備えていてもブログで取り上げないことがあれこれあって、中には何年も気になっている場合もある。いつでも書けると思いながら書かない場合が多いと思う。気になりつつそのままになってしまうことは人生によくある。
仕方のないことだ。生きることはその仕方のないことを受け入れることでもある。今日はつい先日とある場所で耳にしたフランスの若い女性歌手がかなり色っぽい声で歌っていた「ソルヴェイグの歌」について書こうかと思いながら、最近ふと思い出した「マルセリーノの歌」を取り上げる。これは有名なスペイン映画『汚れなき悪戯』の主題曲で、60年代半ばにラジオでよく聴いた。ただし、映画は1955年封切りで、筆者が4歳頃であるので、ラジオで聴いたのはリヴァイヴァル・ヒットであろう。映画そのものは昔TVで二度は見た。感動の涙を流す映画ではこれ以上のものに出会えたことがない。DVDを買おうかと思い始めているが、見れば感想を書くつもりでいる。もっとも、見なくても内容は知っているのでいつでも書けるが、3、40年ぶりに見ればまた見どころが違うだろう。それはさておき、この映画音楽のドーナツ盤を筆者は持っていない。入手してから書いてもいいが、間に合わないのでyoutubeで視聴して書く。レコードではA面がスペイン語を直訳すると「マルセリーノの歌」、B面が「汚れなき悪戯」となっていて、邦画の題名はB面の曲名から採ったことがわかる。サウンドトラック盤であるので、映画に記録された音をそのままレコードにしているが、「汚れなき悪戯」がどういう曲かは、ドーナツ盤を買うか、DVDを見ながら耳を澄まさねばわからない。「マルセリーノの歌」はとても印象的で、映画の内容に実にぴったりして、作曲家の才能のほどがわかる。原作はイタリアの小説だが、いずれにしてもカトリックのキリスト教を主題にしているので、作曲家もカトリックを信仰していなければ感情移入も、また映画にふさわしい旋律も書き得ないだろう。先ほどyoutubeを見て感心しながら、この曲は映像を見ながら聴くべきで、またその映像が歌詞と見事に一致していて、3分ほどの映像を撮影するのにどれほどの時間と工夫を要したかと思った。つまりとてもていねいで、無駄がなく、短いオペラを見る気分だ。作曲家はスペインのバスク地方のパブロ・ソロサバルで、映画音楽と芸術音楽の双方の分野で活躍したとネットにあって、やはりと納得する。メロディは単純だが、細部が凝っていて、3分未満という制約の中でどれほど多くのことを詰め込めるかを熟考した跡がうかがえる。これがこの映画の映像のていねいさや俳優の演技のうまさとよく釣り合っていて、稀に見る名作となった。子どもから大人まで等しく感動する意味においての名作で、また1時間半と短めであるのもよい。
先日取り上げた映画『鉄道員』も小さな男児を主役級にしていたが、当時は子どもを起用する映画が多かったかもしれない。また『汚れなき悪戯』は子どもの純真さを主題にするだけに、開高健のように、子どもが出る映画は苦手という大人は必ずいて、感動はかなり割り引いて、つまり涙を流した後は冷静に作品を分析して過大評価しないことが大人の態度と思われがちだが、1955年という、日本でもまだまだ貧しく、同じような孤児が多かったはずの世の中では、『鉄道員』とともにこういう映画が大ヒットしたことにはそれなりの必然があった。そしてそういう映画にどういう音楽がふさわしいかとなれば、短調の物悲しいメロディというのが相場で、本曲もその例に洩れないが、歌詞に合わせて主役のマルセリーノの日常を映像で端的にまとめ上げていて、またマルセリーノと修道僧の対話をオペラ風にうまく挟み込んで、悲哀よりもあどけなさ、またそれゆえの悲しみというものをうまく表現している。あどけなさは無防備さで、庇護されるべき存在でもあるが、それゆえに悲しみがまとわりつく。生まれて来た者はすべてそうで、そこに宗教が必要とされるゆえんがある。話を本曲に戻すと、映画で確認していないので断言は出来ないが、映画のほとんど最後で一度だけこの曲は使われるのではないか。あるいは随所に変奏曲が短く登場するかしれない。そう思わせるのは、この曲の最後に、部分的に半音下がって不安な調子で主題が小さく背後に流れるからだ。そのわずかな断片は20年後にニーノ・ロータがフェリーニの『カザノヴァ』で駆使した手法を連想させる。音楽家が場面に応じて主題のメロディをいかようにも変化させることは当然過ぎることだが、本曲の最後のその変奏はあどけないマルセリーノがどのような不思議な運命をたどるかをうまく形容していると同時に、釈然としない余韻を与えることに成功している。こういうことはオペラから映画を生んだヨーロッパの音楽家ならではで、特にイタリアの小説を原作とするからには、オペラ的脚色はきわめて妥当だ。それゆえ、日本の作曲家はどうあがいてもこの曲を作曲することは出来なかった。これは主旋律が書けても細部の色づけが無理という意味で、筆者は改めてこの曲を聴きながら、ヨーロッパ音楽の底深さを思う。そしてそれが3分未満の映画音楽でなされていることにさらに驚くのだが、同じ3分未満の他のポップスではこうはならない。またyoutubeではこの曲をカヴァーした演奏がたくさんあるが、それらはみな原曲の特に主題のみを再現するもので、前述のオペラ的対話やそれに伴なう音形、また最後の転調した断片などを無視し、うすっぺらいものになり果てている。これはビートルズの曲を誰がカヴァーしてもつまらないことと同じで、原曲の録音に勝るものがない意味においてレコード時代の名曲にほかならない。
先ほどピアニカで主旋律を拾ったところ、終始音がAで、それを根音とするとAマイナーだ。また最初の音はCで、ハ長調の音階にひとつだけ半音高い音が混じると見ることも出来る。教会旋法ではないが、そのように聴こえる民謡の類と言ってよく、賛美歌に似たものがあるかもしれない。筆者は全く知識がないが、賛美歌はカトリックとプロテスタントとではよく歌うものが異なるのだろうか。どちらも作曲家をたくさん生んで来ていて、国によって、宗派によって差があると思うが、作曲家は生まれた国の民謡を意識することが多いはずで、賛美歌ないし本曲のように修道僧の生活を表現する場合の作曲は、独自の個性を求めるためにも民謡を参考にするだろう。ニーノ・ロータはそうであったが、結局地域的な特質を背景に創作すると普遍性を得やすいということで、地方色が強みになる。この点は日本も同じだが、どの田舎も小さな東京を目指して地方色がどんどん薄れて行く。それだけ世界が狭くなって行っているのでそれを当然と見る向きもあるが、何百年も積み重なった地域の独自性はそう簡単に汚してはならないだろう。そう思わないのは地域とは何の関係もなく住み着いたよそ者で、彼らがたとえば村起こし、町起こしの名の下に地域の活性化を意図する時、とんでもない勘違いによって何百年の蓄積に泥を塗りかねない場合がある。その何百年も積み重なったことのひとつは宗教だ。映画『汚れなき悪戯』がイタリア・カトリックの近代の修道僧の物語を描くところに、キリスト教布教のための宣伝映画であろうという見方を超えて、13世紀の聖フランチェスコの出現から近代に至るまでの信仰の継続、厚みというものを実感させ、歴史的空想映画とは言い切れないところに感動の大きな理由がある。この映画を日本に置き換えると、たとえば親鸞以降の浄土真宗の物語を想定しなければならないが、はたして感動的な物語が可能か。また映像や音楽をどうするかとなると、もはや真宗信仰が長らく続く田舎を舞台にしても無理だろう。だがそれはイタリアやスペインでも同じかもしれない。そうであるだけに、1955年に19世紀の物語としてこの映画が撮影されたのだろう。人の心を優しくする映画や音楽を考える時、受け手に涙させることは大きな条件のひとつだ。そういう映画、音楽は現在こそ多く作り出されるべきと思うが、金を第一と考え、また涙を流させる技法は簡単であると言う作者も多いだろう。そのようにして巧妙に作品を作って感動を与えようとしても、それこそ開高健の言うように、甘いも辛いも熟知している大人は見たくない。これは蛇足だが、1か月ほど前に妹の車に乗った時、竹内まりあという歌手のビートルズの完全カヴァーを7,8曲聴いた。原曲の素晴らしさを知っているだけに、聴くに堪えない苦痛と耳を汚した気分になり、帰宅して原曲で耳を洗った。