望みは何かと訊かれて、マルセリーノは母に会いたいと言う。それでキリストは彼を眠らせて天国に連れて行く。今日の投稿は別のカテゴリーに書いた
「CANCION DE MARCELINO」を主題曲とする1955年のスペイン映画についてで、孤児の短過ぎる人生を描く。
キリストの奇蹟をテーマにするので、おとぎ話のようなところがあるが、実際映画の冒頭は、修道僧の神父が病床に就く女の子にこの映画で描かれるマルセリーノの物語を聞かせる形となっている。だが、映画の最後でその病気の女の子はもう登場せず、女の子の病気が治ったのかどうかわからない不満は残る。また修道僧がマルセリーノの物語を女の子に聞かせようとする時、女の子の父親はいい顔をしないが、それはマルセリーノが6歳になる前に死んだことが村では有名で、その夭折を父親は縁起でもないと思ったからであろう。その親の気持ちを汲むと、神父がマルセリーノの話をした理由がわからない。捨て子がマルセリーノと名づけられたのは、修道僧に発見された日が聖人マルセリーノの日であったからで、映画の冒頭はその聖人の日に神父が村を訪れ、病床の女子を見舞う。そして神父は女子の父親が祖母から孤児マルセリーノの話を聞いたことを知るが、本作のマルセリーノの物語がその祖母の子どもの頃にあった奇蹟とすれば、7、80年前の話であろうか。ネット情報によれば、本作は今でもスペインの子どもたちのために毎年放送されるそうだ。それは冒頭の神父が少女に語ることと照らせばわかる。つまり神父は、病床の少女は両親が健在で、彼女に神に感謝しなさいと言いたいのだ。マルセリーノが死んだのは、キリストが天国で母親に会えると言い、マルセリーノはその願いをかなえてほしかったからだが、病気の少女には両親がいる。本作が最も言いたいことは、両親の存在をあたりまえと思わないほうがいいということだ。だが、現実はあたりまえに感謝せず、場合によっては呪詛する場合も多い。毒親の場合はそれも当然かもしれない。本作でもそういうひどい大人は描かれる。マルセリーノを見守る12人の修道僧は、母のいない状態では子どもの成長によくないことを知っていて、最初は赤ん坊のマルセリーノを里子に出そうとする。クールベの有名な絵画に「石割り」があって、石を割る仕事に従事している子どもを背後から描く。この絵の素描を筆者は図画工作の教科書でその子どもと同じ小学生で見たが、戦後の義務教育制度のある日本では、子どもたちはその絵の意味がわからない。教育を満足に受けさせてもらえずに、子どもは大人の労働の助けをした時代はとても長かった。というより、ほとんどがそうであった。ましてやマルセリーノが生きた戦争の災禍の後ではなおさらで、僧侶たちは村の子どもたちが劣悪な親や環境下で暮らしていることを目の当たりにする。
特に、金儲けのうまい鍛冶屋は子どもに暴言と暴力を振るっていて、そんな家庭にマルセリーノを育てさせれば将来は見えている。結局修道院が育て、読み書きを教えるが、似た例は昔から少なくなく、日本でもあったに違いない。江戸時代の寺の小僧の中には捨て子もいたであろう。現在でも捨て子はたくさんいて、ニュースにならない。それどころか、産んですぐに殺す母親もいる。本作ではマルセリーノの両親は死んだとされているが、手を尽くして探しても存在がわからず、またマルセリーノの手前、修道僧たちはそのように口裏を合わせたと解釈してよい。5歳になったマルセリーノは快活に暮らし、野生的で悪戯好きだが、主題曲の「マルセリーノの歌」は本作の半ばで登場し、修道院で暮らす5歳のマルセリーノの1日を描写し、最後は眠る場面で終わる。その眠りの場面は最後の死の場面に通じていて、それで曲の最後は半音下がった不安なメロディがわずかに流れるところが不安な余韻を残して効果的だ。これは物語としてとても重要だが、ある日マルセリーノは修道院のそばできれいな女性に出会う。おそらく生まれて初めて見る美しい女性で、母と同じほどの年齢だ。5歳の男子でも美しい女性のことはわかる。マルセリーノはその女性に接して母を渇望する。これがとても切ない。またマルセリーノは彼女に自分と同世代のマヌエルという男子と、赤ちゃんがいることを知り、マヌエルに会いたがるが、彼の姿を見ることはない。この設定も悲しい。マヌエルと知り合いになり、何度か会えばマルセリーノのその後の人生は変わっていたかもしれない。マヌエルの母がマルセリーノを憐れんで母親役をしたかもしれないからだ。マルセリーノはせめて同世代の友だちがほしかったのだが、それもかなえられなかった。彼女が去った後、しばらくマルセリーノは友だちになれなかったマヌエルがその場にいるかのようにしてひとりでつぶやきながら遊ぶ。筆者の息子もよくそのようにしゃべりながら部屋で遊んでいた。そしてたまに従兄が3人いる妹の家に行った時は、帰宅することを泣いて嫌がった。では修道僧たちはなぜマルセリーノと同世代の子どもと遊ばせるために彼を頻繁に村に連れて行かなかったかだが、村人から乞われない限りは村を訪れない。そしてそんな日が村の祭りの日にやって来る。修道僧はマルセリーノと一緒に賑わう村にやって来るが、珍しいものをたくさん目にするマルセリーノは同世代の子どもと親しくなる機会も暇もない。またその方法も知らなかったはずだ。雑踏の中で少し年配の荷運びをしている少年がマルセリーノを見かけて手伝えと言う。マルセリーノは後押しをするが、躓いてついて行けない。その後ちょっとした悪戯から牛が暴走し、祭りは大混乱となる。その原因を作ったのがマルセリーノであることがわかり、新村長となった鍛冶屋は修道僧たちを追い払おうと画策する。
その鍛冶屋のような金欲にまみれた者はいつの時代にもいる。たいていの人はそういう大人に屈して生きるが、修道僧たちは違う。堂々と意見を言い、すべては神の思し召しと考える。清貧を旨とした聖フランチェスコ会の僧侶たちであるのでなおさらだ。本作でも彼らは村にやって来て荒れた貴族の邸宅を自分たちで修復し、そこを修道院としたが、鍛冶屋は以前の村長の修道僧の決定を覆そうとする。人間はみな役割がある。そして嫌われ者はいる。本作の最後でマルセリーノが天国に召された奇蹟の噂が村中に広まって村人が修道院に押し寄せる。その時初めて鍛冶屋夫婦は自分たちだけがあらぬ方向に向かっていることに渋々気づき、村民に混じって修道院を訪れる。そしてその後の修道院は村民の喜捨によって立派になっていて、マルセリーノが2階の納屋で見つけて毎日食事時にパンとワインを持って通った十字架上のキリスト像が祭壇に神々しく掲げられ、祭壇前の床石の表面に「MARCELINO PAN Y VINO」(パンとワインのマルセリーノ)と刻まれている様子が大映しになる。マルセリーノは聖人と同列とみなされ、教会の地下に埋葬されたのだ。死ねば天国で母に会えることを修道僧から教えられたマルセリーノが5歳で死ぬのは、母も兄弟も友人もいないこの世があまりにも耐え難いことを思えば、残酷ではあってもそれでよかったのではないか。人間は生きていると同時に生かされている。今夜眠りに入ったまま死んでも、本人には死んだことはわからない。養うべき家族があればそう簡単に死んではなるものかと思うのが普通だが、マルセリーノの親はマルセリーノを棄てるしかない、戦争その他のやむにやまれない事情があった。マルセリーノが母を希求し、そのためには死んで天国に行くしかないと思い詰めたとして、それは彼には最も幸福な境地に至る道であった。修道僧たちの教育によって立派な神父になるか、市井の女性と結婚して子どもをもうけるという生活が将来待っていたであろうが、生まれ落ちた瞬間から幸の少ない彼は5歳まで生きるのがやっとであったと見るのが現実的であろう。本作は母の重要さを幼ない子どもの側から描き、母性の偉大さを強調する。マルセリーノはキリストに向かって自分の母は皺くちゃではないかと訊く。するとキリストはたとえ皺くちゃであっても母はわが子のために与え続け、偉大であると言う。たいていの女性は自分の美貌を気にする。そして子どもをあえて作らない女優もいるが、彼女がこの世に残せるものにどの程度の価値があるだろう。名声も空しいものだ。一方、貧しさの中で多くの子どもを育てる母がいる。髪を振り乱し、自分のことより子どもことを考えるその母は、美しい女優とは比較にならないほどの無限の可能性を後に託す。老いた女優の目の前に常に若い美女や美男子が現われ続けるが、彼らを産むのは名のない普通の目立たない女性だ。
筆者の従兄は10年ほど前に高齢の母の葬式を出し、その告別式で「産んでくれてありがとう!」と大声で言い放った。それは本心からであったろうが、筆者はあまりいい感じを抱かなかった。その従兄は結婚したが子種がなく、子孫は絶える。産んでくれて感謝するというのは、生きていて楽しいからだが、母が子を産むのはその子の人生が生きていて楽しいことを確信するからではないだろう。また生きていて苦しいこともあるが、総体的に楽しいことが多いという思いもさしてなく、もっと動物として自然にわが子をほしいという思いに突き動かされる本能のなせる業だ。その意味で「産んでくれてありがとう」はあまりに後づけで、感謝するのであれば、先祖すべてであるべきで、また人類すべてが対象だ。そしてそうなれば、母といった特定の誰かに感謝するのではなく、自分が今生きている実感に感謝すべきで、これは孤児でも同じと思う。マルセリーノがそういう考えを持てない年齢で死んだのは、現実的には病気が原因だが、もっと生きて成人に達すれば、自分の境遇をより理解し、生きる気力を得、そして結婚して家庭を築いたであろう。そのような孤児はいくらでもいる。だが、5歳のマルセリーノには母は必要であった。一度も母を見たことがない彼の孤独は想像を絶する。筆者の母は貧乏のドン底の中で筆者と妹ふたりを育てた。筆者はとても孤独に育ちはしたが、幸運であった。ただし、母に感謝するという気持ちよりも、自分も親になって母の気持ちがわかると言いたい。今は結婚に否定的な若者が多いが、自分の子どもを持たねばわからないことは必ずある。つまり、現在の気持ちだけで将来を決めるのは間違いであるという気持ちの余裕をどこかに持っておいたほうがよい。筆者の中学生の同級生で60前に亡くなった女性が京都市内にいた。結婚した当初、彼女は会うたびに「こんな時代、子どもを産めば子どもがかわいそう」と言った。だが、やがてひとり生まれた。ふたり目を産むかどうか迷っている時、また同じ言葉を何度も言ったが、結局また男子を産んだ。そして子どもは今は立派に成長している。産めば考えは変わる。そういう例をたくさん見ているだけに、結婚や同棲はしても子どもをほしくないという女性がいると、本心かどうかを疑う。ネットでは若者は多数意見に同調しがちだ。自分に自信がないほど、その無名のどうでもいい無責任な多数意見に振り回される。あるいは自分の意見として強がる。それを愚かとわからない者にはそれなりの将来が待っている。子どもにいつか感謝されるために産むのではない。本作が描くように、母は子どもに無償の愛を捧げ続ける。それ以上に美しい愛はこの世には存在しない。マルセリーノは産んではもらったが、その母の愛を知らず、また他者の愛ではそれを満たすことが出来なかった。それほど子どもは母を必要としている。女が母となるのは、その本能を悟ることだ。
マルセリーノが友だちや母を求めてひとりで遊ぶ場面に胸が締めつけられるが、やはり最後のマルセリーノとキリストとの対話が最も感動的だ。マルセリーノは僧侶たちから2階には怖い大男がいるので絶対に入ってはならないと言われている。これは悪戯好きなマルセリーノがキリストの磔刑像を壊す恐れを思ってのことだろう。修道院にはまだその像を飾る祭壇がなく、納屋に置いておくしかない。この磔刑像がどこからもたらされたものかは描かれないが、映画では二度ほど顔がアップになり、本物の人間と思わせるほどの写実性がある。マルセリーノはそれを見に二度目に部屋に入った際、天井に近い小窓を棒で開ける。その途端光が部屋に入って像は輝く。この演出は見事だ。5歳の子どもがその像を神様と悟ったのは、以前にマヌエルの母と出会った時に彼女に対して「きれいだね」と言ったことからして当然で、マルセリーノは神と対話し始める。痩せている神が空腹だと思ってマルセリーノは僧侶が用意する食事のパンを1個盗み、次には赤ワインをコップに並々と注いで持って行くが、このパンとワインはキリストが最後の晩餐で12人の弟子に伝えた言葉になぞらえたもので、キリストの体と血を意味する。やがて給仕係の僧侶はマルセリーノが納屋にパンとワインを運んでいることを知り、ある日のこと納屋に隠れてその様子を観察する。驚くべきことにキリストは十字架から降りて傍らの椅子に座り、マルセリーノと話している。キリストの顔は映らず、手が動く様子のみがわずかに見えるが、マルセリーノはキリストの頭上の茨を取り除きながら、「手足も痛いでしょう?」と優しく訊く場面があって、その純粋な優しさにキリストは正直に応える。孤独に慣れてマヌエルと実際に話している気分になっていたマルセリーノがキリスト像に話しかけることは違和感はない。キリストが子どもと話す様子を僧侶が目撃することも、普段から信心深く、神のことを考え続けている身とすれば、幻視は大いにあり得る。懐疑的な者に見えないというのは大いに正しい。見ようという気持ちがなければ何も見えず、ほとんど人は神秘を知ろうとせず、無知同然で死ぬ。おそらく母恋しさのあまり、精神を病んでいたマルセリーノは、キリスト像と対話することで母に会えると思い、そして息を引き取った。納屋に駆け上がった僧侶たちは、十字架が輝く中、次第にキリスト像が元の場所に戻る様子を目撃する。それは現実的には小窓から突如差し込んだ太陽の光で目が眩んだに過ぎないことだが、マルセリーノが椅子でぐったり眠っている様子を見て、僧侶たちは神が天国に連れ去ったと思う。実際のところ、そう考えても差し支えない。純真で幸の薄い捨て子は5歳まで生きて母のもとに去った。それは幸福なことだ。幼ない子どもは母親と一緒に暮らし、その体と愛に包まれなければならない。その様子以上に美しいものはこの世にない。
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