凌駕を目指して奮闘するのが人間の本性のひとつで、ライヴァルがいなければ克己を旨とする。だが、たいていは気になる誰かに負けたくない思いがあって張り合おうとする。
そんなことを考えない唯我独尊の境地にある人がいい仕事を残すかと言えば、視野の狭さを露呈している場合が多いだろう。今日は10日前に書いた『HOT RATS SESSIONS』の
「その3」の続きめいたことを書く。本ブログの「思い出の曲、重いで」のカテゴリーにこれまでザッパの曲を取り上げなかったのは、好きな曲がひとつに絞れなかったからだが、春めいた季節になって来た時に届いた『HOT RATS SESSIONS』を聴くに及び、「緑のジーンズ氏の息子」を取り上げる気になった。30年ほど前、筆者は何人かに好きなザッパの曲をカセットに録音して聴かせたことがある。その時に必ずこの曲を取り上げ、またその直前にアルバム『アンクル・ミート』の収録される「緑のジーンズ氏」を置いた。ザッパの編曲の妙を知ってほしいからで、スローなヴォーカル・ヴァージョンが翌年には3倍の長さの派手で速度感の激しい長大なギター曲として録音されることが筆者にはとても面白かった。ところがザッパはこの曲をあまり重視しなかったのか、73年に他の曲とメドレーにしてライヴで演奏し、その後は88年のツアーでアイク・ウィリスによるスローなヴォーカル・ヴァージョンを演奏してアルバム収録した以外は新しいアレンジを発表しなかった。これはヴォーカル・ヴァージョンと『ホット・ラッツ』の「息子」ヴァージョンが双璧として完成が終わったとザッパが考えていたためであろう。シンクラヴィア・ヴァージョンやアンサンブル・モデルンによる演奏も聴きたかったが、何と言っても面白いのは「息子」ヴァージョンで、それに至るまでの未発表のスタジオ・ヴァージョンが『HOT RATS SESSIONS』に4曲収録されたことは、かなり大げさに言えば筆者はザッパの曲に関してもう思い残すことはない。それで、昔ならばヴォーカル・ヴァージョンに続いて「息子」ヴァージョン、そして87年の初CDヴァージョンの3つを順に並べてカセットに録音したが、素材が一気に増え、CD-Rに焼く気になった。また去年ある人に口頭でそのCD-Rをいずれプレゼントすると約束したこともあって、一昨日はようやくその気になってパソコンに取り込んだ。ところが何度焼いてもステレオでは鳴らない。6枚も同じものを焼いてネットで調べると、データとして焼いていることに気づいた。早速曲としての項目をクリックして焼き直したが、筆者はウィンドウズのメディアプレイヤーの仕組みの初歩がわからないほど無知だ。無駄になった6枚はパソコンでは聴けるし、またパソコンに取り込んで新たに曲として焼けると思うので、いずれほしい人に配るつもりでいる。
最初メディアプレイヤーに取り込んだ曲は1枚では収まらなかった。2枚でもいいが、ステレオのCDプレイヤーで聴くにはCDの取り換えは面倒で、どうしても1枚に収めたい。そこで『アンクル・ミート』のヴォーカル・ヴァージョンは、2016年の『ミート・ライト』の別ヴァージョンを採用した。何度も聴くのであれば珍しいヴァージョンのほうがいいからだ。73年のメドレー形式のライヴ・ヴァージョンは『ハロウィーン73』と『ロキシー・パフォーマンス』に収録されるが、双方は2か月違いのきわめてよく似た演奏で、前者は最初と最後に「緑ジーンズ氏」の主題が演奏されるのでこちらを選んだ。最後は88年のライヴで、『ザ・ベスト・バンド』収録のヴォーカル・ヴァージョンだが、これを含めると全体で80分を少し超えるので省くことにした。そうして選んだのは全8曲で、これを一昨日からもう10回は聴いているが、今春は当分の間この自作編集のCD-Rを大音量で聴くつもりでいる。その8曲の収録順は今日の最初の画像のとおりで、5曲目の「トラック4」は『HOT RATS SESSIONS』の「1969 ミックス・アウトテイク」で、8曲目の「トラック3」は87年の初CDヴァージョンだ。こうして8曲を順に聴くと、やはり最も感動するのは8曲目のザッパが最終的に編集した「息子」ヴァージョンだ。そのカラフルな仕上がりは『ホット・ラッツ』の見開きジャケット内部右上の赤や緑で彩られたイアン・アンダーウッドの写真そのもので、ジャケット・デザインが実にうまく音楽の中身を形容していることに今さらに感心する。筆者は「息子」ヴァージョンのすべてをそれぞれ1枚ずつの抽象画にしたい気がしているが、それは楽譜を彩るようなもので、仕上がりは予想されてあまり面白くない。そこでザッパがいみじくも『ホット・ラッツ』を「耳のための映画」とジャケット内部に記したことを思い出すと、絵画ではなくアニメーションでしか表現出来ないことに気づく。その色合いは先のイアンのカラフルな写真を採用するしかないが、延々と続くザッパのギター・ソロは図太く黒白で表現するのが最適で、それはまた見開き内部のイアンの横にあるザッパの白黒写真が表現していて、カル・シェンケルはこの曲をアニメーションにしようと思っていたのではないか。当時はサイケデリックな色彩が流行していて、ザッパもそれに染まっていたことが「息子」ヴァージョンから言えるだろう。そのサイケデリックは人工甘味料の色合いでもあって、どぎつさとポップなかわいらしさが相半ばしたものだ。それはジャケットに写るクリスティーン・フーカが自作の編み物のジャンプスーツを着た姿にも体現されていた。どぎつさは言い換えれば不自然さで、それは多重録音になぞらえることが出来る。
『ホット・ラッツ』の中でも「緑ジーンズ氏の息子」はわざとらしさが拭えない感覚がつきまとう代表だが、全体としてはそれならではの面白さがある。それはけばい化粧をした女のようで、筆者はそういう女は嫌いではない。それにザッパのギターは一発録りで、その点で大いに自然なものだ。その基本としての自然さに化粧を順に施して行って完成させたのがLPヴァージョンであった。それをさらにどぎつく派手に加工し直したのが87年の初CDヴァージョンで、筆者はそれを聴くたびに自分の思いどおりにはならない手こずる女を想像してもどかしくなる。それはいいとして、「息子」ヴァージョンである2,3,4,5,6,8曲目を順に何度も聴くと、面白いことが多々わかって興味が尽きない。それらを逐一ここに書かないが、結論を言えば、完成作である8曲目でもなお筆者は不満足な箇所がある。それで18トラックを自由に加工してミキシング出来る方法が商品化されないかと夢想するのだが、不満足というのは、ある個所では急にギターや鍵盤その他の楽器の音量が萎むことだ。これはある小節でザッパが最も強調したい、つまり聴きどころを目立たさせる思いがあったためだ。この曲をそっくりそのままライヴで演奏すればどの楽器もほとんど同じ音量で鳴り続け、ミキシングの際の急激な音の減量はないはずであるから、筆者はその様子を想像しながら聴く。とはいえ、たとえばモーツァルトのようにクラシック音楽の管弦楽曲ではある小節である楽器が特別目立つことは普通にある。69年当時ザッパは管弦楽曲の総譜を書いていたこともあって、そのさまざまな楽器の複雑な音色の絡みの醍醐味を念頭に「息子」を書いてギターをまず演奏し通し、その後にイアンに多重録音させたことは、少人数コンボによるクラシック音楽寄りの曲作りであった。前にも書いたように、「息子」はザッパのギターの超絶技巧を中心にした協奏曲と言ってよく、同じ傾向は実際の管弦楽団を使っての75年9月、UCLAでの「デューク・オブ・プルーンズ」に再現するが、同曲は管弦楽団によるカラオケを先に録音し、後にザッパがスタジオでギターを追加録音したので、「息子」とはちょうど反対の作り方であった。オーケストラをしたがえたザッパのギター演奏をもっと聴きたかったが、ザッパの即興と楽譜どおりに演奏するオーケストラとでは相性はよくなかった。そのことは「息子」がいみじくも示している。一方、自作CD-Rの7曲目のメドレーのライヴを聴くと、「息子」の主題のみまた全然違った趣で使われ、ザッパを含めてメンバーたちがのびのびと自由に演奏している様子が心地よい。そこには87年の「息子」ヴァージョンの華麗さはないが、不自然さがない。自作CD-Rはそうしたいろんなことを考えさせ、また何度も聴くことでザッパの曲作りの本質が見える。
28歳のザッパが「息子」を録音し得たのは、ロックだけを聴いて来なかったからで、ストラヴィンスキーなど、クラシック音楽の素養が裏打ちされている。それはアメリカでも珍しい才能であったろう。イアン・アンダーウッドはザッパがストラヴィンスキーなどの現代音楽から引用や参考にしていることをよく知っていたが、そのことと実際に創造することは別で、要は他者が感得出来る作品を作らないことには二、三流のミュージシャンに留まる。さて、「緑ジーンズ氏」の変遷をCD-R2枚にまとめる場合、2枚目にはドゥイージルの演奏を収めるつもりだ。これはまだCD化されておらず、YouTubeで見られるだけだが、ザッパの息子が「緑ジーンズ氏の息子」を自分のバンドでライヴ演奏しているのは「息子の息子」ヴァージョンと言ってよいが、実際は「息子」ヴァージョンをほぼ忠実になぞっている。これが面白いと言えばそうだが、ドゥイージルは充分記憶していないのか、ところどころで父のソロとは違うメロディを奏でる。筆者はそれこそ「息子の息子」ヴァージョンとして、もっと大きく編曲し、なおかつこの曲の持ち味を失わない演奏を期待するが、それはなかなか難しいのだろう。というのは自作CD-Rの2曲目に収めた「テイク1」が「マスター・テイク」に比べてやはりギターのメロディに面白みが欠けることを思えばよく、ドゥイージルが苦心しても「テイク1」のような演奏になり、「マスター・テイク」の凌駕は無理だろう。それほどにザッパのヴァージョンは完成度が高い。そのギター・ソロは後でイアンにサックスやキーボードを重ねさせることを意図して部分的に目立たない繰り返しのフレーズを奏でていて、ザッパの脳裏にはギター・ソロだけではなく、完成作としての「息子」の音色全体が鳴り響いていたのだろう。その余裕があっての「息子」で、ただのギタリストでは全く創造することが無理な曲だ。半世紀経った今ではこの曲のザッパのギター・ソロをそっくり模倣演奏出来る才能は珍しくないだろうし、実際YouTubeではそうしたコピー演奏が投稿されている。それらはそれなりの面白さがあっても、それだけのことで、一歩でもザッパの前を進む工夫や気迫はない。今はパソコンでも多重録音が可能になっていて、「息子」のように主題を書いてそれにさまざまな楽器の音色で色づけすることはさほど難しくないだろう。そういう曲作りをしている若いミュージシャンは少なくないと思うが、忘れてはならないことは、複雑なメロディをザッパ自身がギターで演奏出来たことだ。そこには根本としての自然がある。パソコンで何もかも作ると、アンドロイドの不自然さが露わになるに違いない。ザッパはシンクラヴィアを使ってそういう曲も大いに作っていた。アイドル性を除外し、なおかつ存在意義のある音楽を作ることを求めたいが、それは今の日本でいかに可能か。
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