが、そのことを消化するに費やした長い月日は金には換算出来ない。家内との長年の生活もそうだが、このブログにしても毎日書き続けることはそう誰にでも出来ることではないと思うし、筆者の本職にして同じだ。何に対してどれだけの時間と思いを注ぎ込むか。人生に意味があるとすればそれしかないが、その自分では思っている意味あることが、他者には意味を持たないことは常識と言ってよく、それを悔しがることをせず、淡々と自分の好きなことをやり続ければよい。ただしその場合、胸に光として抱いている何かは大切だ。それは金がほしいとか有名になりたいといった我欲ではない。師と仰ぎたい人への思慕で、それは遠い昔の本で知った人でもかまわない。気高さや稀有な才能に憧れを抱き、少しでもそこに近づきたいと思い続けること以外に筆者は人生の意味はないと思っている。現実にはそういう人と親しくなる機会はほとんど皆無に近く、それで作品を通じてその人のことをあれこれ想像するのだが、筆者の人生の多くはその楽しみに費やされて来た気がする。さて、昨日は半開きであった裏庭の白薔薇のVIRGOの一花が今朝は開き切っていた。もうひとつ蕾があって、明日か明後日に開花するはずで、また写真を撮って投稿するが、鉢植えで栄養と光が足りていないようで、年に10も咲かせない。筆者が京都にやって来た40年少々前からこのVIRGOを育てたいと思って来て、ついにその気になって、苗木を買った。VIRGOは筆者の生まれ月の乙女座のことで、また白がいいのはほかにも理由があるが、それは書かない。筆者のひとつの夢は晩年のマーク・トウェインのように毎日白のスーツと白シャツで過ごすことだが、マークとは別の意味で白にこだわりたい理由がある。それはともかく、ささやか過ぎはするが、筆者と家内だけが見る裏庭でこの白い薔薇の咲く様子を眺めることは満ち足りた気分だ。そのお裾分けとして写真を真正面から撮り、こうして文章を添える。何となく気分が新たで、20歳頃に知ったランボーの「出発」という詩を今思い出した。その最後は確かこうだ。「新たな雑踏の中に出発だ。」そうそう、今朝目覚める直前、脳裏にハイネの『アッタ・トロル』が思い浮かんだ。ハイネについては卒業どころか、入門すらしていない。この本を図書館から借りて最初の数分の一を読んで放り出したことに30年近く気になっている。印象深い一節があって、それを正しく確認するために早速購入しよう。それでいつまで経っても本は減らず、気づけば筆者の周辺は本の山になっている。しかもステレオで大音量でザッパを聴いているのであるから、家内はよく耐えている。
●スマホやタブレットでは見えない各年度や各カテゴリーの投稿目次画面を表示→→