盲人は耳がよく聞こえ、歩いている時に隙間のある板塀があればそれがすぐにわかると一昨日家内が言った。足りない能力をほかの機関が鋭敏に反応する能力が人間にはある。
それで勉強の出来ない者が大人になって会社の社長になることもわかる。ある能力が優れるとある面では鈍感になるというのは真実かもしれない。だが、たいていは凡夫で、取り立てて才能がない。それゆえ優れた能力を持つ人は目立つが、目立ちたいのは本能か。その目立つことがたとえばYouTubeでは収入につながり、金儲けが簡単な世になったようだが、その分競争相手は多い。先日家内がTVで知った大物芸能人の発言を筆者に話してくれた。日本には6万人の芸能人がいて、TVに出る有名人は500人とのことで1パーセントに満たない。これではその500人が億万長者であることもわかる。ま、そんな話はどうでもよく、話を戻すと、明日のことは誰でも全盲の立場にあるとはいえ、自分がやらねばならないこと、やりたいことはわかっている。「なーんもすることがない」という明日は筆者には考えられず、常にやりたいこと、やらねばならないことが山積していて、その数分の一も出来ない毎日だが、このブログは気分の締めくくりとして毎日書くことを義務づけている。ところで、月末は長年聴いている曲から選んでその感想を書くことにしているのに、ここ2,3年は滞っている。書くべき曲がなくなったわけではなく、心の準備が出来ないからだ。いつかまとめてと思いつつ、そのいつかはやって来ないかもしれないと書くと、えらく他人事でまた意思薄弱さを表わしてしまうが、中途半端なことは書きたくないので、思い切りが大変だ。それはそうと、ここ1か月はある突発的な仕事に没入し、それがようやく出口が見えて来ている。それが終わると長期の仕事に没頭するが、その意味で新コロの自粛生活は却ってよい。ところでアゲイン、今日は自転車でJR花園駅近くまで行き、大型スーパーで買い物をした。途中、空き地に重機のタイヤの轍を見かけ、その時思ったことは今日の投稿の題名「わだかまりの轍」だ。これは昨夜思いつき、本物の轍を今日はたっぷり見かけた。とはいえ、自転車で走りながらのことで、2秒ほどだ。それでも写真を撮ったかのようにくっきりと覚えている。印象深いことは1,2秒の出来事でも鮮明な記憶になる。そう言えば以前書いたが、2,3年前、京都の高島屋の地下の菓子売り場で筆者好みの美しい店員と眼が遭った。筆者は彼女を10メートルほど離れて見ていたところ、彼女はふと顔を筆者に向けてにっこりと微笑んだ。客で混雑する中、彼女は筆者の念を感じ取ったのだろう。時々彼女の筆者に向けた笑顔を思い出すが、1秒ほどの出来事が何年経っても消えない。彼女はその後いなくなり、もう顔を見ることはない。ボードレールがそのような都会での一瞬の出会いについて書いている。
次にこれは書いたことがないと思うが、思い出したのでわだかまりを吐き出すつもりで書いておく。中学の卒業式の少し前、別の学級の同じ学年の女子が校内の発表会か何かで家庭の苦しい事情を話した。彼女は美人でもなく、筆者は話をしたことがなかったが、彼女の堂々とした、そして健気な態度に感心し、また中卒で働かねばならないその境遇に同情した。確か母親が病弱で父はおらず、妹か弟がいた。彼女の家がどこにあるかもだいたい知っていたが、幸いと言うべきか、個人情報云々がない時代のことで、卒業アルバムから彼女の住所がわかった。卒業式の日だったと思うが、筆者は彼女に手紙を書いて投函した。ただし、筆者の名前を書かなかった。内容は彼女を鼓舞するものだ。彼女はそれをどう思ったかはわからないが、きっと微笑んだと思う。その後筆者は彼女と会っておらず、どのように人生を歩んだかもわからない。筆者はいい子になりたかったのだろうか。そうではない。筆者も極貧で、おそらく学校一貧しかった。それで彼女に同情し、またその力強い態度に感動したのだ。人生はぬかるみの連続とたとえてよい。そこをゆらゆらしながら、時には倒れて泥まみれになりながら進まねばならない。生まれながらにして経済的に豊かである場合、アスファルトで舗装した道路を快適に進むようなものだが、それが一生続くとは限らないことを筆者は子どもの頃から見て来ている。誰もが人生の轍を持っているが、時にそれを消したいと思う人がある。失恋した時はそうだろう。昔なら日記や手紙を燃やしたが、今はネットのSNSの記録を一瞬で消す。そのスピード感は人間関係がそれだけ軽くなったことを象徴している。一瞬で消せる過去の轍と思えば、次の行動も軽くなる。そう思うので筆者はこれまで書いたことを一切消さず、誤字脱字以外書き替えもしていない。先の高島屋の菓子売り場の女店員に戻ると、筆者はすぐに家内に彼女の存在を伝え、家内もその美女ぶりに驚いた。30歳くらいだと思うが、とにかく高島屋の地下1階では飛び抜けて目立っていた。もちろんモデルのような自意識過剰の商売用の美しさという意味ではない。ひとりの市井の若い女性として見た場合の美で、つまりは理想的な美だが、彼女の笑顔にはわずかに影があった。そのさびしさを筆者は見抜き、そして彼女が幸福であればいいなと思い、今も思っている。彼女の幸福は男次第でもあるが、彼女はダメンズ好きとは思えないものの、どこか悩みを抱えていることを感じさせた。それゆえ、なおさら彼女がどこかでまた働いていて、筆者のような爺がじいっと見惚れている気配を察して目が合った時、同じようににっこりと笑顔を作ってほしいと思う。今日の2枚の写真は渡月橋を臨む中ノ島公園で、最初は1月23日、2枚目は3月1日の撮影で、たまたまの散歩で見かけた砂利の轍だ。枯山水を思わせる痕跡で、愉快だ。
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