壁に囲まれる安逸さがあれば、恐怖もある。壁は正反対の意味を持つ象徴だが、陸上競技の障害走は人生に立ちはだかる壁を乗り越えて進むべきことを暗示しているようで、ただ速く走るのとは違って興味深い競技だ。
あのハードルは飛び越えなくてもよく、筆者は筋肉を鍛え、体当たりして倒して行けばよいのにと思うが、前方に倒したハードルを踏みつける際に足が取られるかもしれない。それはともかく、先日触れた『楢山節考』を見ようと思ったところ、ビデオデッキのスイッチが入らない。前回の使用から半年は経っているが、移動はせず、また振動も与えていないのに、そのままで電化製品は壊れるものだ。せっかく映画を1本見る気になっていたので、以前に録画してある数編から昨夜は1本を見た。昔から気になっていた作品で、黒澤明の誘拐をテーマにしたものだ。そのことは知っていたが、天国と地獄が何を意味するかは映画の終盤でわかった。これは簡単に言えば金持ちと貧乏人の対比だが、金があっても内面に大きな苦労を抱えている、あるいは金がなくてもささやかな幸福を感じて生活しているといったことは取り上げられてない。また1963年の映画であるので、当時の日本の国民の意識ないし黒澤の価値観が表明されていて、それが現在の人々の意識とどう違うかと思わせられる点で、筆者は今頃になって見たことは却ってよかった。本作で描かれる天国は立身出世を体現した、横浜の山手に住む立派な屋敷に住む製靴会社の重役の生活だ。三船敏郎演じる彼は麓のゴミだらけのドブ川沿いに並ぶ貧民の町の住民からすれば雲の上の存在で、そのことがわかりやすいように、またカフカの「城」を思わせるかのように、丘の上に一軒だけ、居間の窓が大きな鉄筋コンクリートの建物がある。これは当時本当にそういう家が1件だけ建っていたのかどうかだが、模型を撮影したかもしれない。また映画の最初の30分ほどはその屋敷の居間での、少々冗漫で芝居じみた場面が続き、舞台の脚本を映画化したものかと思ったが、それが終わった途端、俄然物語が大きく動き始め、最後まで全く飽きさせず、さすがの黒澤を感じさせた。だが、物語は単純だ。山崎努演じる麓の貧民街に住む独身の研修医がその重役の生活を羨ましがり、子どもを誘拐して大金をせしめるが、警部の仲代達也が率いる警察の策略にかかって逮捕され、死刑判決を受けて獄中にいることで終わる。犯人が警部の講じる手立てに次々と嵌る様子はあまりに出来過ぎていて現実離れと思えたが、勧善懲悪の物語であるからには正義が勝ち、悪である犯人は知力と勘が劣り、馬脚を現わすという描き方にするしかない。警察内部にも悪がある、あるいは犯人は逃げ通すといった物語が多くなるのは本作後のことではないか。警察は世間を大きく騒がせた殺人事件をいくつも迷宮入りさせて来ているが、60年代初期に比べて今はその比率はどうなのだろう。
研修医は経済的に恵まれないと言われるが、大学を出ている。一方、三船演じる重役は中卒の職人から叩き上げて現在の地位を築き、同じ会社のどの重役よりも品質のよい靴を良心的に作るという思いを忘れておらず、工員の評判もよい。ここに現在でも通じるひとつの現実がある。今は中卒で大きな会社の重役になる可能性は60年代よりはるかに少ないはずだが、それは日本の製造業が衰退したからでもあろう。中卒で重役級の金持ちになるには、肉体労働から出発して大型ダンプを何台か抱える会社を築くことくらいにしかないと思うが、おそらく皆無ではない。ところが医大を出て研修医、あるいは博士号を取得しても働き場所が少なく、30、40になっても貧困という人は大勢いて、この映画の設定は古びていない。また学業に金をかけた割りに経済的に恵まれない場合、出自はどうあれ、屋敷に住んでいる会社の重役を羨むことはあるだろう。あるいはそういうひねくれた性格であるので、事件を犯すというのが本作の設定だが、経済的な格差のみで持たざる者が持てる者を羨み、危害を加えるのは地獄的な所業で、本作の研修医は警察から徹底的に嫌悪され、当時誘拐は15年の刑であったことに我慢がならない警部は、犯人が重役から大金を奪う際に利用した麻薬中毒者の夫婦を研修医が殺したことを明らかにし、死刑になるように罠に嵌める。研修医は麻薬に溺れる連中を殺しても何の痛みも感じないが、黒澤明が利用した原作のアメリカの小説では犯人は研修医という設定なのかどうかわからない。ともかく、地道に努力して成功した者を、努力をさしてしない者が嫉妬することはよくあり、研修医が人を利用して殺し、そして大金を奪って留飲を下げるということは、現在に通じる倫理観の欠如の恐ろしさをよく伝え、黒澤は医者嫌いであったかとも思わせる。本作で犯人が姿を見せるのは、特急列車を利用して大金が詰まった鞄を手にした後、自分が住む安アパートの一室で新聞記事を読む場面からだ。そこで犯人は動揺する。重役は犯人に奪われた大金があれば、他の重役との持ち株合戦において勝利し、社長になれる算段があったが、人の命は何にも代え難いと一夜で決心し、金を犯人にわたす。またその行為が新聞に取り上げられて世間から大いに賛辞を得る。重役の金に固執しない人道主義の前で研修医はひるんだのだが、もちろん彼は重役が中卒でその地位に上って行ったことも知ればもっとそうなったであろう。あるいは単に少々動揺しただけで、自分の計画どおりに金をせしめ得たことに優越を感じただけかもしれないが、子どもを返しただけでは犯行は帳消しにならず、警察は追い詰めて行く。その経緯が本作後半の見どころで、結局犯人は奪った3000万円のうち、2万円を使っただけでほとんどの金は重役の手に戻り、天国は相変わらず天国、地獄はもっと悲惨な地獄という状態は変わらない。
2年前だったか、木工芸家の黒田辰秋の展覧会をどこかの百貨店で見た。その時に度肝が抜かれた作品があった。黒澤明が注文した大きな椅子で、そのあまりに堂々としたたたずまいは王様しか似合わないものと思えた。黒澤は映画界の王様であり、先日はネットで横尾忠則が山田洋次監督と比べてその才能をべた誉めしていたが、黒澤がそのような巨大で重厚な椅子を注文したのか、あるいは黒田が黒澤の貫禄に見合うものとしてデザインしたのか、ともかく世の中には同じような椅子はほかになく、そう簡単に移動出来るものでもないほどに重量感がある。そういう手作りの立派な椅子は天国の住民が用いるもので、黒澤は本作の重役に自分を重ねたのではないだろうか。その重役の地位は、基本は技術者で、周囲の職人の気持ちがわかり、また絶えざる努力の果てにつかんだものだ。そういう立身出世はいつの時代でもあるだろう。本作では、品質のよさで会社の看板を守るという三船演じる重役に対し、他の重役は工程を省き、デザイン性で大量に売れば儲かると考える商人で、結果的に後者が会社を運営権を得るが、そこに当時の日本の物作りの会社が置かれていた状況が暗示されている。そして今では物作りの精神はほとんど忘れ去られ、金が金を生むという資本主義のからくりが大手を振り、賭け事と同様のことを国も会社も主婦も行なっている。物作りよりも金儲けが大事で、そこにはいい物を作ればやがて金持ちになるという思いはない。見栄えを重視し、経費を最小にして売り上げを最大にするという消費社会となって、豪華俳優陣を揃える本作のような映画も望むべくもない。本作は勧善懲悪の見本のような作品だが、そのことをことさら強調しているのは、終盤に映し出される麻薬中毒者たちの巣窟の場面だ。その地獄的な様相は別の映画かと思わせるほどに必要以上に迫真的で、黒澤は本作の題名の「地獄」とは、麻薬の禁断症状に苦しむことと言いたかったのではないかと思わせられる。つまり、本作は麻薬撲滅キャンペーンに大いに役立つ。その意味でも現在も価値を少しも減じず、たとえば先ごろの沢尻エリカの事件があった後ではもっと言及されてよい。ただし、本作に描かれる麻薬中毒の若い女たちと沢尻は全然違って見え、沢尻は禁断症状を見せず、美しいと称えられる。これは使用している麻薬の違いや使用頻度の差にもよるだろうが、沢尻が麻薬が途切れて禁断症状を呈した時の様子は誰も見ていないので、そもそも比べることが出来ない。それはともかく、本作に登場する麻薬中毒者の若い女たちは白装束の幽霊ないし化け物で、それは本物の中毒者を観察しての演技であろうし、またそうであるがゆえにそういう中毒者は世間からは目立たないところにいて、その状態こそが地獄と言ってもよい。つまり、本当の地獄は世間から閉ざされているが、誰でも麻薬によってそこに入り得る。
今の若者にはわからないが、本作は当時の有名な俳優の総動員の趣があって、出演した俳優たちはチョイ役であっても黒澤の映画であるので名誉と思ったことであろう。終盤には横浜の米兵も訪れる大きなクラブの場面がある。そこではハングル文字も見え、国際的とも言える空間ではあるが、戦前からそういう黒人のジャズと売春婦が彩るキャバレーやクラブという夜の世界がヨーロッパにあったことは、以前に書いたオットー・ディックスの絵画からもわかる。もちろん麻薬はつきもので、田舎から出て来た若い女はその餌食になって身を落とした例は無数にあっても、そういう地獄は世間からは無視され、表沙汰にならない。昭和30年代は日本各地にそういう場所があった。70年代になってもたとえば大阪の阪神百貨店裏の大きな空き地の暗がりには若い、そしてきれいな女が客引きをしていて、筆者も何度か声をかけられたことがある。天王寺も再開発によってそういう場所はかなり消えたが、同じ人種はいつの時代でも一定数いて、別の場所で体を売り、また麻薬も使われている。横浜という大きな港街であれば麻薬や売春が伴なう歓楽の場所はなおさら必要悪として存在したが、本作ではエレキ・ギターの即興演奏が鳴りわたる中、それに乗じて客たちは一斉にツイストを踊り、またそのクラブからさほど遠くないところに麻薬に侵された女たちが苦しんでいる一画がある。本作の犯人は入手したヘロインの効果を試すために、そういう女のひとりを百円で連れ込むことの出来る場所に誘い込み、純度の高いヘロインによって死亡させる。そういう事件はよくあったのだろうし、今もあるだろう。だが、麻薬中毒者が過剰摂取で死んだところでニュースにならない。そういう麻薬人生のどこが天国のように気持ちよいのか、傍から見れば本人は地獄図そのものだ。ヘロイン中毒者は、本作の2年前の1961年では4万人いたとウィキペディアに書かれる。当時日本の人口が9500万として、2400人にひとりいた計算になる。これが多いのか少ないのかだが、麻薬が多様化かつ多量化している現在、依存者はもっと多くなっているのではないか。昨日のネットで、大阪西成の路上で闇販売されている薬物を女子大生が買うために群がっていて、買ったその場で服用してラリッている状態を報告した記事を読んだ。また去年だったか、60代の男が20代の女とセックスする際、薬物を過剰に摂取させて死なせた事件があったが、麻薬に絡む事件は60年代から増えているだろう。あまりに多いのでマスコミは伝えないだけで、そのことから若者に危機感がないと想像する。そして、そういう若者が麻薬に汚染され、知らず知らずのうちに人生を棒に振ったところで話題にならず、生きていたことも誰も記憶しない。そのことを本作は地獄と形容していると思える。
本作で天国にいる女性としてひとりだけ登場するのは、香川京子が演じる製靴会社の重役の妻だ。それに対して麻薬中毒者を演じる女たちは、当然全員美人ではなく、やさぐれた風貌だが、セリフがあるので大部屋女優のはずだ。天国の美に対して地獄の醜を演じるのは女優としてつらいだろうが、それでも役があってスクリーンに映し出されるだけで本望だ。そういう役を務めている間に、いつかもっといい役が回って来るかもしれないが、一方で筆者が思うのは、先ごろ亡くなった梅宮辰夫の言葉だ。彼の演技を映画では見たことがないが、彼が俳優になった理由のひとつは、いい女が抱けるという思いがあったからだ。彼の言う「いい女」とはどういう女性を言うのか。おそらく俳優というだけで群がる女や女優だろう。そういう女に「いい女」がいるとは筆者は思わない。昔読んだが、有名な女優の性器ほど醜いものはなく、また美女ほど多くの男と遊んでいるので、あらゆる性病を経験しているともあった。これは実際そうだろう。そこにふと沢尻エリカを思い出す。彼女がヘロインをやったことがあるのかどうか知らないが、麻薬に依存していることは間違いない。黒澤がわざわざ麻薬依存者の末路を本作で描く気になったのは、大部屋俳優や俳優に憧れて映画ないし芸能界にやって来る若者が、ごくごく一部の成功者とは違って、麻薬に溺れ、誰にもほとんど認められずに世間から消えて行くことをほのめかしたかったからではないか。つまり、一流の監督や俳優が属する天国に対し、そこには入れなかった無名が沈む地獄がある。これは今でも全く変わらない。また天国にいるような有名人でも麻薬使用者はいくらでもいて、彼らの中には沢尻エリカのように麻薬がらみの不祥事で名声を失う者がままいる。彼女には本作に登場する麻薬中毒者の女のように地獄のズタボロの様子は皆無だが、禁断症状が出た時にどのような形相になるかは誰にもわからない。またそういう状況になるまで麻薬が手に入らなかったことはなかったはずだが、彼女は今後も禁断症状を味わわずに済むほどに頻繁に麻薬を摂取し続けるか、あるいはいずれ本作の麻薬中毒女のように見るも無残な化け物のようになるか、これは誰にもわからない。ひとつ言えるのは、麻薬を経つことはほとんど不可能で、また彼女は今後確実に老けて、美貌などすぐに消し飛ぶ可能性が大きい。そして、彼女がいたということもほとんど誰も記憶しない。先日「風風の湯」で82歳のMさんは女優の嵯峨美智子がやくざによって麻薬中毒になったことを言ったが、有名女優でも麻薬中毒になる実例を残した。沢尻が嵯峨美智子ほどの数多くの映画に出演し、演技を印象深いものに出来るかとなれば、もう全く無理な話で、半世紀後に名前が残っていることさえ疑わしい。美空ひばりを例にしてもよい。芸能の世界は本人がいなくなればすぐに忘却される。
梅宮辰夫の言う「いい女」は、基本的には男につごうのいい女で、簡単に口説けて寝てくれる相手だろう。そういう女は今でもいるところにはたくさんいる。これは30年ほど前のことだが、太秦の撮影所の化粧担当室に美容師として勤務していた30代の女性が、梅津にアパートを借りた。かなり個性的な美人で、近所の土地成金が息子の嫁にほしいと言い出した。彼女は無一文で、どういう経緯か忘れたが、筆者の家内がその存在を知り、布団がほしいという彼女の言葉を聞いて古いものを手渡した。その布団の模様を筆者はよく覚えている。長く使っていたことと、その布団が後日道路脇に投げ棄てられ、雨に濡れているのを目撃したからだ。理由は知らないが、彼女は町内にいられなくなったのだ。彼女の顔を一度だけ見たが、筆者にとって初めての人種と言ってよく、その容貌や立ち振る舞いをよく覚えている。いかにも派手好みな、場末の飲み屋の女将風情で、馬鹿な男を次々と手玉に取って金を絞り取り、一方でやくざの女になって毎日を面白おかしく過ごして行く風に見えた。そういう女でも、いやそういう女こそ、「いい女」と思う男がいる。ごくたまに彼女が今どうしているかを思う。皺くちゃになっているか、もう死んでいるだろう。誰も彼女のことを注目せず、存在したことも覚えていない。芸能人には承認欲求が強い者が多いだろう。他者の目によって生きた心地を味わい、孤独を忘れようとする。承認が得られないことは地獄の苦しみで、誰かに注目されたく、かまってほしい。それは生まれ育ちに原因があり、ひとつの病気だが、そういう人が芸能界の人気者になって山手に住み、本作に登場する名の知られた一流俳優になる可能性は万にひとつだ。興味深いことに、本作の主役の三船を除けば最も出番が多い仲代と山崎は、ふたりともやがて日本を代表する男優になった。これは本作当時から目立っていたこともあるが、本作後の努力が実ったからだ。麻薬の中毒になっていれば嵯峨のように早死にしていたであろう。黒澤は本作で重役が中卒の叩き上げであるという設定にしたが、同じ才能と努力があっても誰もが同じ地位に上り得ることはない。そして天国にも位があり、またいつ地獄に落ちるかわからない。また天国にいる者からは地獄と見える底辺の社会にも、麻薬や売春と無縁で地道に働く者が大勢いる。それゆえ、天国と地獄を本作のように経済的に裕福かどうかで分けることに筆者は大いに反対するが、本作の俳優陣から見え透く有名と無名の対比からは、黒澤が俳優たちを、たとえば職工とは違う人種として冷静かつ冷酷に見つめながら、俳優に考える力とそれを演技で表現する才能、つまり芸能界の派手さとは無縁の地道な努力を求めていたのではないかと想像する。だが、中卒が天国にいて大卒が地獄にという経済格差の現実は今もあって、人間は何を幸福と感じて生きて行くべきかを思う。
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