桂に住むシンガーソングライターのEulalie(ユーラリー)に去年夏にザッパのギター曲をひとつ教えた。アルバム『いたち野郎』に入っている「Toads of The Short Forest」で、「ショート・フォレスト」はザッパが言うには「ブロッコリー」とのことだ。
「toad」は「蝦蟇蛙」で、ブロッコリーを大きな木に見立てると蝦蟇蛙は巨大な怪獣になって「ジュラシック・パーク」の世界を表わしているようだが、題名はどこかかわいらしさがあってこのメロディアスな小品によく似合う。だがこのギター・ソロ曲は後半にマザーズの激しいライヴ演奏が継ぎ足され、それが何とも物足りないというか、もっと完成度を高めてほしい気がしたものだ。ザッパにはせっかくの曲を台無しにする編集がしばしばあって、それは過去をあまり懐かしがりたくないからであろう。そんな暇があればどんどん新曲を書いて演奏する。ザッパの音楽家としての人生はそうであった。それはさておき、1994年にイタリアで作られた4枚組CDの解説書つきの海賊盤『Apocrypha』を筆者は当時文通していたドイツのザッパ・ファンから贈ってもらった。そのディスク1の8曲目の後半に「ブロッコリーの森の蝦蟇蛙」の63年の演奏が収録されている。筆者は同海賊盤ではその曲が最も好きだとお礼の言葉に書き添えた。それは今日の2枚目の画像の赤で記した曲で、4曲メドレーの最後に位置し、3分半ほどの長さがある。題名は「Ned Has A Brainstorm」(ネッドは錯乱)で、今はYouTubeでも聴くことが出来る。この初期ヴァージョンの面白さは、『いたち野郎』ヴァージョンと違って主題の後、ザッパのギター・ソロが繰り広げられることだ。しかも主題の3拍子とは違って4拍子になっている。とても明るく、いかにも60年代前半を感じさせるが、この1曲と当時のビートルズを比べると、いかにザッパが複雑でいて明るく親しみやすい個性的なメロディを書いていたかがわかる。豊潤さではビートルズはザッパの比較にならない。それはザッパがロック以外のあらゆる音楽に立脚し、そのうえで個性を重視していたからだ。ところで10年ほど前か、この曲のザッパによる手書きの楽譜がebayで売り出された。いくらで売れたか知らないが、これもネットで画像が現在見られる。面白いことに題名は「Arabesque」となっている。これは「アラビア風」や「唐草模様」も意味するが、ドビュッシーのピアノ曲にも同じ名前がある。筆者はEulalieにその楽譜の画像とともに、『アポクリファ』と『いたち野郎』のふたつの音源を伝えた。楽譜と演奏とにはごくわずかに音符の差があるが、彼女は気に入ったようだ。筆者が彼女にこの曲を教えたのは、歌詞をつけて歌ってもらいたいためでもある。ザッパの器楽曲はその気になればみんな歌えるだろう。
本作が届いて二番目に筆者が聴いたのは「アラベスク」だ。これがディスク1にふたつのヴァージョン、ディスク4と6には1曲ずつ入っている。結論を言うと、ディスク1の2曲はいずれも7分ほどあって、2曲目は「マスター・テイク」となっているが、単調な伴奏のみでザッパのギターはない。カラオケとしてギターを練習するにはいいが、何度も聴くには退屈だ。ザッパは63年には完成させて演奏していたこの曲を69年にいよいよ正式に録音し、アルバムに収録しようとしたが、『ホット・ラッツ』ではなく、『いたち野郎』に回し、また本作のヴァージョンをなぜか気に入らず、主題のみを取り上げて前述のようにマザーズの別のライヴ曲とつなげた。それは音色も雰囲気もまるで違って2曲として分けたほうがいいと思うが、ザッパにとっては完成形だ。また曲名はギターの旋律がどこまでも絡み合って連なる唐草文様としての「アラベスク」から「ブロッコリーの森の蝦蟇蛙」というぎょっとさせる童話的イメージに変えたが、これは『ホット・ラッツ』に収録される「ひものウィリー」が「熊のプーさん」のもじりになっていることに通じていて、ザッパは生まれたばかりの長男ドゥイージルを意識していたのだろう。そこで改めて「ブロッコリーの森の蝦蟇蛙」の題名を考えるに、これは前半の「アラベスク」の主題よりも後半の荒々しいバンドの演奏によく似合っていて、ザッパは「アラベスク」の主題をさして重視していなかったことが想像出来る。実際ザッパはこの愛らしいメロディをその後録音し直さなかった。とてももったいないことで、愛すべき小品が埋もれた形になっていた。『いたち野郎』はそれなりに人気のあるアルバムだが、この「アラベスク」の主題を注視するザッパ・ファンは多くないだろう。それゆえ筆者はEulalieに紹介したが、彼女がこの曲のメロディをステージでうまく弾き、また主題に続いてギター・ソロが演奏出来るかとなれば、難易度が高いかもしれない。話を戻して、本作のディスク4と6のヴァージョンは同じく7分ほどで、後者はザッパのギターのみ、前者はそのギターをディスク1の「マスター・テイク」に重ねている。そしてディスク4のヴァージョンの前半が『いたち野郎』に使用されたが、後半は今回初めて公にされ、筆者はこれを聴いてほとんど腰を抜かし、聴きながら頭が蛆虫だらけになって湧いて来る気がし続けた。なるほどザッパは63年の演奏で「ネッドは錯乱」と題した意味がわかる。脳が涌く思いは、気味悪いからという理由からだけではなく、その気味悪さがそのまま快感に転移してのことだ。筆者はもちろん麻薬の経験がないが、麻薬を服用すればきっとこういう感じに違いないという極端な気持ちよさはたまに訪れる。それは予期せぬ時にあって、しばし恍惚感に浸れるのだが、やがてそれはすっと消えて行く。
その恍惚感が本作のディスク6の「アラベスク」の後半が始まった途端、筆者に訪れ、数分の間、脳に無数の蛆虫が蠢く様子を見続けたが、この曲は精神を錯乱させる作用があると見える。その理由は、前半はカリフォルニアの明るさを感じさせるメロディであるのに、後半のソロに入った途端、同じ3拍子ながら、いきなりダウンな雰囲気に変じ、しみじみとした調子で3本のアコースティック・ギターのソロが延々と絡み合って行くからだ。その味わいは『アンクル・ミート』のギター曲「工場汚染の9タイプ」とよく似ていて、ザッパは暗いイメージを念頭にしていたのであろう。それは前半の「アラベスク」のかわいらしさが一気に否定されたように聴き手に思わせるに充分で、ザッパは結局後半のその複雑な編み物のようなソロを捨てて、前半のみを『いたち野郎』に使った。そして題名は後半を形容するにふさわしいように「ブロッコリー……」としたが、それがザッパにとって「アラベスク」のあり得るべき形となったところに、本作の直後のザッパの前向きな態度が表われている。つまり本作のヴァージョンを使うと、「工場汚染の9タイプ」との関連から『いたち野郎』は『アンクル・ミート』の香りを残すものとなった。二番煎じを拒否するザッパであるゆえ、せっかくの本作のヴァージョンは蔵入りとされたが、半世紀ぶりに陽の目を見て筆者は狂喜している。63年のヴァージョンは主題の後も元気いっぱいのソロを展開するが、拍子を変えねばならなかった理由がよくわからず、またその一種の不調和性から『いたち野郎』では主題のみの使用となったと思っていた。実際は同じ3拍子で、しかも同時進行の3つのソロがアラベスクのように織り成す構成で、これは16トラックが使えたことによるアイデアでもあろう。今日の3枚目の画像は本作のブックレットにあるマスター・テープの箱に入っていたザッパの手書きメモで、「アラベスク」は3トラック分を使用せず、またザッパのギターは「String Guitar」「Bo Guitar」「Direct Guitar WahWah」と表記されている。二番目のギターがどういうものか筆者は知らないが、音色の違うものを3本絡ませるところにカラフルな織物への意識が伝わる。筆者はまだ本作の「アラベスク」をEulalieに聴かせていないが、彼女はどう思うだろう。ギタリストが3人いれば再現出来るが、そう言えば筆者は10日ほど前、ジョン・マクラフリンがジャズ・ピアニストのビル・エヴァンスの曲をカヴァーした昔のアルバムを思い出し、盛んに口ずさんでいた。そのアルバムはジョン以外のギタリストたちのギター伴奏が絡み、ギター好きには応えられない音色を響かせていた。最後に書いておくと、本作の「アラベスク」後半は、その後ザッパは「スリープ・ダート」で全く別な形つまり伴奏つきのギター・ソロとして生まれ変わると言ってよい。
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