粗雑ではあるが粗末にしたくない思いから、好きなだけ本作について書こうとしている。とはいえ、用意していている写真は今日と明日の分までしかない。それで今日と明日で本作についての感想を終えようかと思っている。
駆け足で書いて竜頭蛇尾のような形になってしまうかもしれない。先日読んだ加藤一雄の本に芥川龍之介の文章から引いた言葉「人生は落丁の多い本のようだ」があって、これを読みながら筆者はさすがと唸りながら、そのことを自分の人生やザッパのそれにも当てはめて見る。ザッパが生前発表したアルバムは、全く落丁の本そのもので、その落ちている部分をファンは海賊盤を買って埋めようとし続けた。その一方、ザッパ没後にテープ収蔵庫がすべて調査され、その全貌が明らかになるとともに本作のような新譜が続々と発表され続けている。テープ収蔵庫の全体が公にされるとザッパの落丁の多い人生がそうではなくなるかと言えば、これは切りがない話だ。誰もが他人の全人生をそっくり辿ることは出来ない相談で、ザッパの全録音を聴いたところでザッパの全貌がわかることはあり得ない。曲以外に重要なことがあり、それは書かれていない場合も多いからだ。結局適当なところで満足しておくのがよい。そう思い至れば海賊盤には手を出さないのがよく、それよりもほかの作曲家の音楽を聴いたほうが新たな感動が得られる。そうなると、CD6枚の本作は『ホット・ラッツ』がいかに完成されて行ったかの途中経過報告で、ザッパの思考錯誤の跡はそれなりにわかるとしても、楽曲としては全くの未完成で、それ相応の面白さに留まる。『ホット・ラッツ』を大いに愛し、しかも1万円少々支払い、またたっぷりと時間のある人向きの商品だ。ところが、本作は題名にかかわらず、『ホット・ラッツ』のみに関係していない。同作のためにスタジオでセッションを続けながら、ザッパは同作に6曲のみ収録し、他の曲は別の3つのアルバムに回し、しかももっと後年に仕上がる曲の原型を録音もし、またその後完成されなかった曲も含む。そのことは、いかに69年のザッパが沸騰していたかということと、別のアルバムで発表する際、その各アルバムの個性にそれらの曲を見事に収め得た編集技術や曲の個性の見極めがあったことを示す。そのため、本作は『ホット・ラッツ』を理解するうえでの補助材料に留まらず、同作以後の3作を再考することにも役立つ。これはザッパのアルバムや曲は彼が言う「概念継続」の考えでつながっていることの端的な例で、『ホット・ラッツ』を初めて聴く人は、続いて発売された3作のアルバムを聴くことでザッパの思想がよくわかる。そしてそれら計4作を聴くとそれ以前やその後のアルバムも聴きたくなるはずだが、先入観の強い人や粗雑に聴くことしか出来ない人はお呼びでない。もっとも、筆者はもっと多くの人にザッパのアルバムを聴いてほしいとも思わない。
ザッパの音楽を聴いたことのない人に最初に何を聴かせればいいか。『ホット・ラッツ』はかなりハードで勧めない。昔から筆者は『バーント・ウィーニー・サンドウィッチ』と決めている。詩情が溢れ、ロックに拒否感を示す人でもしみじみと聴ける部分が多いからだ。その代表はLPで言えばA面の最後とB面の最初のピアノ曲だ。これはイアン・アンダーウッドが演奏し、本作ではディスク1の最初に「ピアノ・ミュージック」と題して2曲収められている。1曲目は「セクション1」で2分、2曲目は「セクション3」で6分ある。前者は『バーント……』のB面最初の「エイブ・シー」と同じだが別ヴァージョンだ。2曲目はディスク4の8曲目にザッパのギターを加えたヴァージョンが収録されていて、『バーント……』で発表されたのはその半分弱だ。そのため、ディスク1の2曲目を初めて聴く人は意外な音があることに飛び上がるだろう。端的に言えば、「ピーチズ・エン・レガリア」の主題が含まれている。そのヴァージョンを『バーント……』に収録してもよかったと思うが、やはりLPの収録時間の制限のためであろう。ならば初CD化で『ホット・ラッツ』のようにロング・ヴァージョンを用意してもよかったのにザッパはそうしなかった。そのファンの疑問ないし恨みは本作で晴らされた。『バーント……』と『ホット・ラッツ』の差別化を守るのであれば、本作の「ピーチズ・エン……」の主題を含むヴァージョンは不要であったし、結果的にザッパがそうしたために『ホット・ラッツ』の「ピーチズ・エン……」は一回限りの貴重性をまとうことになった。ただし「概念継続」性からすれば、『バーント……』は他のアルバムとメロディを共有していて、そこに「ピーチズ・エン……」を付加したところでさして問題はなかったので、CD化に際してLPのB面の最後は3分弱ではなく本作の6分近いヴァージョンでもよかった。それはともかく、ザッパにおいてきわめて珍しいリリカルなこの曲に倍近いヴァージョンがあったことは意外で、またザッパが初アルバム化に際していかに一旦仕上げた曲をずたずたに切り取ることを厭わず、それゆえにLP全体がエキスだらけで引き締まったものになったことがわかる。LPは全体で40分程度で、そのやや物足りない長さがちょうどよかったのだろう。それにしても「ピーチズ・エン……」を含む「ピアノ・ミュージック」はザッパの「概念継続」をよく示す例で、もっと他の曲を含んでピアノ組曲を作ることもそう困難ではなかったはずだ。その意味において武田理沙さんがザッパ曲をピアノのみでメドレー演奏することは大いにザッパの思想に沿った行為だ。彼女はザッパ曲の演奏を封印したようだが、本作を聴けばまた考えが変わるのではないか。で、今年の「ザッパニモヲ」にも出演するとか。
本作は『チャンガの復讐』ともつながっている。同作には「20本の短いタバコ」という不思議な香りの2分少々の器楽曲がある。題名どおりにあまりに短いが、一服喫煙するという意味合いでちょうどいいのだろう。このわずか2分の曲をどのようにして仕上げ、また最終的に削ったかが本作で初めてわかった。録音時の題名は「Transition」で、これはブラス・ロック・バンドのシカゴが最初に名乗ったバンド名にも含まれる言葉で「移行」の意味だ。それをたばこ中毒であったザッパは「20本の……」という詩的なものに変えた。題名によって大いに印象が変わるものだが、この曲の場合は特にそれが成功している。本作のディスク3は1から6までは「Transition」で、これら6曲は順に2曲ずつが「セクション」の1から3までと題され、偶数曲が「マスター・テイク」になっていて、ザッパは執拗に同じ主題を何度も演奏させる。イアンのピアノ、ベースはマックス・ベネット、ドラムスはジョン・ゲランの3人による演奏で、『チャンガ』ヴァージョンのような馥郁たる香りはりはない。2が2分半、4が3分、6が2分で、これら3つのセクションの「マスター・テイク」を結合したものにザッパがさまざまなギターを重ねたのがディスク7の「フル・ヴァージョン」だが、『チャンガ』のヴァージョンはその冒頭の2分を切り取ったものだ。つまり作り上げた3分の1しか発表しなかった。これは残りがほぼ主題の繰り返しで、冗漫と判断したからでもあろう。核となる部分のみ提示すればよいとの考えは、それだけ自作に対して厳しかったことを伝える。本当は「ブロッコリーの森の蝦蟇蛙」のように主題の後にソロを考え、実際そのように本作の「セクション2」は機能しているが、そのピアノ・ソロは主題を多少展開し、しかも伴奏的でスリル感に乏しい。「セクション3」は「セクション1」の繰り返しで、これは「ミスター・グリーン・ジーンズの息子」と同じ古典的手法だが、「20本の……」は全体としてソロよりも主題が大半を占め、その主題を繰り返したヴァージョンは時代遅れと思ったのだろう。ここにはジャズっぽい曲に憧れがありつつそれを振り切る意思が見える。落ち着いた余情よりも沸騰した活力の提示であり、前者はわずかでいいと当時のザッパは思っていたに違いない。ザッパの音楽の魅力は、甘美さを否定しないが、それに溺れることを嫌い、弱さを見せないことだ。それでも誰でも落丁の多い人生を送る。可能な限りそうはなりたくないとザッパは思っていたであろう。テープ収蔵庫のすべてを知ってもザッパの音楽家としての人生はやはり落丁が随所にある。それは果たせられなかった夢だが、そのことに思いを馳せながら、自分の人生に落丁が多くなることを避ける生活を送るべきだ。筆者が20代からザッパの音楽を聴き始めて最初に思ったのはそういうことだ。
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