税金の支払いが増し、収入も増えるのであればいいが、高度成長期の日本と違って今は税負担が重く感じられる。特に若者がそうで、将来の具体的な夢が描けず、刹那的に生きる者が多いだろう。

そういう連中を慰めるためにスマホが登場し、さらに無為な生活態度に陥らせる策略が功を奏していると言えば、個人の生き方は自己責任だという声が上がる。去年の初め頃、梅津の従姉がこんなことを筆者に言った。「男がひとり働いて家族を食べさせられるだけの収入がない世の中はあかんと思うわ」。従姉が若かった頃は確かにそういう社会で、結婚すれば妻は家事に従事するのが普通であった。筆者は家内と暮らし始めた時から共働きで、「頼りない男で不甲斐ない」と親類からしばしば揶揄された。それで経済状態に応じて子どもはひとりだけもうけたが、「貧乏子だくさん」は昔の話のようで、筆者の周囲を見る限り、経済力と子どもの数は比例している。梅津の従姉の娘が大阪に嫁いで共働きながら子どもを3人産み育てていて、結婚せずに5000万円以上のマンションに住む同世代の従妹のことを、「独身でいくら経済的に豊かでも、子どもがいて家族で楽しいほうがどれだけいいか」と母に話したことを、筆者はその母である従姉から耳にした。去年はまた陸上の棒高跳びを練習しているという大学生になった従姉の息子の子どもを3,4年ぶりに見たが、寝転んでスマホ・ゲームばかりしていたあの子がこれほど礼儀正しく、見事に成長するものかとその逞しさに驚愕した。子宝とはよくぞ言ったもので、その子の幼ない頃から現在に至るまでを知っている筆者は、人間が作ることの出来る最高の作品は子孫以外にあり得ないことをその時に思った。素晴らしいと言われる芸術作品を作っても、それが作者の没後になお評価されることはきわめて稀だ。もちろん、子どもがみな立派に成長するとは限らず、賢者が愚者を産むことはしばしばあるが、その反対も多い。筆者は自分の遺伝子を残したいと思って子づくりしたのではないし、また孫の顔を見たいということもないが、従姉の娘のように、貧乏でも楽しい家庭を知ってほしいとは思う。人間は30代半ばになればその後は同じ考えで同じように行動して60、70になった時の姿が見えているものだが、本人だけはそう思わずに「まだ大丈夫」などと呑気にかまえている。30年など、あっと言う間に過ぎ去ることを30代半ばでは知らない。さて、今日の画像は大晦日の夜に作り上げた左右対称の切り絵を年賀状の図案として構成したもので、出来は全くよくないが、作り直す気力がない。明日には刷って宛名書きも済ませたいが、体調を崩した。今日の投稿の題名はネズミの「子(ね)」と「子ども」をかけているが、ネズミを白くしたのは、色がついていればドブネズミを思わせることと、大根の白に応じてのことだが、家内は「女体盛り」を連想させて卑猥と言う。ばれたか。