竜頭を巻き過ぎてゼンマイが切れる心配をしたことと、電池が切れて動かない不便を感じることとを比べると、どっちもどっちで、筆者は腕時計を10年ほど前からしなくなった。
豪華な腕時計をして見せびらかす趣味はなく、めったに人に会わないので、見せたくてもその機会がほとんどない。それでいくつか持っているクォーツの腕時計はみんなベルトや電池が切れたまま放置し、ここ数年は母からもらった懐中時計を外出時にはポケットに入れる。これがいいのは電池交換が簡単で、文字盤も見やすく、また時間が気になった時だけ取り出せばよいからだ。クォーツ時計はゼンマイ式の手動に比べて時間が精確で竜頭を巻く必要もないので便利だが、内部の仕組みがとても簡素化され、時計に貴金属としての重みがなくなり、それと同時に何となく人生が安っぽくなった気がする。それは錯覚であるから、筆者は高級な手動式の腕時計をほしいとは思わず、いっそのこと時刻を意識しない生活がいいと思うようになった。手動式からクォーツへの移行は進歩に見えるが、人間は変化するだけで、進歩を信ずるのは目先のことしか考えないからだ。先ほど東京オリンピック前夜の東京のゴミ事情を記録映像で紹介するNHKの新しいTV番組を見たが、そのあまりの不潔さに今の若者はフィリピンのスラム街を連想するだろう。ゴミは運河に投げ放題で、映像からはわからないが、夏場は蠅が部屋を飛び回っていた。その蠅を捕獲する粘着物を塗布したリボンが売られていて、小さな筒からそのリボンを引き伸ばして天井から吊り下げていた。今では蠅を見かけることはほとんどないが、清潔を潔癖に意識するようになってアトピーの症状を呈する人が増えた。また東京オリンピック前には水色の大きなプラスティック製のゴミ容器が生産され始め、ゴミのポイ捨が減ったが、今はプラスティックが人類に深刻な悪影響を与えることがわかって来ている。だがプラスティックを失くせばオリンピック前の街になるだろうし、今でも大型ゴミを川や山に捨てて平気な人はいる。日本で下水道が普及して急速に清潔になったのは半世紀ほどのことで、新コロが日本でさほど猛威を振るわないのは日本が世界一清潔であるからと自惚れないほうがよい。人間に進歩はなく、変化して行くだけのことだ。そのことをよく思うのは、日本人の顔が明治とは明らかに変わったことで、江戸時代や明治を描く映画やドラマは俳優の顔が柔すぎて見ていられない。家内はそういうドラマを見ながら、「子どもの髪型がみんな今風で、昔はあんな長髪の子はいなかった」と言う。全く同感だが、丸坊主やおかっぱ頭にすると学校でいじめられると思っているのだろう。変化して行くのが人間として、あるべき心といったことも変化して行くのだろうが、筆者はそのことには関心がない。自分と気が合う者と親しくなればそれで充分であるからだ。
世の中にはいろんな意見があるからいいのであって、みんなが同じ意見であると人類はとっくに滅亡している。先に人は変化して行くだけと書いたが、ひとりの人間が意見をころころと変えるのは全く見苦しい。そういうずるい奴が有名人には混じっている。ところがそういう口が達者は馬鹿の心をつかむことがとても上手で、そのことはヒトラーが証明している。日本では新コロ問題で今は首相を叩く意見が多いが、中には以前は首相を賛美していた人もいるだろう。首相の人気が危うくなると見越した途端、掌を返したように首相を批判する者が急増するはずで、その兆候はもう見えているが、そういうあまりの身の軽さは普段の発言からほの見えているものだ。それで、首相が交代して新しい日本の誕生と喜ぶ意見が出るはずだが、筆者は全然楽観視しておらず、今後も口のみ達者な男が日本を掻き回すと見ている。一旦下降気味になった運はめったなことには上向かず、日本ではその上向きの機運はもうないように感じる。三島由紀夫はそのことを見通していたと思う。最近会田雄次の晩年の本を読んだが、氏が今の日本を見ても「全く想像どおり」と言うだろう。見える人には見えるのだが、見えない人に何を言ってもわからないし、わかろうとしない。さて、新コロには不明なことが多いとされているので、いろんな憶測が飛び交い、BCGの接種が有効だとか、ほとんど空気感染するとか、根拠のないコメントが相変わらず目立つ。ニューヨークが悲惨な状況になっていて、3週間後には日本も同じ状況になる可能性があるので油断しないようにとの意見が報告されていても、日本はアメリカより先に新コロに感染しているから、アメリカのようにはならないという書き込みが半分以上を占めている。そうした無名の人の意見を読む一方で筆者が想像するのは、1週間後にその人が死んでいることで、またそうなったところで誰にもわからない。無名とはそういうことだ。それゆえ、無名が意見をネットで発しても他者にさして影響を及ぼさない。そこで有名人の意見が問題になるが、彼らとてネットやTVがなければただの人で、意見を真に受ける必要はない。死にたくなければ自衛するしかない。筆者は京都の場末に住み、散歩しても誰とも擦れ違わない場所があり、マスクをせずに歩いても感染の心配はない。昨日は家内と嵯峨のスーパー3軒を回ったところ、どの店でもうどんや即席麺は品薄になっていた。また客は多く、新コロ問題以前と変わらないが、誰もがマスクをしていた。誰とも面と向かって話さないので筆者はマスクをしていないが、感心しない爺で感染しろと思われているかもしれない。そう言えばほとんど外出しない老人が感染したとのことで、空気感染するのだろうか。そうであればもう全員感染している。ともかく、3本1000円ほどの細い海苔巻を買ったが、いかんせん、味は値段相応で感心しなかった。
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