授業がなくて子どもたちが喜んでいるかと言えば、友だちに会えずにさびしい思いをしていることが多いだろう。新コロの禍が終われば時代が少しは変わり、日本ではテレワークのように人と人が直接会わずに済む仕事や授業が増加しそうだ。
それがいいのかどうかだが、どんなことでも両面がある。旧世代が新しいことが受け入れられずに時代に取り残されて行くのはいつでも同じで、時代は変わって行く。変わらない何かは人間の本能と言いたいところだが、そうとも限らない。類人猿の頭蓋骨は現代人と全然違うので、性質も暮らしも全然違っていたと思うが、眼、鼻、口があって性器や肛門があることは同じで、基本的なことは現代人とさほど変わらなかったと考えるのが妥当だ。それは喜怒哀楽の感情があることだ。だがその反応が人によってまちまちで、あることに対して大笑いする人があれば、激怒する人もある。そのため、新コロで自粛する現在、発言は少しは空気を察すべしと思われがちだが、逆に笑いは必要と思う人もある。それでいちいち他人の反応を考えることは無駄であるとも言え、筆者はこうして毎日好き勝手に書いている。今日は家内とまた自転車に乗って嵯峨のスーパーを4軒梯子し、家内の買い物が終わるのをひとりで外で待っていると、寒さの中で突如メロディと歌詞が浮かんだ。それが今日の題名だ。新コロは中国で野生動物を食べたことが原因で発生したと最初伝えられ、その頃のTVにセンザンコウが映った。日本では動物園で見かける動物で、これはアルマジロだ。この奇妙な形の動物を食べるのは人としてどうかと思うが、それを言い始めると鯨を食べる日本の文化も批判される。それはさておき、筆者がスーパーの外で待つのはマスクをしていないからだ。ところが今やマスクをしなければ「人として……」と白い目で見られる。マスクをしていれば、新コロに感染した無症状の人がウィルスを撒き散らす割合が減少するだろうが、そもそも筆者は終日家にこもり切りで、散歩がてらに2日に一度出かけるスーパーの買い物では、目から侵入するかもしれないウィルスを遮るためにサングラスはずっとかけているし、また誰とも話さず、擦れ違うこともないから、感染のしようがない。それが油断というのはわかっているが、筆者のように自分の存在を極限まで消した蟄居生活をして感染するのであれば諦めるしかない。ともかく、新コロは人としてアルマジロ的な人間の醜い本質を次々と浮かび上がらせている。それが類人猿からの遺伝か、それとも文明を築いて以降か、あるいは産業革命後かなどと考えながら、「人としてアルマジロ」を即席で口ずさみながら家内がスーパーから出て来るのを待った。即席で作った曲を楽譜にしたいと思いながら、頭の中ではリード・ヴォーカルや子どもの合唱部分、それにザッパ風のギター・ソロのパートなどが鳴り響き、それで満足している。

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