吹きすさぶ風雨の中で雀はどのように我慢しているのかとよく思う。「そういう日もあると黙ってやり過ごすしかない」という気持ちだろうが、人間も同じことで、逆らえない自然がある。
筆者は毎朝起きてすぐに雀に餌の古米を与える。雀は合歓木の枝に30羽ほど鈴なりになって待っていて、面白いことにみな筆者の寝室の方を向いている。筆者が布団から起き上がるのを今か今と観察しているようで、たぶん日が昇って間もない頃からそうしているのだろう。冬場は食べ物が少ないはずと思って多めに米粒を与えていて、やって来る雀も増えている。塀の上に金具で留めた皿に米を注ぎ込んですぐに部屋に戻ると、筆者の姿が見えなくなるや否や彼らはけたたましい鳴き声を発しながら米をついばみ始める。彼らの胃袋は小さなものだ。少し食べれば待っている者に場を譲る。小1時間すれば別の集団がやって来るが、彼らのためにも全部食べないようで、人間のほうが他者を思いやる想像力がなく、はるかに強欲だ。コロナウィルス騒ぎはどのように収束するか見通しが立たず、マスクやトイレットペーパーだけではなく、今後は戦争直後の混乱のような食料不足の事態になりかねない。米や缶詰も買い占める動きが出る気がする。そうなれば食料品の価格が暴騰し、貧しい人は大いに困り、騒ぎが一段落した後はさらなる拝金主義が蔓延する。中国人の入国を湖北省に限ったのは、結局のところ経済を重視したからで、東京事変というバンドもそうだ。経済を考えることは重要だが、2月上旬にわが家に来た女性はこう言った。「お金は天国へ持って行けませんよ」それで死者の財産は必ず解体され、金歯も抜かれる。今は金歯は流行っていないが、19世紀のヨーロッパでは金持ちが義歯を必要とした時、若い女のきれいな歯を歯医者に抜かせ、それを買って使ったというから、貧乏な娘の口元は老婆のように見えることが多かっただろう。残酷なことだが、今でも同様のことは無数に生じていて、売る物がない女は体を売り、男の場合は臓器を売ってでも生きる。昨日書いた「悪い意味でいい根性をしている」の「根性」は「内臓(guts)」のことだが、辻まことは金持ちを太い下水管にたとえた。コロナウィルス蔓延の瀬戸際にあるとされる中、大観衆を集めてライヴを開く連中の内臓も下水管で、吐く息もきっとドブの臭いがする。そう言えばたまに口臭がとんでもなくひどい人がある。そのことを伝えれば失礼なのでそっと距離を置くが、2メートル離れても臭う。主に虫歯や歯肉炎から口臭はひどくなるが、カラヴァッジョ時代のペンチで虫歯を抜く歯医者は、公衆のために口臭撲滅を司っている思いをあっただろう。とはいえ歯を抜く際、さんざん嗅がされる口臭を想像すると、歯医者にはなりたくない。それに男の歯医者なら、若い女性の歯を治療するのはいいが、口臭のひどい老人がいてはそれも帳消しだ。

コロナウィルスの感染を防ぐために、他人からは2メートルは最低離れるのがいいらしい。どこかのチケット売り場では直径2メートルの円をいくつも並べて描き、そのひとつずつの真ん中に客は立っていた。京都の田舎の小学校の授業でも児童の机がお互い2メートルほど離されていて、この2メートルは手を伸ばして届かないので、心理としてはわかる。先日大阪に出た時、各駅停車に乗った。とても空いていて、筆者らに最も近い客は10メートルは離れていた。そこまで感染を気にするのは異常だと思われても、感染の危険性を極力排除したいのは誰しものはずで、自己防衛するしかない。ここ1,2週間がその後の拡大がどうなるかの瀬戸際とされていて、ひとまずはそれを信じて注意深く行動すべきだ。たいした心配はしないでいいという意見があり、筆者もそう思っているが、後悔したくないのであれば危険は避けるに限る。1,2週間後にさらに感染が拡大していれば、その時にまた考えればよい。今はデマも含めて混論状態で、何が正しいのかよくわからないが、ひとつだけ明確なことは、「感染しない、感染させない」ことだ。それには不要不急なことはしないに限る。歯痛は歯の悪い本人だけのことで、歯医者に悪い歯を治療してもらえばそれで済むが、歯痛ゆえの口臭を撒き散らしていることはある。コロナウィルスも同じで、自分が感染して辛い思いをすれば済むという問題ではなく、ウィルスをばら撒き続ける。口臭なら即座に逃げることが出来るが、ウィルスは放射能と同じく感染しているかどうかわからない。コロナウィルスに感染している歯痛の人を歯医者が診ることはあって、危険に晒される医者は大変な職業だ。その点、ミュージシャンは聴き手に感動を与える夢のある仕事をしていると自負するのだろうが、筆者はそういう考えが大嫌いで、他者に感動を与えると公言するのはだいたいいかがわしい連中だ。ザッパもそう思っていたはずで、「黄色い雪を食べるな」の歌詞では、ショーに金を使い過ぎる子どもをたしなめるエスキモーの親が出て来る。筆者がザッパに会った時、息子にザッパの音楽を聴かせていると言ったところ、ザッパはそれはやめておいたほうがいいと言った。ショー・ビジネス界の汚さを思ってのことでもあるし、ショーを見て楽しむことはたまにであるからいいのであって、ショーを披露側を目指す生き方はリスクが大き過ぎると思っていたであろう。これはごく常識的な考えで、人生をまともに過ごしたいのであれば、ショーにうつつを抜かさないことだ。コロナウィルスの嵐が吹きすさぶ中、人はどのように我慢して過ごすべきか。そういう日もあると黙ってやり過ごすしかないが、筆者は自分で選曲してCD-Rに焼いたザッパの「緑のジーンズさんの息子」を連日聴いている。これなら小さな子どもが聴いても楽しいはずだが、音楽の傍観者でいたほうがよいと筆者なら言う。
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