剪定を毎年2月中にやっているが、今日の午後は遅まきながら裏庭に脚立を立ててその作業をした。特に気になっていたのは4メートルほどの高さのある花盛りの椿で、その樹高を6,70センチ低くし、それで少しは庭が明るくなった。

これから葉をつけ始める合歓木も気になって、猿のように幹に上って背伸びしたが、切りたい枝に手が届かない。庭らしい庭でなく、剪定については全くの素人で、自分なりに見栄えがよい程度で充分だ。庭師は金をもらって他人の家の庭木をきれいにするのであるから、専門知識が豊富で技術も持っている。餅は餅屋だ。何事も専門家は違うと言いたいが、どの分野でも能力差があって、素人に毛の生えた程度の者もいる。何を思って書いていると言えば、ザッパがアルバムに費やした編集時間だ。それには収録曲をまず揃える。それがザッパの場合、ライヴ・ステージの録音からスタジオで何度も音を重ねたもの、そして会話という、3つに大別できる種類があった。それぞれに編集作業があり、そして満足の行く曲を選ぶ、どの順序でLPの各面に収めるかにも編集がある。それはアルバムという商品に欠かせないが、ザッパの場合、収入の道はレコードだけではなく、ライヴ・ステージも大きかった。おそらくメンバーにとってはもっとそうであったはずで、ザッパにすればマザーズ・オブ・インヴェンションの10人ほどを食べさせることは大変であったろう。メンバーだけではなく、機材を運搬し、調整する役割も必要だ。ザッパに言わせると、マザーズのメンバーは演奏能力がきわめて低い者が混じっていたが、メンバーのギャラをどのように配分するかで不公平感がメンバーの間にあったのではないか。案外ザッパが最も不満であったかもしれない。作詞作曲し、自分が好むようにみんなに演奏させるという能力からすれば、ザッパがギャラの半分はもらってもいい気がするが、実際の契約がどうであったかの報告はない。またマネージャーの取り分もあるから、ザッパは働いても働いてもじっと指を見るという具合で、1969年夏にはついにマザーズ解散の書類を書く。そしてメンバーの中では最も演奏能力があったイアン・アンダーウッドを特に贔屓にして『ホット・ラッツ』を録音するが、そこからは、ザッパがその後演奏能力を重視することに向かったことが見える。筆者の庭木の剪定とは違って、アルバムを可能な限りたくさん売ることを目標とするならば、他にない独特の個性と、卓抜な表現技術が必要だ。ザッパはその両方を目指し、特に後者の技術については自らの努力を惜しまず、他者にもそれを求めた。楽器を巧み演奏する技術は演奏家としては基本だ。ザッパがキャプテン・ビーフハートの歌はさておき、楽器の演奏能力を評価しなかったのは、楽譜どおりに演奏出来ない自己流で済む場合はいいとしても、他者との合奏ではそれが通用しなかったからだ。

技術だけあって中身がないという言い方があるが、中身があって技術がないことはあり得ず、技術あっての中身だ。もちろんこれは趣味の世界でのことではない。プロであれば、素人では出来ないことを示す必要がある。これは昔のことだが、ある人がポピュラー・ソングのレコードを買うのを趣味としていると、クラシック音楽好きの父親が言った。「そんな何年も残らへん音楽に金を使うのはもったいない。」ギター1本の伴奏で歌う曲と大管弦楽団の演奏を比較すると、後者は何百倍もの費用と練習時間を要しているが、レコードは同じ価格で売られるから、ポピュラー・ソングは暴利を取っていると言える。だが、若者にありがちなアイドル崇拝の心理を巧みに利用するレコード会社は同様のアイドルを続々と発掘し、一方でラジオ局や音楽雑誌にヒット・パレードを作らせ、小遣いの乏しい子どもや青年から莫大な金を吸い上げて来た。その構図は今なお健在で、アイドルを目指す者も絶えない。そういう甘い駄菓子の大量生産に似た音楽業界にザッパは1966年に参入したが、曲がりなりとも映画音楽で培った、また各地のバーでの生演奏で磨いたギターの才能からすれば、前述のクラシック音楽ファンの言葉を反芻してもいたであろう。アルバムに持てる力を全投入するのは誰しもだが、ザッパは凝り性で、アイドルがやるような甘い音楽で勝負するつもりはなかった。隙間狙いは、一般には「イカモノ」と呼ばれてまともに評価されないが、ザッパが目指したのは、アイドルが絶対に真似の出来ない技術を駆使した音楽で、アイドルが専門とする甘酸っぱい味の音楽だけではなく、あらゆる味を手元に保持したうえでのそれらを混在させた複雑な味だ。これを「イカモノ」ないし「ゲテモノ」と揶揄する人はいるだろうし、ザッパはそれを自覚して自分の音楽に「ビザ―」という言葉を使った。これは半ばはやけっぱちで、理解出来ない凡庸な音楽ファンを煙に巻く思いであったろう。ことさら「奇妙」を追求したのではなく、一種の「反社会」性を目立たせた隙間狙いだ。その反社会性はマザーズ・オブ・インヴェンションのメンバー全員が持っていたイメージで、これはアイドル性が欠如していて、そのように目立つしかなかったことによる自虐的な演出がかなり混じっていた。ところが、大所帯であり、またザッパが自分が好む音楽を演奏させるには限界を感じていた表現力しかなく、結成から5年後に見切りをつけた。レコード業界ではとにかく多くのレコードを売った者が有名で金持ちになるが、時代の好みの変化で新しい才能が出て来る。そういう世界にあったザッパは自分のやりたいことをし続けるには経済を無視することは出来ず、とにかく生き抜くために息を抜くことが出来なかった。そういうストレスを抱えていると、自分の思いどおりにならないメンバーは足枷と思うだろう。

優れた演奏メンバーがいれば、ライヴは別として、スタジオでは多重録音によって経費節減で満足の行くアルバムを作り得る。そうして出来た最初が『ホット・ラッツ』であったが、多重録音を好む性質は複雑な味の料理好みにたとえられ、ステージでは多人数を揃える必要を思う。それがマザーズ・オブ・インヴェンションであったが、経済効率は悪い。ただし多人数で客を前にしての演奏は緊張感があって、スタジオでは無理な熱気が得られる。それにステージは即興技術を磨くには必要で、収入的にもよい。それでザッパは前述の3種類の曲の作り方を生涯併行させたが、そのことが最もわかりやすい形でまとめられたアルバムがLP2枚組『アンクル・ミート』であったが、ザッパは当初はこのアルバムを映画に使うつもりでいた。マザーズ・オブ・インヴェンションとしての活動を続ける中で、ロック寄りにならなければアルバムが売れないことを知り、そのかたわらで映画に興味があったのは、ハリウッドに拠点を置いていたからだが、どのような映画を作るかまではアイデアはまとまっていなかったよう。結局『アンクル…』の映画は日の目を見ず、代わってやがて『200モーテルズ』が実現するが、その映画に『アンクル…』のアイデアはかなり生かされたはずだ。やりたいことが多過ぎる中、それらを同時に進めたが、曲もそのように常に変化し続け、ある曲はやがて大幅にアレンジされ、また同じような個性の別の曲へとつながった。その意味でザッパのアルバムはどれも完成しながら未完成で、ザッパはいつ死んでもよかったと言ってよい。作曲家としてのひとつの大きな区切りが『アンクル…』で、筆者はこの次に『ザ・イエロー・シャーク』が作られるのがよかったと思う。そうなっていれば、『アンクル…』以後の四半世紀の活動は全く違った、もっとクラシック音楽寄りのものになったはずだ。そうならなかったことがきわめて残念だが、ザッパは『アンクル…』ではとても濃厚な不気味さや暗さに支配されるほどに何かに対する怒りがあって、それは形を変えてその後ザッパのほとんど全生涯に相当する四半世紀に及んだ。その怒りはあらゆる方向に向かっているが、まずは政治で、音楽産業やプロ意識のない人間も俎上に載せられ続けた。その毒気はもちろん歌詞やジャケットの視覚性に表われた。面白いことに音楽はたとえば『アンクル…』で発表された曲は数年後にまるで違う明るさをまとうから、『アンクル…』に支配的な不気味さをさほど真剣に考えることはなく、半ばはザッパのメンバーに対する不満ゆえのイラつきが反映され、半ばはアイドル音楽とのことさらな差別化宣言ゆえの凝り過ぎた技術誇示だ。『ミート・ライト』は『アンクル…』発売40周年記念盤で、CD3枚として発売されたが、ディスク1はLPの『アンクル…』と同じ内容で、ブックレットは素気ない。

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