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●『下村良之介 遊び礼賛』
遜することはめったになく、評価されて当然と思っているふてぶてしい人のほうが世間では注目されやすい。つまり、成功しやすい。かなり昔のことだが、DJの若宮さんは、有名芸能人はさすがに自分の名前の看板を背負っているだけあって、その貫禄のオーラが違うと言った。



その後20年ほど経って、難波のとある喫茶店で当時有名であった漫才師を見かけた。最近その漫才師は死んだが、笑顔のその人が喫茶店内の誰よりも大物に輝いて見えたことに驚いた。最も活躍している頃は気力が充実し、そのことが外見にも現われるのだろう。これは有名人でなくても同じだ。カフカの『断食芸人』ではそれを思わせることが書かれる。檻の中で断食を続ける芸人は、ついに記録を塗り替え、やがて空腹のために死ぬが、死体が運び出された後は豹だったか、若い猛獣が檻に入れられ、見物客はその精悍さに注目する。筆者は18,9歳でその小説を読み、人目に姿を晒すことを商売にしている人の悲哀の比喩としてよく思い出す。人々が芸人に喝采を送るのはごくわずかな期間で、代わりはいくらでも待っている。芸人でなくても誰もがそうだ。檻の中に入れられた豹は、人間で言えば20歳そこそこの若い象徴だ。誰でもそういう輝かしい時期がある。そのことは言うまでもなく、花を見て数歳の子どもでも知っている。ところで、芸能人と違って芸術家は自分の姿を売りにするのではなく、作品が勝負だ。若冲は自画像を描かず、また同時代に他の画家がその風貌を描かなかったので、その顔や雰囲気は絵画から想像するしかないが、そのことに却ってロマンがある。筆者は男の顔には厳しく、めったに好きな顔はない。謙遜する必要はないにしても、『どうだ、オレの恰好よさは!』と自惚れている男の顔は、とても見られたものではない。ところが、世の中はそういう男に群がる女が大勢いる。男女ともにまずは見栄えが勝負で、その見栄えから内面が判断される。キャバレーに男数人で行くと、ホステスは必ず最も金のある男を即座に見つけると聞いたことがあるが、それは評価されて当然という金満ぶりを身なりに関係なく発散しているからだ。とはいえ、男女は似た者同士は惹かれ合うので、自分に自信のない男も必ずどこかにふさわしい女がいるだろう。似た者同士のカップルで思い出すのは、1980年代の終わり頃、京都の平安画廊の個展で見かけた下村良之介夫妻だ。画廊主の中島さんは、多くの美術家を見て来たが、最も畏怖したのは下村良之介で、彼が扉を開けて画廊に入って来る瞬間、心がピーンと張り詰めたものだと語っていた。彼女が亡くなる1,2年前のことで、下村が死んで8年ほど経った頃だ。筆者が平安画廊に通い始めた80年代半ば以降、下村は銅版画の個展を同画廊で何度か開いた。筆者が見たのは2,3回で、曙や小錦など、関取を画題にした作品はよく覚えているので、90年代初頭であろうか。
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 それはともかく、良之介の隣りに同じような厳しい顔つきの奧さんがいて、画廊内は確かに張り詰めた空気が漂っていた。そのことを今でもたまに思い出すのは、筆者の家内は貫録という言葉がほど遠い代表であるからで、似た者同士で言えば筆者は全く貫録のないうすっぺらい人間であることを自覚する。そういう人間が下村良之介のことをあれこれ書く資格はないことをよくよく自覚しているが、先月23日、神戸にショパン展を見に行く途中、国道2号線をわたる少し手前にあるBBプラザ・ビルの1階に下村の展覧会が開催中で、しかも当日は無料であることを記すポスターに気づき、これは儲けものとばかりに館内に入った。筆者は下村の1989年3月の守口の百貨店での展覧会図録と、分厚い画集を持っている。どちらも古本で買ったものだ。前者は下村が66歳の時のもので、今手元で広げているが、BBプラザでの本展とは出品作が半分ほどは違うのではないか。それでもおおよそは下村の多彩な仕事はわかる。多彩を捉えどころのなさと言い換えてもいい。家内は本展を見た後、正直な感想として、「あまり好きではない」と言った。それはよくわかる。女や子どもに歓迎されるわかりやすい作品ではないからだ。京都で活躍する画家はだいたい優美な画風でなければ女性に喜ばれず、したがって人気は今ひとつという状況になるが、そういう作品の代表は今はアニメであろう。それにアイドルの歌を含めてもよい。そういう甘過ぎる味わいは女や子どもを相手にしなければ売れないことを知っての、策略を厭わない連中が商売としてやることで、芸術とは無関係だ。そこでまた下村の奧さんの苦味走った表情を思い出すと、彼女は夫の最大の理解者で、世間的な女では全くなかったことになるが、男女は似た者同士が一緒になるのであって、下村の作品は奧さんの表情がすべてを物語っていたように思う。もちろんそれはとっつきにくさであり、中島さんが畏怖したものもよくわかる。筆者が下村の名前を知ったのは20代後半に市民アトリエで銅版画を少し学び始めた時、数歳年長の美術通から下村がパンリアルと言う前衛の団体の一員であることを聞いたからで、その頃にもう下村は銅版画をやっていて、平安画廊で個展を毎年開いていたと思う。画家が銅版画に手を染めることは珍しくないが、下村はプレス機を購入し、3か月ほどで個展用の作品を自分で刷ったことを本展で知った。銅版画はドライポイントのように勢いで版を作ってしまえる技法もあるが、下村は腐食技法でしかも多色であるから、ていねいさと根気が必要だ。それは工芸では欠かせぬもので、手先の器用さはまず前提となる。言い換えれば繊細さがなければならないが、版を作った後の摺りも大変で、画布に絵を描くこととはまるで違う。下村の捉えどころのなさは絵以外のことに関心を示し、またその絵も抽象から写実まであることだ。
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 下村は大阪出身で、父が能楽師であったという。画家を目指した理由は知らないが、芸術への道へ進んだのは血筋でもあった。また京都市立絵画専門学校に入るが、この学校は先に設立された美術工芸学校とは兄弟関係にあって、下村は学生時代に京都の工芸家の卵と交友出来る立場にあった。これが下村のその後の多彩な作家活動の原点になっているはずで、下村は京都ならでの代表的作家と言ってよい。それは工芸にも手を染め、また絵画もきわめて工芸的であるという意味においてだが、前衛を標榜したパンリアルの他の画家もそうであったかどうかは筆者は知らない。ただし、下村が工芸をひとつの強みとして自分の作品に使ったことは、絵画を豊かにしたと言えるだろう。それは西欧美術にない技法や眼差しを持ち込むことが出来たからだが、これは逆に言えば下村の「日本画」は、日本の独特な、つまり欧米とは異なる近代性すなわち地方性を持ったことを意味し、そのことが世界の美術の文脈で見た場合、どれほど高く評価されるものかどうかという疑問を呈している。前述した銅版画教室でかつて話した美術通は、日本独自の技法で作ったたとえば工芸作品は、世界に例がなければそれは世界を代表するものと言った。その時の会話を筆者はとても鮮明に記憶しているが、彼の意見は筆者が染色の友禅染作家を知ってのことの一種の鼓舞で、筆者は面映ゆい思いをしたものだが、世界に例がない作品を作っても、一地方の日本でしかも京都の工芸のさらに小さな友禅染でいかに斬新な技法と感覚で作品を作ったところで、世界中が注目するはずがないことを当時の筆者はよく自覚していたし、それは今も変わらない。そしてそこに下村の前衛的絵画を持ち出すと、それは日本画では前衛であったとしても、世界の前衛の潮流から見ればほとんど前衛になっていないことを思う。いや、前衛ではあったかもしれないが、評価されないものと言い換えたほうがよい。ここで思うのはアレシンスキーだ。彼は下村より4歳年下で、1955年に来日して当時の墨象の作家と交流している。また去年は日本で世界文化賞を受賞したが、アレシンスキーの絵画の技法は日本の染色とも関係が深く、またその画風も表徴的なもので、ある意味では下村の作と似ている。ただし、器用さや作品のていねいさに関しては下村は比較にならないほど格上で、アレシンスキーは何度生まれ変わっても下村のような指先を感じさせる作品は作り得ない。あるいはそのことが世界的に見れば下村の欠点かもしれない。つまりあまりに工芸的であることが作品の弱さと思われかねない。アレシンスキーの作品は即興的、大胆、大画面が特質で、また絵面は記号的であるので印象深い。忙しい現代では、細部を凝視して味わう作品はあまり歓迎されず、勢いがわかればそれでよしとされがちで、その意味でアレシンスキーのいわば大雑把な作品の仕上げは時代にかなっている。
 年齢差がわずか4歳、そして活動の拠点がフランスと日本というだけで、アレシンスキーは世界的に有名になり、下村は今は目立たないBBプラザで展覧会が開催される。この差は作品の質の差というより、フランスが世界の美術をリードして来ている伝統の強さの差だ。日本でどうあがいても世界的な画家と目されないかと言えば、これは海外で制作すれば事情が変わって来るだろう。その点、下村は日本画における前衛を目指し、また銅版画や陶芸にも食指を動かした。この多様な才能はたとえばピカソにもあったし、下村はピカソを意識したであろうが、あまりに日本的、京都的であったために、世界からは認められず、また京都の伝統からも浮いた。ただし、陶芸で走泥社があったように、日本画でパンリアル、下村がいたという捉え方は今後もされ続けるはずで、それは京都では前衛も伝統のうちであったとみなされるに違いない。ただし、それがいいことなのかどうかはまた別問題で、下村の作品が他の画家の新たな前衛につながることはないだろう。その意味で下村の前衛は伝統芸になり得ず、全く新たな前衛的日本画を今後も輩出するだけのことではないか。そう思わせるのは、下村自身が自分の画風や画題をどんどん変化させて行ったからで、またその意味で下村は前衛であり続けたが、前衛の言葉から誰しも思う抽象性を放棄した写実的な自画像を見ると、ピカソのような思想の一貫性はなく、小手先で器用に思いつくまま好き勝手に制作し続けた一種の好事家を思ってしまう。その態度はあるいは光悦に見られたものと言ってよく、その意味で下村はやはりきわめて京都的な作家であったことになるが、光悦と大きく異なるのは、下村に濃厚な諧謔味だ。これは特に舞妓を描いた絵や銅版画に濃厚で、これまで京都の日本画家が描かなかった滑稽さ、グロテスクさが表現されている。これは女子どもを相手にした京都らしい日本画を否定する思いがあったからだが、理想化を否定したためと言ってもよい。舞妓の全員が男なら誰が見ても美しい女であるはずがなく、時に正視するに堪えない醜悪さを露呈している場合があることは誰しも想像出来る。そこを客の男たちは目をつむり、舞妓を美の象徴として脳裏で修正して見つめるのだが、下村は時代遅れと言ってよい京都の伝統のひとつである舞妓を前衛的眼差しで見つめ直したかったのだろう。先にグロテスクと書いたが、言葉を変えれば、下村が描く舞妓のおどけた表情には却って親近感があり、決して否定的に見ていなかったことがわかる。それは人間的共感と言えばいいが、下村は舞妓というその独特の衣裳と化粧の女が画題として面白いと思ったのだ。そこには美に対する強い関心がある。これは画家としてあたりまえで、下村は美しいものに、そして真実味のあるものを好み、求め続けた。
●『下村良之介 遊び礼賛』_d0053294_01155252.jpg 本展で最初に展示されていたのは、チラシ裏面の右上に印刷される1946年の「作業員さん」だ。23歳の作で、まだ学生であった。絵具が不足している頃で、陶芸科の学生からもらって来た粘度を使ったと説明パネルにあった。とにかく描きたくてたまらないという欲求があっての作で、この真正面から描かれた老人の姿に下村は真実性を感じたのであろう。その後下村は似たような人物像をチラシ裏面の左上二番目の「還暦の自画像」で描くが、前述した展覧会図録では参考図版として1942年に「暖日」という、木工職人を描いた作があって、またその男性の姿は下村の自画像かと思わせるほどに作業に没頭している。その手作業の姿を描きたくなったところに下村の後年の工芸的絵画への傾斜が見られる気がするが、繰り返せばそれは美術工芸学校の生徒たちが周囲にたくさんいたからでもあろう。「還暦の自画像」は1983年だが、同じサイズの二曲屏風の自画像として本展には「1975年大晦日午後10時12分の自画像」が出品された。今思い出したが、筆者はこれらの自画像をどこかの展覧会で見たことがある。前掲の図録にはもう1点同工異曲の自画像「1982年正月2日の自画像」の図版が載っていて、この作品の右上には舞妓の横顔を描いた銅版画がかかっている。これら3点の自画像は、下村が本や民族仮面など、いかに細々としたものに囲まれて生活していたを示すが、細密画としての描き込みと真正面から自分の眼差しを描くその自負心に誰もがたじろぐだろう。自分の名前を背負っている堂々たるオーラと言えばいいか、筆者はとてもこういう自画像を描く勇気がない。そこで筆者は、下村は現在を生きる若者であればシンガーソングライターになったのではないかと、多少意地悪く思うほどだが、これは自己愛が強いという意味だ。表現者はみなそれがあると思うが、下村の場合、誰にも負けない写実的技法を誇示したい思いがあった。そのことは如実に作品から伝わる。またそれは絵のわからない人から、ぱっと見てもとても美しいとは思えない前衛的な絵画ばかり描いていると言われていることを意識しての、そして彼らを驚かせるに足る写実的な絵画を見せてやろうという思いの産物でもあったろう。とはいえ、これら3点の大がかりな自画像は、下村の作品群では孤立していて、下村の多芸多才さを示すことに役立っている一方で、どこへ向かうことが理想なのか、迷路の中で逡巡している様子も見えそうだ。「還暦の自画像」は自身の周囲にいわばガラクタを並べ尽くす。その1個ずつに意味があるはずだが、絵を見る者にとっては単なる埋め草に見えかねない。それは描くことを楽しみとした暇潰し、つまり遊びであることを宣言している。遊びであるから七難しい理屈は不要で、還暦にしたがった赤い衣服に倣って画面を赤でまとめることに意識を集中している。
 さて、本展を企画したのはどこかと思っていると、チラシ裏面下に「鶏鍋を囲む会「父 下村良之介を語る」と題する会合が参加費1万円、15名限定で神戸吉兆で開催される旨が印刷される。講師は下村の次女夫妻で、「下村陽三」と「下村直美」の名前がある。父の作品と名声を家族が保って行こうとするのは美しい。そういう家族に恵まれない作家は忘却されることも早いと思うが、15名とはえらく小さな会合で、下村の現在の人気を物語っているようだ。本展の作品は大半を遺族が所蔵するのだろう。生前下村は中学校の美術の先生をしていたが、絵画作品はよく売れたのであろうか。前衛的な抽象画となると、またパンリアルでは大画面の出品作が中心であったから、個人が購入することはあまりなかったのではないか。「鶏鍋」は下村がよく鳥を画題にしたからで、また若冲のように軍鶏を描いた作品もあるからだが、下村は鳥の姿そのものよりも、鳥が飛び立つ時の気配、気迫を絵画することが目的であったと説明パネルにあった。これは武士の刀や、禅を思わせる言葉で、またそれゆえに下村の作品は女子どもにはあまり歓迎されないものと言ってよい。前述の3点の自画像にしても、下村の眼差しは鑑賞者を睨みつけていて、よほどの意識の強い人でなければ長時間見つめていたいものではない。それを同じ雰囲気が鳥を描く作品にもある。下村の鳥を描く絵画もさまざまだが、和紙をたくさん使ってレリーフのように表面を盛り上げた技法のものが有名で、これは本展でその道具が展示されていて、いくつかのいわゆる版を使って柔らかい和紙に刻印した。それは陶芸ではよくある技法で、ここからも下村の作品が工芸と隣接していることがわかる。大小の円や複雑な曲線でそうして盛り上げ表現された飛翔する鳥は、京都の伝統的な花鳥風月としての鳥の図とはまるで違って、鳥の骨格標本を貼りつけたように見える。それが鳥の気迫と言えば確かにそう見えないこともないが、髑髏図のようにグロテスクで殺伐としていると見る人は多いだろう。だが、明治以前の絵画に髑髏図があるからには、骨格のような鳥の図も伝統の延長にあると言えるし、またたとえば下村のそうした鳥の図は、ギーガーがデザインしたエイリアンの先駆と言ってもよい。その意味で下村は欧米の流行を造形的に先取りしていたが、今後も下村の作品は日本画という文脈で作品は見られ、論じられるだろう。最後に書いておくと、下村の関取を画題にした銅版画は、全員本人より男前で、理想化されていたと記憶する。相撲好きは珍しくないが、下村の場合、関取は一瞬の勝負に賭けることを、自作の鳥を描く気迫性と通じると思っていたのだろう。相撲の勝負は一瞬だが、下村の作品は念入りに長時館を要して作られた一種の工芸品で、今後も京都の芸術を考えるうえで重要な問題とそのひとつの解決を提示している。
by uuuzen | 2019-12-16 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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