贈り物というほどのものではないが、「風風の湯」の常連客から筆者も家内も品物をいただくことがある。お返ししなくていいという言葉を添えてのことで、それに甘えてもらいっぱなしだ。
そう言えば自治会のFさんとはお互いよくお裾分けをし合っているが、ここ3か月は会っていない。いつでも会いに行けるが、筆者は新コロのことを思って自粛している。同じ理由で梅津の従姉の家にも今年に入って行っていないが、電話で近況は伝え合っている。パソコンはウィルスに感染するが、新コロのウィルスはパソコンを通じて人に感染しないので、学校の授業は今後はもっとネットを使えばよい。日本はその方面では遅れているが、新コロが終息すればその点は進展があるだろう。またそうあるべきで、深刻なことを経験した後はしっかりと学習しなければならない。ところが日本はあまりそれが得意ではない。日本がガラパゴス化しているのはケータイだけではなく、精神がそうなのだろう。蟄居中の筆者はTVをつけっぱなしにしてネットを見ているが、毎日東京の感染者数の増加よりも有名人の発信の出鱈目さ加減に注目している。そして立腹するばかりで、お笑い芸人や贋知識人の愚かさや狡猾さがこれほどひどいかと呆れ果てている。先ほどはウーマン何とかという30代後半の女?のお笑い芸人が、大事な家族のことを守ることを自己満足と言い、そのことと自分がどこかの店を借りて独演会をすることを同じと発言しているのを読んだ。新コロに感染させないように行動に気をつけ、家族を守ろうとする行為と、自分の収入のことを優先させ、新コロ感染を拡大させるかもしれない行動が、なぜ同じ自己満足なのか。前者は愛で、後者は自分勝手だ。前者は他者のことを大切にする思いで、もちろん後者は自分だけがかわいい。このお笑い芸人は精神が貧しく、想像力がない。動物にも劣る。殺人罪を適用してよい。韓国ではそうであったではないか。韓国より悪いのは、現在の非常事態つまり爆発的感染が危惧されている状態での独演会であることだ。わざと死の可能性のある危険を犯すのであるから、危険人物として逮捕すべきだ。お笑い芸人であれば、人の心を読み、言葉を金に換える商売ではないか。そういう人物が言葉を知らないではそれこそお笑い草で、自己満足の戯言の独演会に今時誰が行くのか。以前に5000人の客を集めてコンサートをした女のバンドの時にも書いたが、こういうクズはアウトサイダーと言うよりも本物のならず者で、日本を腐らせて粋がっている無様な典型だ。肺の機能が普通人の半分ほどしかない家内は感染すれば死ぬ可能性が大きいので、筆者は出来る限り家から出ないようにしているが、そのこととこの芸人の金儲けの独演会が同じ自己満足とは言ってほしくない。かわいそうに、この芸人は真剣に誰かを愛したことがなく、愛されたこともなく、それで金こそすべてと思っている。
今日は大阪元市長元知事が首相が非常事態宣言を出さないことを批判した。この男はつい先日「新コロはインフルエンザと同じようなもので、日本中が感染して免疫を獲得すればいい」とTVで大声を張り上げていた。未知のウィルスと言われるのに、この男がひょっとすれば新コロを細菌兵器として製造したのではないか。自信たっぷりに「感染しても心配ない」と言うからにはそう受け取られても当然ではないか。この男がCTR検査不要論を唱えたのは、医療が崩壊するという理由であったが、現在の東京はCTR検査を世界より2桁も少ないほどに渋って医療崩壊の危機の瀬戸際だと言われている。それで発熱や味覚嗅覚の異常者は積極的に検査して、重症者以外はホテルなどに隔離する政策がようやく始まったが、非常事態宣言を出すことよりもCTR検査を効率よく行なうことを宣言すべきだ。このタレント弁護士は舌が数枚あるようで、世間の愚か者の頭を読み取る能力に長け、喝采を浴びるようなことばかり適当に発している。もちろんその喝采はクズが贈る。これを書いていて小林万里子さんが新コロについてどんなことを思い、どんな歌を作るのか、大いに期待している。話を戻して、めったにない自然災害に遭って、政治家やTV芸能人がどのように振る舞うかが垣間見える。どっちも似た者同士で、このめったにない機会に乗じて「火事場泥棒」的に儲けてやろうと考えていると思ってよい。ウーマン何とかのお笑い芸人は家賃が高いとも書いているが、「そんなこと知らんがな」と言いたい。みんな苦しいのであって、前にも書いたが筆者と家内は米だけはあるので、スーパーで買い物が出来なくなれば、毎日塩でおにぎりを作って食べようと思っている。それで餓死はしないだろう。100年に一度の世界的ウィルスなので、それくらいの覚悟はすべきだ。どんな嵐でもいつか去る。嵐の最中はじっと耐えるしかない。筆者は毎朝雀にクズ米を与えるが、寒い強風が吹く夜は雀たちがどこでどのようにして寝るのかと思う。その心配は愛と言うほどのものではないが、筆者は蟄居生活の中、「あの人はどうしているか」といつも気にしている。毎日こうして書くのは、筆者を知ってくれている人たちに無事を伝えたいからでもある。もっと言えば、少しは元気になってもらえるかとの思いからだ。その微かな愛とでもいう感情を、金儲けと同じ自己満足と言われると黙ってはおれない。何度も言うが、表現者は他者の心の安寧や喜びを思うべきだ。そうである限りは自己満足にはならない。今日の3枚の写真は一昨日に続いて2日の撮影だ。最初は「風風の湯」の正面玄関、2枚目は少し右を向いた。太鼓橋は中ノ島小橋で、3枚目はその上から「風風の湯」の露天風呂の茶色の塀を見た。手前が男湯、奥が女湯で、どちらにも桜が数本植わっている。その花びらが浮かぶ湯舟に筆者ひとりが浸かっている。
●スマホやタブレットでは見えない各年度や各カテゴリーの投稿目次画面を表示→→