墓がどこにあるかまでは知らないし、あってもお参りに行かないかもしれない。たとえば加藤一雄や生田花朝女の墓だ。加藤は墓地が好きで、東山の長楽寺に行ったことが『蘆刈』やそのほかの本にも書かれる。
筆者もその墓地には数年前に家内と訪れたので、加藤の文章を読みながら記憶が鮮明に蘇る。加藤の教え子が書いたのか、『加藤一雄の墓』という本がある。著者は加藤が墓地を好んだことにかこつけて加藤のことや加藤が関心を抱いた死者について書いているのであろう。加藤の著作を繙けばいつでも加藤の内面に触れることが出来るが、日記や手紙、メモであってもよい。そう言えば富士正晴の『どうなとなれ』には花柳芳兵衛が実母を死ぬまで探し続けたことに関する文章『母恋』がある。小説とは言えず、芳兵衛の残した日記をもとに、随所に富士の思いを挿入したもので、ある意味では悪趣味と受け取られかねないが、富士には芳兵衛と結婚相手が交わしたラヴレターをまとめた『恋文』と題する著作もある。どちらが先に書かれたのか知らないが、富士の手元に芳兵衛が手元に置いていた資料が芳兵衛没後にまとめてもたらされた。『恋文』を筆者は20年ほど前に買いながらまだ読んでいないが、『母恋』はいろいろと驚くことがあってその余韻が日々大きくなっている。芳兵衛のことを知る人は筆者より上の世代だが、筆者が知るのはTV番組『素人名人会』の評者としてで、踊りの芸は見たことがない。TVで見た顔は知識人といったしっかりとした顔で、芸人らしくなかった。富士が芳兵衛に関心を抱いたのは、優れた文才に注目したからであろう。実際そうであって、芳兵衛は多芸であった。それはともかく、富士は芳兵衛像を文章にまとめ、そのことで筆者が間接的にせよ芳兵衛に関心を持つことが出来る。加藤の著作の場合も同じで、村上華岳についての文章を先日バス中で読んでいる時、筆者は落涙した。同じようなことを書いても、言葉によって人に感動を与えることが出来る。これはどのような芸術でも同じだ。村上の芸術があってこその加藤のその文章とは言えるし、また加藤はそのことをよく知っていたが、加藤は創作として個人的な思い出、そして想像が混ざった『無名の南画家』や『蘆刈』も書いていて、それらの著作はこれほど面白い本はないと大絶賛出来るものだ。あまりも面白く、読み終えるまで本を閉じることが出来ない。富士も同じ感想を書いている。そんな才能はめったにない。その文才で美術評論もしたのであって、芸術評論は科学とは違って結局は個人の感想に過ぎないと喝破していた。読んで面白くなければ記憶に残らず、意味はない。優れた美術作品も同じことで、評論も創作であって、富士の『母恋』もそうだ。なお、芳兵衛についてのWIKIPEDIAは富士のこの文章を元にし、母のことには触れない。それは正しい行為だが、芳兵衛のことを深く知るためには『母恋』は必読だ。
またそこに筆者は芸人の一種運命的な生活ぶりを見る思いがするが、それは今もなお無数に繰り返されていることで、筆者は自分の生い立ちにも思いを馳せる。それはさておき、今日は先週土曜日にハルカスから環状線の桃谷駅まで歩いたのは、生田花朝女の生誕地の石碑を見るためであった。グーグルのストリート・ヴューで見られるのであれば出かけなくてもよかったが、この石碑のある前の道の東西数十メートルは見られないようになっている。11日に出かけた時はすぐ近くまで行きながら、地図にその場所を記していなかったので見つけられなかった。勝鬘院前を午後5時に去り、この石碑前に着いたのは5時半少し前で、石碑とその左隣りにある半円形の句碑を一緒に撮影し、そのまま東の細工谷の坂を下って桃谷駅に向かった。ちなみに加藤は花朝女より16歳年少で、加藤が後年美術について書く時に花朝女のことを知らなかったことはないと思うが、華々しい京都画壇に比べると大阪在住の画人は精気が乏しく見えたであろう。筆者が花朝の作品を初めて見たのは2006年の
『島成園と浪華の女性画家展』で、花朝の清々しい名前とその作品の大らかで純粋精緻なことに、同展では最も印象深かった。ここ1,2年、花朝に関しては契機が訪れた。詳しく書くとややこしいので、今は花朝に関心があることだけを記しておく。今日の最初の画像はネットで見つけた花朝の写真を3枚並べたもので、左端は45、中央は51、右端は58歳だ。左2枚は当時の美術雑誌に掲載されたもので、取り上げられる女流画家はきわめて稀であった。さて今日の2枚目の写真は15日に撮った。11日もこれが目的で出かけたようなものだ。写真の左手にある半円形の句碑は「百済野のむかしかたりて露の萩」と読めるが、後の二文字の署名が読めない。ネットで調べるとすぐにわかった。花朝の父の「南水」であった。なるほど。父と娘を顕彰する石碑で、これが建つ場所は「上之宮跡」とされる。南水は国学者で、俳句と書画をよくした。それらからは優しい人柄が伝わる。その才能は娘も持ち、菅楯彦に弟子入りして大きく開花した。菅は花朝が男であればよかったのにと書いている。これは今も同じだが、女では画家として大成するには困難が大きいという意味であろう。花朝は結婚せず、後年養子を取った。家系が絶えたのか、家の跡地にマンションが建つ。句碑は北向きで、これは東を向くべきだ。そこは猪飼野など、かつて百済からの渡来人が住んだ平野だ。加藤の本に、猪飼野にレンゲを摘みに行く話がある。大正時代のことだ。今は野原は皆無だ。「百済」の号を持つ南水だが、上町台地の東に広がる土地を見わたしながら、何を思ったことだろう。細工谷のなだらかな坂を筆者は初めて歩いたが、その家並みは猪飼野のそれと同じと言ってよく、昭和の情緒が残る。そのひとつの中心地の桃谷駅前で買い物をして京都に戻った。
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