抽選に強い人がいるが、筆者も家内もその点はさっぱり駄目だ。無心になって籤を引くと当たるという意見があれば、籤運の強い人は当たってほしいと願うとのことで、何が正しいかわからない。
人生の長さも運かと言えば、深刻な病気になるのは遺伝子の影響が強く、生まれながらに寿命はほぼ決まっているだろう。そして寿命の短い人が不運かとも言えないことは、近年の日本の長寿社会の影の部分がよく話題になることからもわかる。長生きしたいのは、身内を含めて他者に迷惑をかけないという前提があってのことで、長年意識がなくて寝た切りになれば、世話する人が大変で、費用も馬鹿にならない。筆者の母は長年働き続けて厚生年金が筆者の国民年金の5倍ほどあって、それで介護施設の世話になることが出来る。母に年金がなければ筆者はこうして呑気に文章を綴ることは出来ず、終日どこかで働かねばならない。そういう家庭は少なくないだろう。同じ問題は江戸時代ではもっと深刻で、高齢で元気な親を山に棄てた。その証拠がどこにあるのか知らないが、隠しておきたいことだけに文書にされず、言い伝えで各地に残っているのだろう。また避妊しなかったので、毎年生まれる子はこっそりと殺され、人口の増減がほとんどなかったが、これらの問題は、食べるものが賄えないという経済的な貧困に原因がある。それを現在日本の少子高齢化と照らすと、避妊器具の発明でやたら妊娠することはなくなったが、子育ては莫大な金が必要で、一方戦後の食生活の改善と医療の発達で老人は高寿命になって、江戸時代とは全然状況は違うものの、どちらもさして幸福と言えない気がする。もっともいいのは、子どもが2,3人いて、親は老齢まで生きないことだ。親はなくても子が育つのは本当だ。また子がなければ夫婦が死ねば後に何も残らないので、日本が少子化に歯止めがかからないのであれば、いずれ日本はなくなるが、別段そうなってもほとんど誰も困らない。国が消えて新たな国が出来るのは必然で、国が滅んでも人は残る。そう考えると、子どもがいない家庭は空しいし、筆者の知る子どものいないいくつかの夫婦はみな仲がよく、それなりに楽しく暮らしているが、どこか肩身が狭いようで、ひっそりとして目立たない。地元の自治会やPTAなどに参加しづらいからでもあるが、そういう孤立した生き方を賛美する風潮があることに筆者は反対だ。どう生きようが個人の自由という考えは正しいとしても、緩やかに多くの他者とつながっているのでなければ生活は味気ない。他者の世話にならないと言う人も、必ずいろんな世話を陰で被っている。そういうことに思いを馳せられないほど日本の若い世代が自分に閉じこもっているとすれば、もう日本は半分なくなっている。革命が起きるかどこかの国に征服されると、そういう若者はまた希望を持って生きることが出来るかもわからず、人の考えなどすぐに変わる。
10月の下旬、家内はTVでイタリアの白黒映画『鉄道員』を見て、とてもよかったと言い、録画してあるので筆者に見ろと勧めた。この映画は若い頃に見たことがあるが、内容は忘れていた。よく記憶するのは音楽で、60年代の映画音楽特集のラジオ番組では必ず取り上げられた。物悲しいメロディに、女性の泣き叫ぶような声が入っていた。当時そういう音楽が人気があったのは、時代の好みと、日本人が短調のメロディを好むからでもある。以前このブログで取り上げた
シャングリラスの「家には帰れない」は1965年に大ヒットしたが、その歌詞内容は現在の日本では却って深刻になっている。現実の物悲しい状況は相変わらずなのに、物悲しい曲から物悲しさを受容することが耐えられないほどに若者の物悲しさが深刻になっているのだろうか。あるいは物悲しさを空元気で覆う、音楽や芸能業界の思惑によって、たとえば若い女性が家にいたくないという悩みを解決しようとするよりも、家出を後押しするような風潮があるように感じる。つまり、事情は昔よりも悪化しているが、そのことが表面的にわからないように巧妙に操作され、何が不幸で幸福かがわからなくなっている。結局それもアメリカ文明を模倣し続けて来たからであって、65年の「家に帰れない」の世界は半世紀後の日本でより露わになっている。話を整理すると、1956年の『鉄道員』の主題曲の物悲しいメロディは「家に帰れない」のそれにつながりながら、今の日本ではほとんど歓迎されない、人気のないものとなっているのに、若者の物悲しさは相変わらずであり、物悲しさを忘れるためにあえて快活になることはいいようなところもあるが、それはまやかしで、筆者にはひねくれて不気味に見えると言いたいのだ。それで、本作の内容は今では嘲笑されるのが落ちではないかと思う。時代が変わって家族像も変わり、かつての幸福が今では不幸と見る者もいるだろう。本作に描かれる56年当時のイタリアと現在の日本は、多子若齢と少子高齢の点で正反対、また地域社会とのつながりの点で大差があって、日本では個人の孤立化が多くなっている。ここまで書けば本作がどういう内容の映画かわかるが、日本が本作と同じような社会になるには、百年先でも無理かもしれない。そこでイタリアではどうかという疑問が涌くが、本作の現在版とでも言うべき家庭ドラマの名作がイタリア映画にあるのだろうか。そう言えば今月上旬、西京区のある施設で日本映画『万引き家族』が無料上映され、見に行くつもりであったのに忘れた。それは家族を描く点で本作と対比してよい作品だが、本作がイタリアの都市における平均的な労働者家族を描くのに対し、同作は万引きする貧困家族を描き、日本がもはや中流とは言えず、経済的格差が広がって、貧困が深刻な問題になっていることを伝える。
『万引き家族』を見ていないので何とも言えないが、貧困を言えば本作の家族も同じで、またこれは50年代のイタリアでなくても日本でもそうであった。そしてその貧困は高度成長を経験した状態から見てのもので、今の若者が本作を見れば自分たちのほうがもっと貧しいと思うだろう。まずまともな仕事がない。子どもを3人も持てる家族を構成出来ない。それに打ち解けた大勢の仕事仲間がいない。孤独さ、幸福の点で言えば、現在の日本の若者は本作の家族よりはるかに厳しい。にもかかわらず、本作に流れる物悲しいメロディは何事かと憤慨する若者がいるかもしれない。さて、前置きめいたことが長くなった。今日本作を取り上げるのは、本作がクリスマスの夜の場面から始まって1年後のクリスマスの夜で終わるからでもある。1年の間にイタリアの国鉄に勤務する機関士の生活が激変する。そして簡単に言えば、本作の監督で主役を演じた機関士の50歳の父親マルコッチは、家を出て行った長男長女と和解し、また1年前と同じく、近隣の知り合いが大勢訪れるパーティが終わった直後に、ベッドで死んでしまう。それが当時の平均寿命であったのかどうか知らないが、厳格であった父が死んでも、長男と長女は自分が生きる道を得ていて、また末っ子の小さな弟サンドロは母や姉、兄が面倒を見るはずで、マルコッチが死んでもさほど問題はないであろう。またマルコッチや妻の両親のことは描かれないが、もう死んでいないか、いても子どもたちに迷惑をかけないように養老院で暮らしているかもしれない。マルコッチが長男長女とそりが合わないのは、いつの時代、どの国にでもある親子の価値観の対立と言ってよく、本作の長男はマルコッチがしばしば朝早く起きて働けと言うにもかかわらず、一攫千金を狙って危ない橋をわたっている。また長女は20歳くらいの設定だが、交際している相手の子を孕み、それがマルコッチにばれて結婚するのはいいが、子どもは死産、その後年配者の誘いで浮気して離婚するに至り、今の日本でも珍しくない話だろう。また着飾りたい盛りの彼女は貧しさが嫌で、金のある年配者からの誘いが断れないというのも、今の日本では無数にある話で、親との確執、豊かさに目が眩んでの一種の売春は、世界中に永遠に続く問題だ。マルコッチは時間を特に守らねばならない機関車の運転手をしているが、気になるのは大の酒好きであることだ。それが原因で停職になる。また50そこそこで死んだのもそれで説明出来るだろう。酒好きなことは悪いとばかりは言えず、マルコッチは酒場ではギターを弾き、みんなで合唱する際に主役になる。そういう人気者であるのでクリスマスのパーティに大勢の客がやって来る。本作で強調されるのは彼の仕事仲間との良好な関係で、その点で仕事が辛く、薄給であっても気持ちよく生きられる。それは人生の理想で、マルコッチの人生は幸福であったと言える。
本作でもうひとつ大きな意味を持つのは組合の運動だ。マルコッチはこれに疑問を抱いている。過酷な仕事に対して薄給であれば、労働者は組合を作って賃上げを要求する。その際にはストも厭わない。日本でも同じことは盛んに行なわれた。マルコッチは組合の力を信じていないわけではないが、組合の上層部はみんなから組合費を集め、まずは自分たちが最もよい立場を得ることに抜け目がないことを知っている。これは共産主義でも同じで、上層部は知識や知恵があって、資本主義社会の上層部と同じように経済的に豊かだ。マルコッチは自分が人身事故を起こし、またその際に口にわずかなワインを含んだだけであるのに、減給され、しかも旧式の蒸気機関車を運転する立場に戻されるが、その際に組合の会議で事情を訴えても聞き入れてもらえない。そして大幅に給料が減らされても以前と同じだけの組合費を請求され、ストの日に反旗を翻して以前の電気機関車を勝手に運行する。そしてそのスト破りは国鉄仲間、酒場仲間に知られ、のけ者の身となって別の酒場に入り浸りになる。長女は家を出て洗濯工になり、息子もどこへ行ったかわからず、母はサンドロと泣き暮らす。本作では冒頭からサンドロが大映しになり、小学生の彼から見た家族像として描かれる。マルコッチにすれば忘れた頃に出来た子で、またサンドロも大いにマルコッチを尊敬している。そして長男長女もサンドロがいたお陰で家族の一体感を失わずに済む。長男は最後の場面でかつてのマルコッチのように市電に乗って働きに行くが、父と同じく国鉄職員かもしれない。あるいは同じ労働者であるのは間違いない。長女は離婚した食料品店の男とよりを戻し、イタリアの都市部の労働者階級の生活はマルコッチがいなくなっても続くことが暗示される。だが、時代が変われば家族像も変わる。そしていつの時代も幸福な家族があるが、マルコッチ一家のように平凡で貧しくても、子どもが3人もいて賑やかな家庭は、今の日本の平均的な若者は得にくくなっている。それでも人間は幸福は実感せねばならないから、子どもがいないほうが気楽であり、未婚を結婚よりいいこととして、たとえば本作のマルコッチの家族を悲惨だと思うだろう。幸福感は人さまざまだが、後を託せる子どもに恵まれ、仲のよい仕事仲間が大勢いるという状態は、最大の理想ではないか。スト破りをしたマルコッチがまた元の酒場に戻り、みんなから歓迎される場面は感動的だ。またマルコッチの最も親しい仕事仲間は独身で、家庭を持てなかったそういう男がいることも現実的だが、そういう男が家族のあるマルコッチと親しいことで救われていることが垣間見える。持つべきものは心優しき親しき者で、今の日本の若者がそういう相手にも恵まれないとすれば、その孤独さは大いに疑問視されるべきだ。運が悪いと諦めないことだ。生きていればまた全く違った太陽が昇る明日が来る。