積もり積もった思いというほどのものではないが、平安画廊の中島さんが亡くなってから10年以上も経って永観堂の「みかえり阿弥陀」の実物の前に立つことが出来た。「えぇーい、行かんどう!」と思っていたのではない。
京都市内に住んでいても訪れたことのない場所は多い。それで今秋はブログに書いたように市内の初めての道をいくらか歩き、楽しい思い出になった。筆者は用事がなければ遠出はせず、その用事もあまり遠い場所であれば行きたい気持ちと交通費とを天秤にかける。また遠方であればかけた経費や時間の元を取りたいと思うが、それでも今年は東京や福島に行ったことを全部書いておらず、そうこうしている間に撮って来た写真のデータが記録媒体の故障で復元不可能になった。写真がなくても書けるが、写真があれば文章がよりわかりやすくなるし、福島や東京に行ったことはそうであった。ま、書くことはいくらでも湧いて来るので、取り返しのつかない過去は忘れる。永観堂で撮った写真は手振れして写ったもの以外は今日の投稿でほぼすべて投稿するが、昼間の拝観と違って夜のライトアップはどれも似た写真となってあまり面白くない。今日の最初の写真の上は境内の中央辺りにある中門で、ようやく入場出来るという5時1分ほど前のものだ。写真中央下に見えるこちら向きの女性は紅葉時だけのアルバイトか、筆者らの前の客と親し気に話し、秋田出身と言った。えらく遠方からで、よほどの京都好きかと思ったが、それを言えば京都の紅葉を見るために日本全国から人がやって来る。むしろ京都に長らく住む人のほうが京都の各地の名所に詳しくないだろう。「灯台下暗し」ではなく、「灯台下関心なし」で、誰しもなるべく遠くて珍しいところに行きたいと思っている。話は戻るが、筆者が行きたいところは自分が生まれる以前の遠い過去だ。またそれは著作や絵画などによって知る人物のことを知りたいためだ。それででもないが、昨日は筆者の死んだ知人について書いた。死者のことを筆者はあまり思い出さないが、思い出した時は何らかの事情で会わないだけで、死んだとは思えないと思うことにしている。そう言えば家内はたまに10年以上会わない知人の話をする。筆者は「もう死んだよ」と返すと、家内は「いつもひどいなあ」とお決まりの言葉を発するが、筆者にすれば長年会わないことは死んだも同然で、また死は生きていて長年会わないことでもある。「風風の湯」の常連は筆者以外は7、80代だが、みな「4,5週間姿を見ないなと思ったら死んだと思ってや」と笑いながら話題にする。実際は転居したり、別の銭湯に通うようになったりする場合があるが、姿を見ないことは死んだと思ってよいということだ。死はそれほど特別なことではなく、どこかで生きていると思えばよい。ただし、それは一緒に暮らしている相手でないからだ。
最初の写真の下は中門から先へと入ろうとする瞬間に左を向いて撮った。門柱に聯の白い文字があって、禅寺のようだ。また永観堂は禅林寺が正式な名前で、禅宗かと思うと、五山には含まれず、禅寺であると聞いたことはない。入門寺前にもらったパンフレットの表紙には「浄土宗西山禅林寺派 総本山」とある。内部の説明によれば、弘法大師の高弟・真紹僧都が清和天皇から寺院建立の許可を得、禅林寺という名を賜った。つまり、最初は真言密教の寺であった。寺が大きく発展したのは、永観律師の時代で、境内に恵まれない人々のために施療院を建てるなどして、寺は永観堂と呼ばれるようになった。鎌倉時代の住職、静遍僧都は念仏を唱えるだけで救われるという浄土宗の教えに反発し、自分が正しいことを証明するために法然上人の書物を繙くと、自分が間違っているのではないかと思わせられ、やがて念仏の教えに帰依し、法然上人の愛弟子の証空承認を次の住職として招いた。その後、法然上人を宗祖とし、証空上人を派祖とする浄土宗西山禅林寺派の総本山となった。「風風の湯」の常連のTさんは真言宗の僧侶の資格を持っているが、浄土真宗の僧侶がたまに山岳信仰の修行にやって来ると、あまりの肉体の酷使に音を上げることが多いそうだが、中には真言宗に鞍替えする人もあるそうだ。そしてTさんが言うのは、厳しい修行を伴なわない仏教の宗派は堕落するとのことで、弘法大師の偉大さをとく口にする。真言宗から浄土宗に変わった永観堂が特別珍しいことなのかどうか知らないが、禅に因むかのような「禅林寺」という名称の由来を知りたいところだ。法然が力を持っていた時、その人間的魅力は圧倒的であったはずで、そこに静遍僧都が唸るほどに惚れたのであろう。その魅力は同じことを目指している人だけに敏感に伝わるものではなく、宗教人は特にオーラが大きく輝いていて、多くの人々がそれを感じるのだろう。どの分野にもそういう人は出現するが、その一方、恰好ばかり、口先だけは人一倍の輩もいる。またそういう連中に惚れる俗物が大量にいて、放送やネットの出現でその傾向が加速化した。「目立ったもん勝ち」の価値の重視は本末転倒で、真に勝っているゆえに目立つべきだが、永観堂の歴史からは、鎌倉時代には法然の教えが空海のそれよりも世情にかなっていたことがわかる。毎日肉体を酷使して働くだけの文盲の人たちが、修行して立派な人間にならねば極楽往生出来ないとなれば、それはあまりに不公平で、仏は身分差やそれから生じる人生の質の差を肯定していたことになる。ところが、現代の日本はかつて1億総中流と言われ、豊かさから宗教を必要とせず、また他力本願を「努力しなくてよい」という勝手な解釈をする者がいて、メディアによく登場する有名占い師、つまり似非宗教家が僧侶の役割を引き受けた。いつの時代でも末法と見ることは出来るが、現在の日本は真にそうであろう。
もっとも、永観堂の紅葉を見物に訪れる人はその鮮やかな色合いを期待し、禅寺であろうが真言宗であろうが浄土宗であろうか、大半の人は関心がない。もちろん筆者もその部類だが、実際に訪れてこうして思いを書く段になってパンフレットを読むと、意外なことがわかって面白い。さて、最初の写真の上の奧に見える建物は天龍寺の法堂に似ているが、鶴寿台だ。そこまで直進の石畳の通路があって、またそれは途中で右手へと分かれていて、拝観者はその上を歩いて東へと向かう。今日の2枚目の写真は入場したみんなが一斉に南へ走って行くのにしたがって向かった先で、釈迦堂前にある大きな放生池を見下ろしたものだ。水面がわかりにくいが、ライトアップされた紅葉が池に反射して鏡合わせに見えていた。3枚目の写真は2枚目の撮影位置から反対の東を向いて撮った大玄関で、山手に多宝塔が見える。4枚目は墓地を除けば境内南端の阿弥陀堂で、下は奧にわずかに「みかえり阿弥陀」が見えている。ネットでは近くで撮影した写真が出ているので、撮影禁止ではないかもしれない。また筆者の当てにならない直感だが、この阿弥陀像は元来首が正面向きであったものを、何かのつごうで左向きに据え直したものではないかという気がした。その物珍しさによって有名になれば言うことなしで、実際永観堂は楓の紅葉ととともにこの阿弥陀像でよく知られる。思っていたよりも小さな像であったが、像は囲いがあって向かって右横側に網目の四角い窓がついていた。靴を脱いで堂内に入った人は交代でひとりずつその窓に導かれ、そして接近してこちらを振り向いて見下ろす阿弥陀と対峙する。黄金色で、また像には光が当てられているので、おそらく夜間は特に神々しさに満ち、誰しもそのご対面に満足するだろう。家内もごくわずかな時間だが、阿弥陀と一対一で対面出来、そのことに感激していた。そこで思ったのはカトリックの懺悔室だ。映画で見ると、神父は懺悔する人と話すために小さな木の窓を開け、網目を隔てて話し合う。「みかえり阿弥陀」はそれと同じ効果がある。真正面に対峙すれば威圧的に感じられるところが、振り返って見つめられているというありがたさに変わっている。それは親しみであって、それを表現するには阿弥陀の首を横向きにし、人々は側面から拝むことにするのが効果的だ。とはいえ、その考えで最初からこの阿弥陀像が作られたのであれば、ひとつの有効な型として同じものがたくさん作られたのではないか。それがないとすれば、やはり最初は正面向きであったかもしれない。こうした話を平安画廊の中島さんとすれば楽しかったであろう。なぜ彼女と永観堂の話になったかは忘れたが、彼女は北賀茂に住まいがあり、永観堂のある辺りにはめったに行かなかったのではないか。それはともかく、中島さん、ぐずぐずして夜になってしまいましたが、ようやく永観堂に行って来ましたよ。