詩情が最も溢れていたザッパは69年と言ってよい。本作は『ホット・ラッツ』に収録される6曲がどのように出来上がっていたかを伝えるいわゆる「メイキング」アルバムの側面が強いが、正直なところ、一度聴けば充分というトラックも多い。
そのため、CD6枚は半分でよかったかもしれない。ディスク5の大半は87年にザッパが新たにミキシングを施し、初CD化されたものと同じ内容で、現在そのCDは販売されていないが、古いザッパ・ファンは周知のものだ。そこで現行の『ホット・ラッツ』をザッパが69年に完成させた究極の形としてまず認め、本作はその素材集であって、まとまり感はきわめて乏しいと言うべきであろう。ところが随所に意外な発見があり、「最初はこうだったのか」という驚きを与えてくれる。それは本作を20歳ほどで聴き、非情に興奮して周囲の者にそのよさを吹聴していた頃から今になってようやく知ったことだ。同様の感嘆は人生にはめったにない。長生きしたことで得られた機会で、正直な話、筆者は聴きながら静かに涙を流している。この愉悦を何にたとえていいかわからない。自分が一気に20歳の若さになったかのような気分かと言えば、そうではない。筆者はいつでも20歳の気分になれる。老いを実感しないのは、ひとつにはザッパの音楽を聴き続けているからと言えるし、当時興味を抱いた本や音楽から関連したことに関心を抱き続けて来ているからだ。それで、『ホット・ラッツ』を初めて聴いて半世紀近く経って、筆者の疑問がひとつ解けた。今日はそのことについて書く。本作が届いてすぐに筆者は『ホット・ラッツ』で最も好きな曲「グリーン・ジーンズの息子」(以下、息子)の別ヴァージョンを聴いた。それが本作に4曲入っている。ここでまず断っておくと、ディスク1から4までは「ホット・ラッツ・セッション」、ディスク5,6は「テープ収蔵庫から」とそれぞれ題されている。前者は7月18、28、29、30日にハリウッドのT.T.G.スタジオで録音された『ホット・ラッツ』のベーシック・トラックが順に入っていて、ディスク4の後半4曲は8月のサンセット・サウンド・スタジオでのオーヴァーダビングとなっている。ディスク5,6は日付がわからず、大半はミキシングが異なるヴァージョンだ。それでディスク1から4までがT.T.G.スタジオでの全録音かと言えば、それはあり得ないだろう。まだ多くのヴァージョンがあるか、あるいはあったがザッパ自身がテープを再使用して消したと思われる。どちらの可能性もあるのではないか。それは先に一度聴けば充分と書いた曲と、もっと別ヴァージョンを聴きたいと思わせる曲があるからで、「息子」は後者に該当する。ディスク4にその「テイク1」と「マスター・テイク」が並んで入っているが、「テイク1」からいきなり「マスター」はない。その間にいくつものヴァージョンがあるはずだ。
「マスター」のギター・ソロはもちろん『ホット・ラッツ』ヴァージョンとなったが、長年違和感があった編集箇所が判明した。これだけでも本作を買った価値を充分回収した。「マスター」はコーダを除けば、ブルースを基礎にした16小節が15回繰り返される。最初の2回と最後の1回は主題の演奏で、残り13回でザッパはソロを華麗に繰り広げる。これほど見事で快活な演奏はザッパにおいてもそう多くなかった。見事の見本のような完成度で、これが楽譜に書いたものを繰り返し練習したのか、それとも全編即興であるのか、今も筆者にはよくわからないが、「テイク1」と通じるフレーズは多いので、16小節を単位として、全編をどのように起伏づけて演奏するかの道筋は、前もって楽譜に書くか、頭で覚えるかして練習したであろう。ミスのない演奏のため、テープ編集があちこちあるのではないかと思いつつ、全体の勢いがとても自然で、明確にテープ編集とわかる箇所以外は一気に演奏したとしか考えられないと思い直したものだ。『ホット・ラッツ』ヴァージョンは16小節が13回分で、「マスター」のうち2回分のソロが削られている。削除箇所は最初の2回の主題の後、最初の回のソロの後半6小節と、2回目の前半6小節、そして最後の主題の直前つまりソロとしては13回目を丸ごとカットした。そのことによって勢いがあり過ぎる演奏になった。コンピュータ的と言ってもよいが、コンピュータと違うのは、しばしばザッパが前のめりになって伴奏が追いつくのに必死になっている箇所が目立つことだ。ザッパのこの牽引具合はそれこそ熱いネズミの叫び声のようで、この曲のその醍醐味を深く味わった者はもうほかのギタリストの演奏が生ぬるく感じるだろう。話を戻して、『ホット・ラッツ』ヴァージョンが「マスター」のほとんど最初と、そして最後のソロを16小節ずつカットしたのは、収録時間に制限のあるLPに収めるためには必要な措置であったことと、一種の落ち着きつまりジャズ的要素を排除しようとしたためであろう。この場合のジャズ的要素とはいい意味での陰影のある情緒という意味で、それはそれで当時ザッパは大いに表現しようと思っていたが、「息子」は勢いを主題とする曲で、そのギター・ソロはロックの激しさとその音色を旨としたかった。筆者は「マスター」を聴きながら、ザッパが削った2回分の16節は、ミスとは言えないものの、最初の回はやや勢いを落とした躓きが一瞬感じられ、それはそれで人間味があってよいと思う。それがあることによってその後の立ち直りが素晴らしく、また全くミスらしき箇所のないまま最後に至るが、この猛烈な弾きまくりはどれほどの練習を積んだ賜物かと、その技術重視の態度にただただ感心する。ギタリストを目指す者、29歳前後でこのような創造をすべしで、その自信のない者は音楽の道を断念したほうがよい。
16小節単位でどのような技術をカラフルに披露し、そしてそれを13回繰り返すことは、編物と同じようでながら、単調なモチーフ編みの連続形でなく、起承転結の変化に富む劇的な絵画だ。「テイク1」は「マスター」より2分ほど短く、またザッパのギター・ソロは「マスター」に劣らない勢いがあるが、どこか粗削りで整理が行き届いていない。「テイク1」から「マスター」にどう到達したのか、そのすべてのヴァージョンを聴きたいが、10分程度の曲であるので1時間あれば4、5回は演奏出来る。あるいは休憩中に16小節単位で分断的な練習を重ね、ひょっとすれば「テイク1」のようなまとまったヴァージョンはほかにないかもしれない。ともかく「マスター」が「テイク1」と同じ7月30日に得られた。これは奇跡で、そういうことは練習を猛烈に重ねる者には時として訪れる。ザッパは「マスター」を多くの楽器で彩ることをもくろみ、「マスター」でピアノを奏でていたイアン・アンダーウッドにサックスやオルガンをオーヴァーダブさせた。16トラック録音であるので、トラックは存分に使える。かくて多くの楽器で色づけされた「息子」はジャズ的でありながら、ギター協奏曲と言ってよいものに仕上がった。ディスク6には「1969 ミックス・アウトテイク」と「1969 リズム・トラック・ミックス」のヴァージョンがあって、どちらもギター・ソロは「マスター」と同じで、特に「リズム・トラック・ミックス」はほとんど全体が「マスター」と大差なく、本作に収録する必要はほとんどなかった。これを収録するのであれば「テイク2」や「3」がほしかったが、それがないのはやはりザッパ自身がテープを残さなかったためか。「ミックス・アウトテイク」はイアンの管楽器やキーボードが鮮明に響き、『ホット・ラッツ』ヴァージョンに近いが、ザッパはその大きな空間の広がり感を思い直し、ギターの音色を図太く目立たせたヴァージョンを発表した。そして87年の初CD化の際、また見直して新たなミキシングをした。その結果、イアンの存在がクローズアップされ、ザッパのギターはあちこちでかなり控え目になったが、これは16トラックに含まれる微妙な音を拾い出し、全体として交響性を強調しようとしたためだ。筆者はどのヴァージョンが最も好きかと自問すると、87年だが、ギターが時に小さくなることに不満があり、16トラックを16のスピーカーで鳴らして自分でミキシングしたい。その夢はいつか実現するだろう。それは筆者が死んだ後のことだ。それで耳を澄まして頭の中でその理想の音を組み立ててみる。それでも充分愉悦が味わえ、またこの半世紀近い人生がほとんど一瞬であったと感じながら、「息子」の素晴らしさをまた周囲に吹聴したくなるが、幸いネットによって筆者の思いはひとまず公になる。まことに生きていて楽しい。
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