毒気を寄せつけないためには自ら毒気を持つのがよい。ザッパのアルバム『ホット・ラッツ』の見開き内部にはモノクロ写真のザッパの正面顔がある。長髪で挑発しているような上目使いの表情だ。
これはポーズで、いつもザッパはこのような表情をしていたのではない。『ホット・ラッツ』の4か月後に発売された『バーント・ウィーニー・サンドウィッチ』の見開き内部には、同じ身なりの別の角度から撮ったカラー写真があって、そこでは優しく微笑んでいる。『ホット・ラッツ』の見開き内部の睨みを利かした正面顔は当時サンプラーのLPのジャケットにも使われたが、この相手に喧嘩を売っているような顔つきは、女性はほとんど好まないだろう。そのことをあえて自覚しながらザッパがそのような顔つきの写真を使った理由は、ひとつには美顔のアイドルがやるような音楽とは全く違うことを伝えたかったからだ。もうひとつの理由は、厳しいエンターテインメントの世界で腹をくくって音楽に没入するという覚悟だ。アイドル路線に進めないとなれば厳しい顔をするのは効果的だ。柔な印象を与えるとたちまち魑魅魍魎に付け込まれる。そういうことはザッパは20代にしてよく自覚していた。明日からは4年前に出たザッパのアルバム『MEAT LIGHT』について書くが、今日はその序のようなものだ。今日の冒頭の一字が「毒」を使うことが決まっていたことを知ったのは昨夜だが、「毒」はこの長らく気になっていたアルバムにふさわしい。もちろん「毒」は現在大流行の新コロナウィルスを念頭に置いているが、今日の投稿の題名はザッパ・ファンなら誰しもわかるように、『アンクル・ミート』で発表されたザッパの古典となった曲「ドッグ・ブレス」の一ヴァージョンだ。話は変わるが、1週間ほど前、上桂までに行く途中で松尾大社のすぐ近くにあったドッグ・サロンがなくなっていた。向かい側に同じ屋号のもうひとつの店があったのに、それも看板は消えていた。このドッグ・サロンについては
7年前に写真をとともに少し紹介した。大きなウィンドウにあった白いプードルのイラストがとてもかわらしく、通りがかるたびに筆者は見つめた。7年前の投稿に書いたと思うが、その店のある付近はどのような店も数年してなくなるほど客足がない。それでそのドッグ・サロンもいつまで続くかと思っていたが、7年目になくなった。長くあったほうだが、看板になっていた白いプードルは死んだかもしれない。犬の寿命は人間よりはるかに短い。看板犬が死ねば同じ種類の犬を買って飼えばいいが、すぐにそんな気分にはならないだろう。それにその店の看板犬が死んだかどうかわからない。儲かったので別の場所で経営するのであれば嬉しいが、まさか若い女性店主に異変があったのではないだろう。7年も見慣れた看板がなくなるのはさびしい。それで今日は7年前の投稿写真を再利用する。
生まれて間もない黒い小さな犬が溺れて肺に水が溜まり、瀕死の状態になっていたのを、ある男性が口で犬の肺に息を吹き込むことで生き返らせる映像を先日のTVで見た。肺が機能しなくて死ぬのは新コロの特徴だが、肺が白くなっている様子はCTスキャンでわかる。レントゲンも使えるはずで、筆者は15年ほど前にそれを見たことがある。ひとりで八尾に住んでいた母が冬場に風邪を引いた。筆者が帰宅したところ、母の風邪の具合のひどさに驚き、慌てて病院に駆け込んでレントゲンを撮ってもらうと両方の肺が白くなっていた。もう1日ほど遅れると虫の息になっていた。我慢強い母なので、筆者が訪れなければ母は肺炎で死んでいた。それはさておき、犬もウィルスに侵されて肺炎になるだろうか。また飼い主が新コロに感染すれば犬もそうなるかだが、先日Fさんはペットに感染した例があると言っていた。ペットは人間と運命を共にしていて、人間あっての存在で娯楽と大差ない。娯楽の代表は芸能やスポーツで、人間を幸福な気分にするが、誰にとっても必要不可欠なものではない。そして芸能に自粛が求められているのにオリンピックを自粛しないのは矛盾だとの意見があるが、もっともなことだ。だがオリンピックに向けて練習し続けて来た若者の心を察すると、その無念さは想像を絶し、彼らがどれほど困惑、苦悩しているかと同情する。若い頃の4年はとても密度が高く、次の4年後には体力は変化している。オリンピックが完全な形で開催されることを筆者も願うが、諸外国を見れば新コロの終息の予測が立たない。一方では自粛不要の空気も高まって、格闘技や宝塚歌劇が大人数を集めて上演されている。無責任の謗りは免れないが、満員電車やパチンコ店など、相変らず混雑している場所はある。自粛疲れから誰しもストレスが溜まっていて、その毒気をどこで吐き出させるかを政府は苦慮しているだろう。それに東京は大観衆を集めての娯楽を通して爆発的に感染者が出るのか出ないのか、その一か八かの賭けをしているのではないか。爆発的に感染者が出ても検査しなければわからず、また莫大な数の検査しなければならない状態になっても、どの道もう東京は感染し切っていたとやけっぱちに認めることも出来る。そうなればその時で、オリンピックを中止する理由が出来るし、また誰もそのことに責任を負わない。それはともかく、TVにはスポーツ系芸能人がたくさんいて、国会議員や政界と強くつながっている者もいるが、優れた記録を出した者が人格者とは限らない。芸能でもスポーツでも顔と名前を売れば勝ちで、それはグローバル時代になって加速化した。品位や品格も金に換算され、その疫病のような思いは世界中に蔓延しつつある。そのグロテスクさがオリンピック年に新コロが流行ったことで日本ではより浮き彫りになっている。そこで筆者は野良犬のように毒気ある息を吐く。
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