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●「SONG OF PEARLFISHER」
先週、町内の人が亡くなって通夜に行った。その時、御婦人はみな喪服に白の真珠の首飾りをつけていた。それを見た家内が、「わたしだけ持ってへんから買ってよ」と笑いながら言った。



●「SONG OF PEARLFISHER」_d0053294_292427.jpgそう言えば大人として必要なそんな持ち物さえ買ってやったことがないことを改めて思った。50半ばになってもう人生の勝負がとっくについた年齢であるから今さらどうしようもないが、何とも情けない話ではある。「家内」と書いているが、実は一緒に暮らすようになってずっと外に出て働いてもらっているので、実際は「家の外」だ。まるで、これでは鬼か。いやいや、家内をずっと働かせて、鬼はこっちだ。外に出ねばならないか。で、一昨日は2日がかりでまとめた所得税の申告のために、小雨の中を税務署に行った。何年も前にある担当者が呆れて、「これなら申告しなくてもいいですよ」と言ったことがある。『生活保護にでもかかりなさい』とその後に言葉が継がれるはずであったと思う。それでも今回はわずかだが税金を払った。そうなると、一気に国民健康保健の毎月の支払いが8、9倍になる。これは全くと言ってよいほど病院に行かない筆者にとってはかなり痛いが、ま、仕方がない。さて、昨日書いた『ポリネシア文化の誕生と成熟』における展示のパネル写真の1枚に、体格のいい男性が上半身裸で背を見せながら遠浅の沖を眺めているものがあった。これにははっとした。文句なしに美しいと感じた。茶色に焼けて引き締まった肌と、海や空の色との対比が見事で、一瞬「楽園」の言葉を思った。そんなところで暮らすのもきっとそれなりに大変なことのはずだが、それでもその美しい景色を毎日眺められるだけでも幸福ではないだろうか。筆者は大阪の下町に生まれたため、季節の花を町中で見ることがほとんど出来ず、花と言えば、登下校時に街路に植わっていたアジサイしか記憶にない。それは雨に濡れて本当にきれいだった。
 ポリネシアの島々でも昔は王様がいて家臣がいて、そして庶民がいたが、大きな真珠貝を採るのは普通の人々の役目だったろう。昨日書いた葬送の儀式用の仮面と衣裳には大きな真珠貝がそのまま何個も使用されていて、これは実物を見ると、その七色のぎらりとした光沢に圧倒される。いくら南洋でもこのような大きな真珠貝は珍しいのではないだろうか。たぶん収穫するのも危険を伴うことも多々あることだろう。そんな価値あるものでないならば、特別の衣裳に目立った形で使用されるはずがない。小学校の修学旅行では伊勢に行ってミキモトの真珠工場を見学した。そこでもこのような大きな養殖貝はなかったと思う。また、大阪の道頓堀川が泥だらけで、それを少しでも浄化しようと真珠の養殖が試みられているが、この一石二鳥のアイデアは小規模ながらも成功しているようだ。淡水の真珠貝は海の真珠貝の10倍近い種類があったはずだが、養殖でどんどん作れるのではもはや真珠に神秘性はない。話は脱線するが、筆者は真珠は大粒の黒が好きだ。しかも異形のものがよい。そうしたもので作った首飾りを何年か前に戯れに宝石店で見せてもらったことがある。数十万円だったが、『何だ、その程度か』とその時は思った。万年金欠病のくせに気持ちだけは大きい。これも病気か。黒のバロック真珠の首飾りは喪の席には使用出来ないが、今では自在に真珠に着色出来るのではないだろうか。そう思うと黒真珠も何だか値打ちがない。真珠は貝にとっては一種の癌のような病気の産物であるので、養殖真珠は残酷な仕打ちだ。これは小学校の修学旅行でミキモトに行く前からそう感じていた。天然の真珠がめったに見られないとすると、たまたま食用にする貝を採っている中で見つけられるものであって、よくはわからないが、真珠採り専門に従事する人はいなかったのではないかと思ったりもする。
 今日採り上げる「真珠とり」というタンゴの名曲を聞き覚えたのは8歳になるかならない頃だ。1959年にシングル盤が発売されたから、すぐにラジオで鳴ったとしてそういう計算が出来るし、筆者の記憶でもそうだ。昔はヒット曲の息は長かった。今のように数か月で消え去る曲もあったが、名曲となると何年にもわたってラジオから流れた。この曲もそうした部類に入る。話せば長くなるのでどうようかとここで迷うが、書いてみよう。そうそう、こうして毎日書くのは、半分以上はアドリブだ。書き進みながら思い出すことがあって、それを挟んで行く。したがって、次に何を書くか自分でもわからないところがあって、ちょうどこれは眠っている間に見る夢と共通する。話を戻して、この曲を中学1年生の時、ある雨の降る日の下校途中で聴いたことがある。ちょうど家内工場の前を通りかかった時にラジオから流れていたのだ。よく知っていた曲なので、なおさら『あ、真珠とりのタンゴだ』と思ったが、ちょうど向こうからひとりの女子中学生がやって来た。筆者は通りの右、彼女は左を歩いている。20メートル先あたりから、それが小学校の1年生から4年生まで同級生であったTであるとわかった。彼女は薬局の娘で、地元ではかなりの金持ちで、母親はPTAでも活躍していた。Tはきれいな顔と服装であったので学校ではよく目立った。お嬢様然としていかにもわがままな感じがあったが、片親育ちの貧乏人の筆者からすれば別世界の人物に思えていた。彼女は柄の悪い地元の中学校に通わず、私立の遠方の女子中学校に進んだ。小学校2年だったろうか、算数の授業で、筆者は割り算の際、たとえば100割る33の時に、答えを「3あまり1」とせずに、「03あまり1」とやった。すると担任の女の先生が、筆者を立たせて、「0はよけいです」と何度か叱責した。ついに筆者は泣き出した。それでも先生の厳しい声は止まらず、筆者はどんどん泣いて顔中がハナ汁でぐじゃぐじゃになった。しかし、ハンカチを持っていなかった。そこで、席が離れていたにもかかわらず、T、そしてもうひとり副委員長の女子が筆者のところまで来て、まっさらなハンカチを手わたしてくれた。そして、ふたりは先生からかばうようにして両脇から筆者の肩を抱くようにして慰めてくれた。ハンカチを使用したかどうか記憶にない。Tはそんな優しいところがあったのだ。だが、好きという感情は全くなかった。そんな感情を抱くには、子ども心ながらに彼女はあまりにも住む世界が違うと思えた。そのTがもっと女性らしくなって、筆者の前方からやって来る。小糠雨が降っていた。すれ違う時、Tはしっかりと筆者の方を向いていたのがわかったが、筆者は知らん顔を通した。Tの薬局は今もある。しかも付近一帯を買い占めて地元では名士になっている。
 クック船長の航海から始まってヨーロッパにおけるオリエンタリズムの流行、そしてそれが形を変えながら戦後にはエキゾチック音楽のブームに連なり、そんな中からクラシック音楽のメロディを異国のリズムに合体させる動きも生じてこの曲も生まれた。同じような試みはたとえばヴェンチャーズにもあって、クラシック音楽はポップスのネタの宝庫だ。その意味でもポップスのプロになるには古典をより知っておいた方がよい。1950年代のマンボやタンゴといったダンス音楽の流行はやがてロックン・ロールに席を譲り、やがて忘れられたも同然になる。だが、筆者の記憶の中には今も強くこうしたタンゴの名曲があれこれと詰まっている。ビートルズが登場してたちまち心酔したが、それ以前に何を聴いていたかを思うと、1950年代後半、つまり筆者が3、4歳の頃からせいぜい10歳までのあれやこれやの流行曲がたくさんある。自分から好んで聴いたのではなく、母が家で内職の傍ら、ラジオをかけっ放しにしていてそばで聴き覚えた。好き嫌いは別で、海馬の中に腰を据えて座っている。そして、やはり、『好き』なのだ。日本で「真珠とり」がヒットして、その後2、3の楽団も演奏していたが、何と言ってもリカルド・サントス楽団のものが真珠のように神秘的で美しい。一方、「真珠貝の唄」の大ヒットがビリー・ボーン楽団にあって、これもいつかブログで取り上げたいが、60年代初頭は真珠ブームがあったとも言えるかもしれない。リカルド・サントスには『ホリデイ・イン・ジャパン』という日本の歌ばかりをタンゴにアレンジした名盤があって、その中の何曲かも60年代には頻繁にラジオで聴いた。今はCDで手軽に、そしてびっくりするほどよい音質で聴くことが出来るが、たまにそれを聴くと涙ポロポロという具合になる。そこで奏でられ、そして感じられる日本はもう今はない。それはいいとして、「真珠とり」がビゼーの同名オペラが原曲だと知ったのは20歳頃のことだ。ビゼーは37歳の若さで世を去ったが、オペラ『真珠採り』の作曲は1863年、25歳の時だ。物語はわかりやすい。未開時代のセイロンが舞台で、レイラという巫女をナディールという漁民と部族の長であるズルガが奪り合う。ナディールとズルガはかつて尼僧のレイラのことがもとで仲違いをしたが、今はとにかくまた仲よくしている。そこにかつてのその女であるレイラが巫女となって登場し、真珠採りたちの無事を祈願する役目を負う。その巫女がかつての尼僧レイラであることを知ったナディールとズルガはまた対立する。そして、最期は……、いや、やめておこう。とにかく涙を流さずにはおれない物語だ。筆者は全曲を聞き流したことはあるが、真剣に聴いたことはない。ナディールの歌う「耳に残る君の歌声」がこのタンゴ・アレンジの「真珠とり」の原曲だ。最近では「耳に残る君の歌声」は、2度目に訪れた愛知博のソニー館の超巨大TVの一連の映像と音楽の中で聴いた。甘い歌声で、それはそれで文句のつけようがないが、筆者としてはどうしても先に、そしてまだ幼い頃に聴いたリカルド・サントスの演奏を思い出す。
 ト短調で、長さは3分少々ある。最初は弦楽器による波のうねりを連想させる音形があり、すぐにわずかなオーボエの音色と続くマンドリンのトレモロによる主題の演奏が現われる。タンゴのリズムがあらわになって、弦楽器が前面に出て、そして男性合唱のヴォカリーズが始まるといったように、次々と目まぐるしく色合いが変わる。これらはそのまま真珠貝の七色の光沢を表現していると思えるが、途中転調して女性の声がまるでセイレーンのように響きわたるのがまたよい。本当は熱帯の海に泳ぐ真珠採りと思って聴くのが正しいだろう。どこかバラライカのようにも感じられるマンドリンの響きは、優しい春雨の降りしきる音に聞こえる。わずか3分の音楽の中でどれだけ多彩な変化を作るかが編曲者の腕の見せどころで、レコードからはGazeという人物の手になることがわかる。リカルド・サントスというラテン的な名前は日本のレコード会社がつけたもので、本当はヴェルナー・ミュラーというドイツ人だ。後年レコード会社を移籍してからはこの本名に戻って活躍した。何度も来日しているはずだが、筆者は70年代初頭の大阪公演を見た。その時「真珠とり」も演奏されたが、レコードとは全く違う音で失望した。やはりレコードは音のミキシングなど、特別の編集が行なわれていて、ビートルズがずっと後年にやるようなことをすでにリカルド・サントスは行なっていた。また楽器や歌声をどこに配置してどのように奏でるかのオーケストレーションは、実際のクラシック音楽の原曲よりももっと多彩かつ実験的なことを追求していて、さらにダンス音楽のタンゴのリズムさえも適用するのであるから、今聴いても何ら古びてはいないどころか、巧みな手腕の数々を改めて知る。若い人々はムード音楽、しかも大昔のものということでろくに聴くことはないだろうが、戦後のドイツにこういう才能があり、たとえば同じようにムード音楽を手がけた大家のベルト・ケンプフェルトは、初期ビートルズの活動に関係した人物でもあるから、そう無下に無視することはどうか。タンゴにもいい曲がたくさんあり、それにこの2拍子の独特のリズムはとにかく大人っぽくて格好いい。永遠に演奏し続けられるだろう。だが、ビートルズはタンゴは演奏しなかったな。
by uuuzen | 2006-03-08 02:10 | ●思い出の曲、重いでっ♪
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