血判で誓いを立ててもその場限りになる人はある。素人が寒中で一時の修行をすることを永井荷風は嘲笑していたが、我慢比べならたとえばサウナ室の中で熱いうどんを食べることも同じであるからだ。
衆人が注目する中で痩せ我慢を誇示しても、それがほんのわずかな時間である場合はただの「ええかっこしい」で、誰も注目していない中で黙々と作業することが本物だと荷風は言いたかったのかもしれない。そう言えば荷風の全集が去年11月10日に大谷大学に行った際の古書売り場でわずか100円で売られていた。持ち帰るのは家内とふたりでも無理で、また発送はしてもらえそうになかったので買わなかったが、たいていそういう時は後悔する。それはともかく、昨日の天龍寺での節分会は、毎年地元小、中学生による絵画と書の作品が展示される。これがまた楽しみで、先生の指導のほどがうかがえるが、今年は絵画は少なく、また低調であった。それで書の作品だけ写真に撮り、「不言実行」に続いて「新たな目標」の文字が永遠に続くかのような角度で捉えた。筆者は「不言実行」についてはなかなか実行出来ていないが、「新たな目標」は次々に涌いて来る。これがなくなると死に頃であろう。今日は大阪から来客があり、丸7時間も話をし、「新たな目標」が出来た。「目標」というより「仕事」だが、筆者にすれば同じことだ。節分に「新たな仕事」の依頼があるのはめでたい。家内は去年12月に3階を大掃除、大整理したおかげと言う。確かにそうであろう。毎日新しい太陽が昇ることは、毎日新たな覚悟が出来ることで、毎日いつでも人は生まれ変わり得る。寒行の必要はなく、黙って心に決めて動けばよい。勤め人は会社に強いられるので、嫌であっても動かねばならないが、筆者のように自由業であれば、何もしたくないのであればそれも勝手で、「不言実行」も「新たな目標」も強く意識しなければ非現実となりかねない。それでなおのこと筆者はこの二語に目を吸い寄せられるが、この言葉を心を込めてきれいに書く生徒たちは、あまりに月並みな標語であると思ってめったに意識しないだろう。誰しも「新たな目標」を立てて「有言実行」しても、三日で終わってしまうことを人生で何度も経験する。それが格好悪いので「不言」することに決めたとして、「実行」はやはり難しく、「新たな目標」は次のそれに移る。その繰り返しが「見果てぬ夢」と言えば、あまりにおめでたいが、人間とはそのようなもので、気づけば残された時間は少ない。そう思うのでこの「不言実行」と「新たな目標」の書については、昨日とは違って別の投稿にしようと、撮影しながら思った。新たな注文仕事とは別に筆者は密かに考えていることがあるが、それがどういう形で落ち着くかは今のところよくわからない。そういう目標がいくつも澱のように心に溜まってまた新たな目標が芽生えるが、「不言不行」を「夢想」と言う。
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