樟葉に住んでいたKさんが亡くなって3年ほど経つが、たまにまた筆者の家にやって来るような気がする時がある。葬式に参列したこととは関係なしに、人の死は実感が伴なわない。
夢にたまに出て来るとなおさらだ。家内は姉や父母など、最近よく死んだ肉親が生々しく出て来る夢を見る。懐かしがっているからかもしれないが、そうでもないだろう。筆者は昔ブログで夢日記を書いていたことがある。不思議なもので、文字にするとそのことをよく覚えている。また夢であるので、覚えていてもどうでもよく、何の価値もないが、それを文章にして他者が読めば、筆者が見た夢とはおそらくかなり違う映像を想像する。その受け取り方の微妙な差に文章の面白さがある。文章は曖昧で正確なことが伝えられず、フィルムやビデオなど、記録した映像は問答無用で誰に対しても同じ情報が伝わると言う人があれば、考えが浅い。映画や録音された音楽は、言葉の曖昧さとは違う断定的な性質によって、受け手は想像を広げる余地が少なく、その意味で面白さの度合いは文学より少ない。同じ言葉を何度も聞くと飽きるし、それは同じ映像や音楽でも同じだが、言葉をよく記憶することとは違って、映像や音楽の記憶はその全体を鮮明に記憶することは難しい。それで誰しも映画の一場面や音楽のある個所を長らく記憶するが、今はパソコンを使えばそれを他者に伝えることが出来ることとは違って、睡眠中に見た夢を他者に伝えるには言葉しかなく、それで筆者は夢日記を書いていたところがあるが、夢の出鱈目さを思い出して書き進むと、精神が不安定になって来る気がよくした。それで今は奇妙な夢を見ても気にしないことにしているが、覚醒している時でもその奇妙さに似た感覚を味わう時がある。それは他者と話をしていて、その人の性質が自分と波長が合わないと感じた時で、その人には筆者がとても想像出来ない「睡眠中の夢」に似た考えや性格、つまり筆者にとっては出鱈目で無価値なことがあることを思う。もちろんそういう人とはもう会いたくない。人はみな違うので、誰と話しても完全に気分が調和することはないが、程度の差がある。Kさんは政治の話が好きで、その点は筆者とは噛み合わなかったが、2、3か月に一度、午後3時前後に和菓子持参で予告なしに急にやって来て、筆者は仕事の手を休めてよく談笑した。そういう人がいなくなったさびしさを家内がたまに話題にするが、そういう時筆者は、筆者が誰かにとってKさんのような存在で、死ねばごくたまに懐かしがってもらえるかと、夢の話のようにどうでもいいことを連想する。そういう誰かは家内や息子が第一だが、筆者とKさんとの間柄のように、親しい他人の場合はもちろんあり、また大いに嫌悪する他者が忘れられないこともあって、そういう連中からの無意識の呪縛を解くには、長編小説に登場させて厄払いをする必要を思う。
先月17日、関西文化の日として、京都梅小路にある鉄道博物館が夕暮れの5時から入場無料であった。無料であるから出かけたものの、筆者は全く鉄道マニアではなく、プラットフォームなどで電車に向かってカメラをかまえている人の気持ちがわからない。筆者が何か撮影するとすれば、まあ花だ。あるいはそれになぞらえ得る美女だ。10年数前に親しかったあるクリーニング店の主の趣味が美女の撮影会で、店内に20代の美女の写真がたくさん飾ってあって、中には受賞作品もあった。引っ越す際、それら大きく引き伸ばした写真を処分するのに、ほしいのはないかと訊かれたが、1枚ももらわなかった。今も顔を覚えているひとりの女性は、薄幸さが印象的であった。彼女はもう40を超え、撮られた写真はゴミとなった。筆者は美女がいれば顔を描かせてもらいたいが、そう言えば長らく女性の顔を描いていない。さて、今日の最初の写真は京都駅からひたすら西に進んで、
7年前に夜間の紅葉を見た梅小路公園に着き、鉄道博物館はどこかときょろきょろすると、道路のすぐ向こう側に見えた。列に並んだのは5時10分前だ。無料となれば家族連れで出かける人は多く、以前入ったことのある鉄道マニアも訪れる。筆者は息子が2歳頃に家族3人で出かけて以来だ。当時出かける前に息子は言うことを聞かず、気に入りの黄色の長靴を脱ごうとせず、真夏であるのにそれを履いたまま出かけた。当日のことはそのことを最もよく覚えている。記憶は夢と同じで、どうでもよいことばかりと言ってよい。長く生きると身辺にガラクタが集積するが、頭の中も同じで、こうして書く文章もそれに相似する。ゴミか骨董品になるか、それは読み手が決めるが、その読み手はほとんどいずれゴミとなる。話を戻す。梅小路操車場は当時まだ国鉄時代で、現在のような洒落た建物はなく、煤だらけの印象が強かった。蒸気機関車を方向転換させる回転台は正式には何と呼ぶのか知らないが、きれいに保存されている。先週書いた川端龍子の展覧会には、龍子の弟子の松宮左京がその回転台を横長画面に描いた戦前の作品が展示された。この回転台は日本にいくつあったのだろう。残っているのはここだけではないだろうか。線路がこれほど多く円の中心に向かって集まる眺めは圧巻だ。息子を連れて行った時もこの回転台が目当てで、これを背後に写真を撮り、また息子を機関車の運転席に乗せて操縦桿を握らせたりした。今日の2枚目の写真は上がかつて息子と訪れた時のままと思える。下の写真は反対側を向いてのもので、線路の末端に植え木箱が置かれ、人生最期の入棺時を思わせる。3枚目は新しく建った展示館への階段を上り切ったところで見下ろした。息子を連れて行った頃から35年ほど経ち、またその時の真夏の昼間と違って真冬の夜だ。息子が結婚して孫が出来ればまた行くかもしれないが、夢のような話はしないでおこう。