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●我が子を食らう悟る盗人
であったことがそうでなくなると常識が変わるか言えば、どれほどの地域と時代のことかで違って来る。正月休みに去年から見ようと思って用意していたビデオがある。



『楢山節考』だ。昔から気になりながら、去年ようやく思い立って中古ビデオ・テープを買った。ところが筆者は本やCDでも、買っても10年以上そのまま封も切らないことが多い。この物事の諸段階は厄介で、思いつく、入手する、消化するという三段階を経て完全に納得するかと言えば、その後に感想をブログに書きたくなったり、あるいは別の思考の足しにしたりするなど、最初の思いつきからいくつもの関門を通る。それはさておき、『楢山節考』を見たいと思う理由は、筆者の母が歩けなくなり、人の手を借りなければ生きていけず、そういう人は江戸時代の貧しい農民の間ではどのような最期を送ったかと考えるからだ。『楢山節考』の主題である姥捨て山の話を筆者が母から聞いたのは、小学生になるかならない頃だった。世の中にそんな残酷なことがあるのかと恐怖したが、大人になって江戸時代の農村では人口が一定に保たれ、それは生まれて来る赤子を間引いていたからだと知って、姥捨て山の話は事実と思うようになった。それに、現在の養老院、介護施設は形を変えた姥捨て山のようなもので、家族が動けなくなった人を身近で世話せずに、離れた場所に追いやる。とはいえ、それも仕方がない。よくTVで報じられるように、老夫婦の片方が寝た切りになると、介護疲れから殺害して自分も死ぬことになりかねない。筆者が筆者の名前を忘れてしまった母に対して昔と変わらぬ思いを抱いているかとなれば、あまりそんな自問はしないが、おむつの交換で母を胸に抱いたり、また車椅子に乗り下りさせたりするスキン・シップを通じて、あたりまえのことだが、物ではなく、母という実感がある。また毎月のことだが、母が自分の家に一時帰宅した夜は、母のベッドの下に筆者は寝ることにしていて、夜通しベッドに座って起きている母が時に声を上げると、筆者は畳に下している母の足を触る。子どもがするようにじゃれつくのだが、母は迷惑がって必死に両手で筆者の足を動かそうとする。その戯れは母には迷惑だろうか。そうかしれないが、筆者にすれば五感の刺激によいと思っている。そのような親子の戯れは、母は数十年ぶりのはずで、また肉親であるからこそだ。それに、驚くべきことに、灯りを消した深夜の暗闇でそういう戯れを小1時間も繰り返していると、母は何度も自分の膝や足の甲に乗って来る筆者の足の裏を最後には指でくすぐる。つまり、くすぐれば足は一瞬で動くことを知っているのだ。その瞬間筆者は笑いの叫び声を挙げるが、傍から見ると何と親不幸な息子と映るだろう。だが、親子だ。母が内心仕方ないと諦めながら面白がっていることはわかる。
●我が子を食らう悟る盗人_d0053294_12344880.jpg そういう形のスキン・シップでも、ないよりはるかにましで、肌を直接触れ合って相手の体温を感じることは人間に欠かせない。誰かを抱きしめたいという思いは愛情があってのことで、さびしさに震えている者はすべてしっかりと抱きしめられるべきだ。だが、『楢山節考』では息子が老いた母を背負って山に捨てに行く。ひとりでも食い扶持が減らす必要のある貧しい時代で、産まれて来た子どもでも密かに、また暗黙の了解として捨てられた。子どもを棄てることは現代でもよくあって、堕胎もその部類に入るだろう。ところで、大晦日辺りに急に思いついたことだが、ゴヤの「黒い絵」の1点「わが子を食べるサトゥルヌス」がぼんやりと浮かんだ。「黒い絵」は気が滅入る絵が10数点あって、その中には両足を地面に埋め込まれたふたりの男性がこん棒で殴り合う絵や、砂地獄に首まで嵌った悲し気な犬の絵があって、特にどちらかが死ぬまで戦いをやり抜く様子を描く前者は、筆者はこれまで描かれた絵では最も凄惨なものと思うが、SNSで不毛の意見を対立させているのはその絵と同じと言ってよく、やはり現代は昔と何も変わらないと思う。「わが子を食べる……」もあまりに有名で、目玉をむき出しにした老人が小さな人形状の肉体の頭部や肩を食いちぎっている。血の色が生々しく、目を背けたくなるが、これを寓意と見れば、同じことは現代の日本では無数に生じている。まず日本の政治がそうで、次代におおきなつけを残して政治家はやりたい放題だ。これではどのような名宰相が出て来てもまともな状態になるのは1世紀を要する。政治がそのように子どもを食べ尽くそうしているのであるから、一般人もそうで、まず子どもを産みたくても結婚出来ず、結婚しても産めない経済状態だ。ゴヤが自分だけのために描いた「黒い絵」の本当の意味は誰にわからないが、現実の、社会の狂い加減に辟易したのは間違いないはずで、当時のスペインは現代と同じほどにグロテスクであったのだろう。ゴヤの「わが子を食べる……」はギリシア神話を描いているとされるが、食べているのが「わが子」ではないかしれず、また「サトゥルヌス」とも断定出来ない。ただし、巨人が小さな人間を食べていることだけは確かで、権力者が市民を蹂躙していると読み解いたほうがいいのではないか。そう考えるほうが、両足を地中に固定したふたりが殴り合いをしている様子もある暗喩で、時代に応じて読み替えが出来る。力のある者が弱者を食べるのは資本主義の本質で、また現在日本で言えば、たとえば教師が児童を盗撮したり、強引に性行為したりすることだが、学校に限らず、あらゆる上下関係にはびこっていて、先ごろも女性ジャーナリストが民事訴訟で勝った事件もあったが、権力を持つ者はゴヤが描く「わが子を食べる……」の狂人のように巨大で手に負えない。
 「サトゥルヌス」を「悟る盗人」と無理に訳語を充てれば、ゴヤの「わが子を食べる……」は意味が絞られる。悟るのは悪い意味の場合もあって、こうすればうまく盗みが出来ると確信する者はいつでもどこにでもいる。それが子どもへの反面教師になればいいが、「親の顔を見たい」という表現があるように、世間は子どもの悪行は親の躾によると見がちだ。ところが、去年見た無声映画意『雄呂血』のように、世間では立派な大物と思われている人物ほど裏では悪事三昧で、これも古今東西、またいつでもそうだろう。それで他人の物を盗む程度の小悪人は出来心ゆえとひとまず問題視せず、巨悪がわが子あるいは子ども全般、さらには民衆を食べる盗人と捉えたいが、現実的にそういう巨悪があるとして、民衆はどう抵抗出来るかとなると、革命なのだが、日本でそれが起こり得るか、また起こす必要がそもそもあるかと考える民衆がいるか。筆者が先日ぼんやりとゴヤの「わが子を食べる……」を思い浮かべたのは、後日書くつもりでいるが、全く別の理由が本当はある。その一方で、「わが子」やまた自分より若い世代、さらには自分も含めた民衆といったようにいくつも思う段階があることに気づいていて、正月早々胸騒ぎを覚える。それは何らかの作品化につながる契機と感じるからだが、そういうもやもやを歌詞にすれば独特な曲が出来るのではないかという気もしている。ま、その話はここまでにして、「わが子」を食べるのではなく、「わが親」の世代を食べるべきで、そうでない限り世代は継がれない。それで『楢山節考』の悲しい習わしもあったが、筆者は「わが親を食べる」を文字どおり食べろと言いたいのはもちろんなく、上の世代の業績を鵜呑みにせず、破壊して新たなものを打ち立てよと言いたいのだ。ところが充分食べず、したがって栄養を吸収せず、結局自分の子を食べているも同然の行為に終始していることが多い気がする。かなりオブラートに包んだように書いているが、親世代の業績を貪欲に吸収しない限り、自分も子どもを食べ尽くしてしまうことになるという警告だ。これはたとえばゴヤの「わが子を食べる……」という暗い絵から何を考えるかという態度にも言える。ただギリシア神話の一場面をゴヤが描いたと考えるのは、ゴヤの才能の軽視だろう。偉大な作は常にいろんな見方をなされることを待っている。偉大な作を生み得ない作家でも、せめてそれくらいの思いはいつも抱いておくべきだ。今はシンガーソングライターがノーベル賞を取るという時代であって、わずかな言葉で人間の真理が表現出来ると認められている。とはいえ、繰り返すと、それには親世代を食い尽くす覚悟が欠かせない。それは親世代をよく知ることが前提で、それから未開拓な荒野を切り拓くことだ。だが、現実は「わが子を食べる悟る盗人」的行為が多いように見える。

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by uuuzen | 2020-01-06 23:59 | ●新・嵐山だより
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