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👽💚🐸🐛🍀📗🤢😱5月11日(土)、京都河原町三条下るLive House『DEWEY』にて👻『ザッパニモヲ 💐母の日LIVE』午後5時開場、6時開演。3500円👽筆者の語りあり。
●今回は初めての別会場での、そしてザッパ/マザーズの結成日である1964年の「母の日」から60年という節目における、ザッパニモヲの演奏です。チラシ画像はここ。恒例の手製のお土産をくじ引きで配布します。

●『世界のかわいい衣装』
密に織り込まれた布をカラフルに彩ることは人間の本能と思うが、日本の国会や通勤電車内のサラリーマンを見ると、紺か灰色のスーツ姿で、装飾と呼べるものはネクタイにかろうじて残っているだけだ。



●『世界のかわいい衣装』_d0053294_15164037.jpgその点、女性は華やかな色合いや形の衣服をまとえるが、この傾向は今後何百年続くのだろう。筆者は時々こう想像する。遠い未来に衣服の革命的な新素材が発明されて、誰もが年中同じ色合いと同じ形の衣服を着る……。宇宙人を描く映画のようだが、画一的な身なり個性を不要とみなしているからで、AIが極度に成長した暁には人間が個性を重視せず、働き蟻のようにみな同じ姿をして満足しているのではないか。そこから逆に見えることは、働く男の社会は個性を持ってはならず、そのことは誰かが誰かと交換可能な社会を意味している、という現実だ。そこでそういう基本的な国家の労働力からはひとまず距離を置いた、そして他者と交換は出来ないが存在がさして求められていない一群の芸能人や芸術家がどのような国にもたいてい存在していて、彼らは目印として紺や灰色のスートとは全然違う、一風変わった見慣れない衣装をまとう。もちろんサラリーマンは会社にいる間はスーツ着用が原則の場合が多いが、勤務の間以外は自由であるから、芸能、芸術家のような個性的な服装をする人はいる。人間は属する社会によって普段着る衣服が異なり、そのことでどういう世界にいる人間かを判断するが、時と場所と目的に応じて衣服を変えることは常識で、衣服は社会生活における記号性を体現している。その記号性には伝統がある。一方で流行の観念が人間にはあって、伝統はそのままの形では保持しない、また出来ないことがしばしばある。そこに衣服メーカーが新たに参入出来る機会が常に転がっているが、あまりに変わったデザインのものは敬遠されるから、一歩か半歩先を行き、また手頃な価格のものがよく売れるだろう。特別に高価なものを狙う道は生地や縫製など、特別高級なものを提供する必要があって、新参の小さな会社では無理だ。ともかく流行があることによって貧乏人はよけいな羞恥心を抱くことになり、一方では優越感に浸る富裕層も生まれた。流行に囚われない身なりをすればいいが、それが可能なのは自分で衣服をデザインして縫製出来る人やまた世間の常識からはみ出すことを何とも思わない人で、いずれにしてもごく稀でほとんど人目につかず、話題になることはほとんどないだろう。あるいは話題になってもそれだけのことで終わる。それはともかく、年齢を重ねると常識がより身につき、奇抜な身なりをする気分が失せるのが普通だろうが、それは精神的に老け込む大きな理由で、老いるほどになるべく派手な色合いの衣服を着るのがいいという意見があって、欧米ではその傾向が強い。若い頃は汚れたものを着ても様になるが、顔に皺が目立つ年齢になるとそれではただみすぼらしさが際立つ。
●『世界のかわいい衣装』_d0053294_15222190.jpg 筆者は昔ある人から着ていたシャツがどこで売っているのかと訊かれたことがある。さほど変わった柄のものではないが、流行中のものではないので、街中では売っていない。一方、梅津の従姉の旦那さんは体格がよいスポーツマン・タイプだが、還暦を迎えた頃の昔、普段何を着ていいのか戸惑うという言葉を耳にした。これは普段の行動範囲からある程度規定されることで、たとえば毎晩バーで飲むのであればそれなりのお洒落は必要だが、車で格安スーパーに行く程度の生活ならば上下が揃いのジャージでもいい。結局息子がラグビーの有名選手でもあって、息子と同じカンタベリーのブランドのシャツを今もよく着ているが、気に入った衣服のブランドがあってそれに固定していればめったに外れはなく、本人も自信を持って出歩くことが出来る。もちろんそういうお洒落に鈍感ないし無関心な人も多く、また高価なブランドものを常に身にまとっているにもかかわらず、全然その雰囲気がなく、どこかのスーパーのバーゲン品を着ている感じの人もある。結局はその人が裸になっても持っている確固たる自信のようなものが大いに着衣に関係し、それには普段の居住まいの姿勢も影響する。好きな服が似合うとは限らないとよく言われるが、筆者はほとんど気にしない。子どもの頃から好きでない形や色の服は新品であっても絶対に着ない。そのためせっかく誰かからいただいた服を同じ世代の誰かに与えて喜んで着てもらったことが何度もある。そのため自分が着る物はすべて自分で買うが、そう言えばとても貧しかった頃でも服にこだわっていた。その一例は、10代半ばにあるシャツ屋で筆者がデザインしたとおりに縫製してもらったことだ。その思いは半世紀経った今でもさして変わらず、可能であれば自分でデザインした、あるいは自分でリメイクした服を着たいと思っている。これは自分だけのこだわりがあるからで、誰かと同じ格好が嫌なのだ。とはいえ、売られているものを組み合わせるしかなく、また筆者の性格は昔に言う「squaer」が基本にあるので、突拍子もない格好はしないし、また若者の流行にも関心はない。そのためお洒落とは全然言えず、多少は目立つかという程度だ。それは自分の顔は昔からどうも目立つようで、そのことに釣り合っていると思っているからでもある。だが、衣服は金をかけるほど高級感は出るから、貧しい筆者が出来ることはごく限られている。それは筆者が地元で時々「芸能人みたい」と言われることが示しているように、いい年をした大人としてははなはだ格好悪いと受け止められることと思うが、その点は気にしていない。実際筆者の生活は普通の人とは大いに違っていて、少々常識外れの身なりと思われてもそれは実体に即していて、筆者は嘘をついていないことになる。それでもTPOはわきまえているつもりであるから、自治会の会合などで白い目で見られることはない。
●『世界のかわいい衣装』_d0053294_15090619.jpg
 前置きが長くなった。11月23日に神戸でショパン展を見た後、梅田の阪急百貨店に行って本展を見た。国立民族学博物館の所蔵品を借りての展覧会で、題名にあるように「かわいい」衣装が世界各地から集められた。これは各国の伝統的な民族衣装で、今では急速に廃れて来ていて、大半はもう現地で入手不可能だろう。ここ数十年のグローバル化に伴なって衣服の画一化が進み、安価な製品が世界を席巻している。それは合理的ではあるが、衣服は消耗品に過ぎず、衣服に対する敬愛を風化させる。人間の本質は同じでも、各国は風土や気象が異なり、衣服の機能が違って文様に対する意識も伝統も違う。そういう多様性の重要性が性については喧伝されながら、今は民族的な衣装は外国人観光客が喜ぶキッチュとなりつつあり、たとえば本展で展示された衣装のぐんと質の悪いものが一種のお土産品として製造販売されている例があるだろう。ひどい場合はそういう衣服が現地とは異なる場所で作られていることもある。そのことは日本の安物のキモノからも想像がつく。そういう時代の動きを予想して民族学博物館は70年代から世界各地で民族的なあらゆる物を収集して来ているが、やや遅きに失しながら、どうにか間にあったと言える。ということはこの半世紀でいかに世の中が変化して、もはや70年代には入手出来たものが現地では見つけられなくなっていることを意味する。それはちょうど当時日本の民藝が終焉を迎えたことと通じているが、発展途上の国では豊かな民族的なあらゆる物は手作りされていたし、今でもアジアやアフリカ、南米の一部ではそうではないだろうか。そうした民族的な物は普段使いの消耗品とお祭りのための特別豪華なものと大別され、その双方を民族学博物館は収集の対象にしていて、本展は後者のしかも「かわいい」色合いや文様のものを選んでいる。この派手目なものへの偏りは百貨店の会場での展示であるので仕方がないが、カラフルかつ複雑な文様を作り出すことは高度な染織技術を要するので、「かわいい」を基準に民族衣装を選択してもそれはそれぞれ現地の最高度の技術を示す内容になる。筆者は母と妹ふたりとで育ったので、「かわいい」色合いとデザインの衣服を見るのは好きで、街中を歩いていて家内が着ればいいなと思う服を見かければそのことをよく指摘する。ところがどうも筆者の派手好みの趣味は家内には似合わない。もっとも、買えるのは安物ばかりだが、家内はそれでも筆者が勧めたものを着て喜んでいる。話を戻して、本展は世界各地に個性的な「かわいい」衣装があることを示し、そのことでどの国でも主流となっている欧米のファッションに何らかのスパイスを付与する要素を発見させるきっかけにもなるだろう。だが、その動きはおそらく100年以上前からあって、人間がそうであるように衣装のデザインは混血を繰り返して来ている。
●『世界のかわいい衣装』_d0053294_15095787.jpg
 ところが大量生産時代になって民族衣装の要素を取り入れるにしても機械を使って「それ風」にすることとなって、本展で展示された衣装のような純粋で独特で手製ゆえの香りが高く、技術的にもきわめて高度なものはますますその価値を増すようになった。そうであるからこそこうした展覧会が開かれるのだが、「それ風」の極致に至った現代の衣装は、どんな模様でも胸に簡便にプリント出来るTシャツで、先に書いた遠い未来に人々が共通して着る衣装の外見的特質はTシャツにあると思っている。プリントを染織と捉える人があるが、プリントは本展で展示される衣装の染織技法とは天地の開きがある。どっちがいいというのではなく、そこには大量生産文化以前と以後の隔たりがあって、以後の文化が以前の文化が育んだものをすべて機械で量産出来るかと言えば、そんなことはあり得ない。これは時代が進めば何でも発展するとは言えないことを意味していて、本展で展示される衣装を復元するならば、同じだけの人間の手仕事の手間を要し、技術も欠かせないが、肝心のその技術がほとんど途絶えている場合がよくある。その技術を取り戻すにはまた何世代も必要だが、そこまでして復元する経済的余裕がその地域になく、欧米の簡便なプリント衣装に飲み込まれたままとなる。Tシャツのプリントの技法とはかなり違うが、版による染色はインド更紗にもあり、またそれはヨーロッパの衣装にも応用されたので、プリントTシャツを安価な消耗品とは言い切れないところがある。また肌に密着する下着同然の着用法ゆえに快感が重視され、衣服の根本的な命題に明快な回答を示している。本展の衣装は下着ではなく、多くの人に見せることを目的とした華やかな装飾を旨とする。またその文様は自己ないし特定の集団の差別化と魔除けや祝いの意味を持つが、それは遠く離れた集団ではただの抽象文様となる。それは時に冒涜と映るが、無邪気ゆえのユーモアでもあって、Tシャツに限らず、本来の文様の意味を知らずに出鱈目に引用改変しているデザインは衣装でもよくある。それは本展の衣装をただ「かわいい」とだけ感じることは見方が浅いことも示唆し、「かわいさ」の奥にその地域特有の生活や伝統があることを本当は知らねばならない。それはその地域へ旅行し、文化の一端に触れることで理解がより進むが、現地の人たちが本展の衣装をまとうのは特別の日のみであって、普段は日本と変わらない欧米のファッションに身を包んでいる。今日の投稿が無駄話に終始しているのは、会場で撮って来た写真が多いからだが、会場に最も気に入った衣装を3点選ばせるアンケート用紙があった。今日の3枚目の写真の上はクロアチアの男性用の衣服で、そのカラフルな花模様は日本ではとても男物とは思えないが、これは女性用と対を成す派手さで、こうした華やかな衣装に身を包む正装の男女はとても晴れやかで美しい。
●『世界のかわいい衣装』_d0053294_15102732.jpg 3枚目の下は左右ともウズベキスタンの男性用の外衣で、筆者はこれが最も気に入り、そのまま着て歩くのが無理ならば、同じ絣の布地を入手してヴェストやジャケットに加工したい。手元に広島県立美術館で四半世紀前に企画された『アジアの染織展』の図録があって、その最後のほうにこの2点とよく似た外衣の図版が20点ほどあって、女性用の外衣も含まれる。それは男性用と区別がつかない色や柄、形で、男女ともに大きな目立つ柄の外衣を着て出歩いている姿を想像すると楽しい。この派手さは日本ではほとんど見られず、むしろ大都会ではモノクロの無機質が好まれていて、こうした派手な衣装はアウトローが好むか、祭り用に限定される。4、5枚目の写真は中国の少数民族のミャオ族のもので、精緻な刺繍が見どころだ。5枚目は西洋美術のロココ以上の密度の高い文様を表現し、その装飾過剰さはこれ以上発展のしようがないことは明らかだ。会場のパネルに中国の少数民族についての興味深い説明があった。それをかいつまむと、中国には55の少数民族が総計1億人いて、2008年の北京オリンピックでは漢民族を合わせた56の民族の代表56名がそれぞれの民族衣装を着て開会式に参加したが、一民族が一衣装とは限らず、中国の西南に住むミャオ族は100万人いて100から200種類の衣装を持つ。ミャオ族はまた隣接するベトナム、ラオス、タイにも住み、それら国境沿いに住む人々の衣装には共通性が見られる。それは大麻から糸を紡いで布を織り、ローケツ染めや刺繍で文様を施すことと、スカートに細かいプリーツを施すことだ。ここ十数年の経済発展の加速化に伴なってそうした手仕事をする人が激減しているが、彼らにとってそうした伝統的な衣装は死に装束としても使われ、重要な意味を持っている。またミャオ族はそうした晴れ着を2、3年使う間に普段着とし、そして労働着を経て最終的にはボロとして使っていたが、経済発展を遂げた生活では5枚目の写真のような装飾過多の晴れ着は普段着としては機能的ではなく、箪笥に眠ったままとなっている。その点は日本のキモノと同じで、冠婚葬祭用と普段の生活用とで衣服を変え、また普段着は欧米の衣服をどの国も疑いを持たずに着るようになっている。ただし、イスラムはそうとは限らず、数百年後はまた各国が個性ある衣装を普段に着るようになっているかもしれないし、あるいは最初に書いたように、保温や感触など衣服として理想的な新素材が発明され、染織を行なわずにせいぜいプリントで個性の差を出す、今の人間が思い描く宇宙人のような素っ気ない上下つなぎの肌にフィットする衣服を着ているかもしれない。そうなった時、本展の衣装に相変らず驚嘆するだろう。その失われた手仕事の精細なる華やかさは人生を削って作ったものだ。人間が生きた証の結晶で、しかもそれをまとって男女が見つめ合った現実がそこにはある。
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by uuuzen | 2019-12-19 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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